2017年2月23日木曜日

ヘルマン・ヘッセと中学国語教科書〈1〉

中学国語教科書(光村図書)
 私はいったいいつ、大人になったのだろうか。少年としての子供が、大人として振る舞う少年となり、そして大人としての大人に成長していく過程のそれぞれの兆しは、いったいいつ、どのようにして顕れたのであろうか。
 そんなことを思うのは、大人としての大人になりきれない、少年としての大人のわだかまりが、私の身体に未だ燻っているからである。成長とは、育って成熟すること。しかしその成熟という意味が、様々な文学を通じて、別の意味にあるのではないかということが、ようやく分かってきた。私は、己における大人への成長の道程を、たどたどしくも文学の側面から掴み取ってみたいと思ったのだ。

 私にとっての成長期、すなわちその中学校時代は、大人として振る舞わなければならない(大人になることを過度に要求された)自己意識の緊張感を、最も強いられていた過酷な3年間であった。それはほとんど明るみを帯びない暗闇の内の瑣末と言っていい、まったく何事にも羽ばたく勇気を持てなかった徒労と怠惰の時代であり、唯一、私が夢中になり得たのは、演劇と音楽に対してだけであった。
 このことには多少の誇張がある。だが、小学校を卒業する頃には既に、“少年として”の子供として月並みな、惜別や失恋、裏切りや拒絶といった対人関係における幾十の痛苦を身体に染みこませていた私は、中学校という新たな環境への免疫力が著しく減退していた。ここではもっと、その痛苦を味わわなければならないのかという重い恐怖があった。勉強する意欲を半ば失い、ただただ好きな演劇と音楽に夢中になるのが関の山で、学校の中の様々な活動を億劫に思っていたのは事実であるし、いちいち怠惰な態度をとり、能動的な学校生活というものを“ありふれたかたち”としても、送ることができなかったのである。
 そうした徒労の3年間を、私は今、とても後悔している。親身にそれを支えてくれたであろう文学が、そこに有っただろうに――。

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谷川俊太郎「朝のリレー」
 ここにある中学国語教科書が、当時私の母校で使っていた教科書ではなく、あくまでその状況に近い象徴的な教科書として意味があるとするならば、これを読むことで、当時私が何を読み落としてしまっていたかを探ることができるだろうと思った。
 これは元々、A子が中学1年で使っていた光村図書の国語教科書である(A子については、昨年「A子と教科書と魯迅」で書いた。A子は私より7歳年下である。これは平成4年2月発行の教科書であって、A子は私と同じ地元の学校を卒業したから、私もおそらくこれとほぼ同じ内容の国語教科書を使っていた可能性はないことはない)。
 面白いことに、中学1年の国語教科書というのは、小学の国語教科書の名残があるのだ。どういうことかというと、教科書の第1章では、まだ教科書体(小学校の教科書で扱われている子供向けの書体)のままで文章が記されている。第1章は、児童文学作家・杉みき子著の「あの坂をのぼれば」で始まるのだが、その書体は小学校で扱っていた懐かしい教科書体であり、中学の学習内容へ推移するにあたり、教科書としての難易な度合いを緩やかにしながら推し進めようという試みなのだろう。

 第2章になるとこれが、教科書体と明朝体を合わせたような、中庸の書体に置き換わる。この中庸の書体が、この中学1年の教科書の基本書体になっている。
 ちなみに、第2章は谷川俊太郎の「朝のリレー」という詩で始まる。この第2章から置き換わった中庸の書体は、例えば、筑摩書房の高校用の国語教科書の書体とくらべると、明らかに見た目が柔らかく、子供っぽい。字体そのものが大きく読み易い長所はあるが、先の厳然たる教科書体の名残を多分に引きずり、書体のみならず挿絵や図表などの表現の軟らかさを総合すると、中学1年の国語教科書というのは、感覚的に言わば、“少年として”の子供に与えられた、児童文学の体質なのであった。
 内容はやや文面的に大人びてはいるものの、それでも動物や植物などの自然や科学をテーマにした読み物が多く、第3章にあるアンリ・ファーブルの「フシダカバチの秘密」などを見ると、そうだ、確かにこうしたファーブルの読み物を読んだ憶えがある、と、思い出すのである。このファーブルが、とてつもなく少年の面影の匂いをリアルに思い起こしてくれる。中学1年という“少年として”の子供における、その視線の対象は、まだまだこうした自然の虫たちや動物といった外野の世界に関心が高かったのかも知れない。

 そうして、外野から内省へ――。
 この教科書の終わりの方、ヘルマン・ヘッセが登場する。ヘッセの短篇「少年の日の思い出」。ここで一気に、大人へのきざはしを予感させる。ヘッセの「少年の日の思い出」は、これも一つの児童文学の呈なのだろうが、少し暗く息苦しさを感じる作品だ。この紛れもない暗く息苦しいということが、純文学特有の気怠い潮を思わせ、子供にとって新たな対象の発見となり、それは「自己省察」を意味した大人への感覚の入口である。この話は次回に続く。

2017年2月21日火曜日

『洋酒天国』と温泉お風呂の話〈2〉

前回から引き続き『洋酒天国』第57号
 前回に引き続き、昭和38年5月発行の『洋酒天国』(洋酒天国社)第57号の紹介。今号は「温泉」&「風呂」大特集。

 この特集とは直接関係ないコラム、巻末の「東西バー通信」を読んでまず時代のノスタルジーに浸る。ここでは仙台市の会員制バーのサントリー・クラブだとか、横浜の港近くの小さなバー“H”が、ほとんどジョーク抜きで(半ば生真面目に)紹介されている。もう一つの店、新宿二幸裏の“A”というトリスバーに、私は思わず反応してしまう。バーの壁にジャズのレコードのジャケットが並べてあり、セロニアス・モンクの「Straight No Chaser」を聴きながらトリスを飲む云々…とあって、ちょうどモンクに夢中になっている私の今の脳内的情趣と合致する。

 “A”とは一体、どんなお洒落なバーだったのだろうと多少調べてみた。するとなんとなく分かった。新宿の二幸裏ということで名前が挙がったのは、ロール・キャベツで有名なレストラン「アカシア」。どうやらその隣の店がトリスバーならぬジャズ・バー「アカシア」であって、同名のレストランは親族が経営しているらしかった。レストランの方は今でも入れそうである。久しく訪れていない新宿の界隈を、独り歩いてみたくなった。

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「ミス洋天57号」ヌード・フォト
 第57号。あるページの、木目の扉の鍵穴の絵は、本当にわざとくり抜いてあってちょっと驚く。ページを開くと、小さく事務的な文体で、《軽犯罪法 昭和二十三年五月一日法律第三十九号…正当な理由がなくて…浴場…ひそかにのぞき見た者》というふうに日本の刑法が記してある。
 さらにページを開くと、そこは一面真っ赤っか。がらりと世界が変わる。《とは言うもののヌードはやっぱりイイね》と前ページに引っ掛けてジョークを掲げた「ミス洋天57号」のヌード・フォトの見開きである。

 モデルは不明。背景とバスタオルが同じ真紅で融合し、女性のなめらかな肌が見事に浮き上がって見える。やや俯き加減の視線は、左手の人差し指で左足の甲をさするあたりに向けられ、覆い隠しているはずのバスタオルが幾分ほどけ、右の乳房が露出している。この露わになった乳房の突起点と俯き加減の眼、そして左手人差し指の先の3つの点が三角形となり、この画の内側の調子、つまり肢体の均衡とロマンチックな曲線美の構図的関係を築き上げている。しかもこの見開きの印象としての真紅の色は、視覚的に非常に強烈かつ濃密で、まるで女体の子宮内部を連想させ、生殖の絵画的写実として卓越している。これぞ浪漫ポルノ。欲情を掻き立てられた男達はもはや、ここから視線をそらすことができなくなるのだ。

 そろそろ「温泉」&「風呂」の本題に入りたい。先ほどの子宮と言えば、この号の「温泉オンチ温泉通」(筆者は『旅』編集長の岡田喜秋)で“子宝の湯”について書かれてあった。《…よく子宝ノ湯というのも、女性の子宮の入口が一般に酸性であることから、逆にアルカリ性のつよい温泉に入れば、妊娠しやすくなるというのが原理で、伊豆の吉奈や、南紀の湯ノ峯、新潟の栃尾又などがとくに有名になったのだ》。――そもそもこれは、昭和30年代の古い記事であり、その科学的医学的根拠について素人の私には皆目判断がつかないのだが、そんな理由で本当にこういった効能があるのだろうか。興味深いと言えば興味深く、子宮をもたぬ男達は試す術がない。

 なんだかんだ言って、男はこの時代、「風呂」が大嫌いだったのではないか、そういう人が多かったのではないか、という推論がわく。写真とご本人のコメントを載せた「わが家の風呂」では、著名な4人の“わが家”の「風呂」が覗ける。当然、あの時代の「風呂」だから、少し雰囲気が昭和らしく古風である。
 作家の遠藤周作氏は「風呂」好きなので、大小の石を敷き詰めた旅館風の「風呂」。自宅風呂としてはさすがに豪奢だ。服飾デザイナーの石津謙介氏はタイル張りの「風呂」で眼を瞑り、煙草を吹かし、極楽気分。それでも裸になるのが面倒で身体を洗うのも億劫と書く。野球選手の徳武定之氏の「風呂」もタイル張り、ミニサイズにした銭湯風。彼は職業柄何度も「風呂」に入るし、生活の重要な段取りと説く。4人目は女優の倍賞千恵子さん。お「風呂」は大好き。愛犬とキャンキャン云いながら入っていそうな写真が掲載されていた。
 その後のページの作家・五味康祐氏の随筆「風呂ぎらいの弁」ではものの見事、男の反「風呂」派のエピソード。雄弁に嫌いな「風呂」について語られ、こうなると男は昔、むしろ「風呂」好きの方が少数派だったのではないかとも頷ける。
 第57号ではさらに、アメリカ人ジョン・ネイサン(ハーバード大、東大卒の日本文学研究家で知られるジョン・ネイスン)氏が初めて銭湯に入った際のドタバタ喜劇を綴った「銭湯に入った大胆な若者」が面白いし、心理学者・安田一郎著「覗きの心理」も読み応えがある。これはきわめて冷徹な内容でヨーテンらしからぬ随筆。「露出症」と「覗き」の話。

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大傑作の斜一八著「♨とは何ぞや?」
 一方で評論家・斜一八氏の「♨とは何ぞや?」は、ヨーテン的な内容のルポルタージュ。♨(温泉マーク)は今日、温泉のある場所を示した記号であるが、あの頃、それは連れ込み旅館を示すマークでもあった。いわゆるその♨旅館への、潜入体験ルポ。

 ここでの斜一八氏という人が、どういう経歴の評論家なのか調べられなかったのだけれど、やけに重々しい文体で、連れ込み旅館自体を未開の密林の如く“重く暗く”受け止めているのが印象的だ。だからかえって面白い。いきなり冒頭で《清潔・清純・潔癖 純粋・潔白》と熟語を書き並べている点で既に畏まってしまっている。しかもここに、“純潔”が加わっていないのがミソ。今どきでは信じられないことだが、この評論家は♨を訪れてまわることで、さも心のpurityと性的なvirginityを喪失する畏れを真剣に抱いているのであった。
 《私は今日許婚のK子を誘って》と表して、その旧自然主義文学的なルポが始まっている。千駄ヶ谷の♨、明治神宮を挟んで反対側の参宮橋付近の♨、それから新橋の♨。部屋の枕元に置いてあった“おみくじ箱のようなもの”のルポが特筆している。これって昔、ラーメン屋などで置いてあり、硬貨を入れるとおつまみのピーナッツ(南京豆)がコロリ落ちて出てくるあの小型の古めかしい自販機ではないか。無論そこではピーナッツではなく、100円硬貨を入れると“愛のセット”が出てくる。
 “愛のセット”。斜氏は“おみくじ箱のようなもの”から、マッチ箱のようなものを取り出した。箱の中に入っているのは、2個のコンドーム、ペラペラの紙に刷った荻野式避妊暦(私がいま使っている日本語入力ソフトでは“荻野式避妊暦”を“おぎのしきひにんれき”で変換できるように登録しますか?と促されたが固く却下した)、おみくじ(ここでおみくじが「大凶」と出たら、この後の愛のレッスンはどうなるのだろう?)、チューブ入りの説明書つき興奮剤。

 斜氏とK子は取材を終えて、Fというバーで会話をする。飲み物はトリスである。
 ここで斜氏は、K子にとくと談話をされる。大した話ではない。♨旅館は不潔でも不健康でもない、若い男女は住宅問題で悩まされているから、こういう場所を不倫な情事にかかわらず利用するのも手だ、というようなこと――。談話したK子は自分で感激し、斜氏もそれを聞いてしんみりする。感激としんみり。感激としんみり。斜氏の場合、しんみりというより本当は感涙(もしくは号泣)していたのではないか。
 涙ながらの談話。感激としんみり。感激としんみり。ラブホは不潔でも不健康でもないのよ。そんな話で感激してしまうK子。そして斜氏のしんみり。――そう言えば新婚旅行で泊まる旅館には、数え切れないほどのカップルが初夜を過ごす、それを不潔だと思う人はいない、♨は東京の「北ホテル」だ、いま私は悩んでいる、私とK子は♨に行くべきなのか、それとも行ってはならないのか。と、斜氏の悩ましい青少年の疑問符的結びで「♨とは何ぞや?」は閉じられている。―――おいおいおい。

 まさか、ヨーテンでpurityとvirginityについて哲学されるとは思わなかった第57号。大傑作と言っていい。
 ところで巻末の「東西バー通信」の手前で、ヨーテン登場としては貴重な大作家・瀬戸内晴美さんの「風呂」話が読める。練馬の小さな家に引っ越してきて大きな風呂場を拵えてしまってたいへん困ったという話なのだけれど、瀬戸内さん。そんな暢気な話を書いている場合ではありません。悩ましい青少年である斜氏さんをなんとかしてあげてください。と私は祈った。
 いきましょかいきましょかと瀬戸内さんが斜氏の手をつないで和やかに♨旅館に入っていく様を、思い浮かべた。顔色を青くした斜氏が、セイケツ!セイジュン!ケッペキ!ジュンスイ!ケッパク!と大声で叫んだかと思うと、千駄ヶ谷の駅の向こうに疾走して、市ヶ谷の駐屯地で泣き叫ぶのではないかと想像してしまった。そんな絵面を、漫画風にして誰か、銭湯の壁画にしてもらいたいものである。

 セロニアス・モンクの陽気で健やかな「Straight No Chaser」が、どこからか耳に届く。新宿に行くべきか、それとも行ってはならないのか――。

2017年2月16日木曜日

『洋酒天国』と温泉お風呂の話〈1〉

『洋酒天国』第57号
 今宵はヨーテン、洋酒天国。
 平素何事にも驚かず、世界の良からぬ事態にそわそわした素振りを見せない21世紀忠誠型タイプの学生、政治家、大富豪でも、昭和のこの“奇作・珍品・珍芸術”には唖然とするであろう。今宵はヨーテン、「温泉」&「風呂」大特集である。
 昭和38年5月発行の『洋酒天国』(洋酒天国社)第57号は、たっぷりと充実していてどれもこれも面白い。お伝えしたい内容を取捨選択してコンパクトにまとめるのが非常に難しいので、今回も2回に分けて紹介することにする。
 表紙は見ての通り、木目調の家具。ではなく、銭湯の脱衣所にある鍵付き脱衣箱。おそらくこの鍵に括り付けてある白色の“輪っか”は、ゴム製であろう。今ではヘアゴムのようなものが使われるが、この表紙にある“輪っか”は使い古しているせいか貧相で少し薄汚く見える。ともあれ、これを腕に通して鍵を無くさない仕組みが、日本の銭湯の気の利いた文化なのだ(と日本を訪れる外国人向けに書いてみた)。表紙で目立っているのは何と言っても、微妙に開いた扉に掛けられた、真紅のブラジャー(国産のブラジャーかどうかは分からない)。この女体から外されたブラジャーこそ、日本人殿方数千万人が共通して抱く、プチ妄想画である。
 ちなみに裏表紙は、脱衣箱の扉に掛けられた、殿方の腰からするりと外されたであろう、“赤褌”、ではない。颯爽として気品のあるサントリーの白札である。

グラビア「船橋ヘルスセンター」
 第57号の「温泉」&「風呂」大特集では、写真・田沼武能、文・村上兵衛による「船橋ヘルスセンター」のルポルタージュが白眉だろう。
 船橋ヘルスセンターは昭和30年11月に千葉県船橋市でオープンした巨大総合レジャーランドである。それこそ伝説、いや都市伝説ともなった夢の施設であった。太平洋の海に面した12万坪の敷地に、1万坪もある大小合わせて20の温泉施設。それ以外ではプール、ゴルフ場、ボウリング場、遊園地、遊技場、劇場などありとあらゆる娯楽施設を併合し、1日にのべ5万人弱の家族客やカップル、団体客が訪れていたという。三木鶏郎が作詞作曲したテレビ・コマーシャル・ソング「長生きチョンパ」はあまりにも有名である。

 高度経済成長期に突入した昭和30年代あたりから、働き盛りの人達が「家族サービス」(ご奉公)をする、その最も手堅く確実に喜んでもらえた手段が「旅行」であり、「温泉」であったと思われる。できうるなら、働いている自分自身へのご褒美もしたい。日本人はとにかく湯が好きだ。温泉が好きだ。船橋ヘルスセンターはそんな希望を関東圏に実現させてくれた。
 とは言え、残念ながら私は、船橋ヘルスセンターを訪れたことがない。昭和52年5月に閉園したこのレジャーランドをもし訪れたとなると、5歳にも満たない幼児の頃ということになる。が、あいにく実現しなかった。
 しかしなんとなくその頃、船橋ヘルスセンターの名前や噂は、耳にしていたかも知れない。今で言えば東京ディズニーランドのような、遊園地を超えた夢のレジャーランドが千葉にあるという些細な井戸端会議を、大人の会話から聞き取っていた可能性はなくはない。だから私はなんとなく、この在りし日の船橋ヘルスセンターに興味を持っていたのだけれど、ヨーテン第57号のルポでその全貌らしきものがようやく分かったような気がした。大方それは、自身の想像通りであった。

§

のど自慢、喧嘩、股引親父、豪奢な舞台設備
 結局、昭和45年の大阪万博のあの大フィーバーぶりを、スーパー銭湯版として置き換えてみれば想像しやすいのだ。ルポを読むと、当時船橋ヘルスセンターの入館料は150円で、子供料金は80円。館内の生ビールの値段が一杯100円とあるから、さほど高い入館料ではなかった。しかし、これだけの複合的な施設であれば、あちらこちらで金を使い、ほとんどの客が所持金を多く散財することは自明であり、そういうふうに知らず知らず財布の紐が緩む仕掛けが、方々にわんさかと用意されていたに違いない。
 何と言っても圧巻なのは、掲載写真にある、大広間でぐでんぐでんとなったおとっつぁんらの丸投げの、寝姿である。テーブルには空になったビール瓶、飲みかけの角瓶。その他飲み食いした後始末の悪いゴミがめっぽう散乱し、こんな背広姿で来るんじゃなかったと、当然酒を帯びて疲労困憊となってくりかえしつぶやく夢物語を――この後起きたら絶対、座布団とゴワゴワの背広のせいで背中や首をひどく痛くする――見ているのだろう。

これぞ船橋ヘルスセンター的光景!
 思わず笑ってしまえる写真ではある。が、笑ってもいられない。笑えない。これはいわゆる、「家族サービス」の成れの果てなのだから。サービスを果たし終えて満足する自分の心と、疲れ切った身体のどうしようもない痛みと苦しみとの合流が、この寝姿の真実だ。家族のため、あるいはもっと無味乾燥な思念――稼いで少しばかり豊かになった我が家の、束の間の優雅の象徴――のため、とは言いながら、現実には思いがけず散財した挙げ句、極楽気分を味わったであろうはずの湯の温かみでさえも忘却して、気がつけばゴミに埋もれた疲弊の肉の塊だけが、そこに横たわっている。これを無残と言わず何と称すか。無残やな、日本人。

 ところで編集発行人の開高健氏は、この年昭和38年の7月に発行された雑誌『週刊朝日』より、「日本人の遊び場」というルポを連載し始めている。今号で取り上げられている「船橋ヘルスセンター」のグラビア記事は、それに先駆けたもの、あるいは何らかの着想を得たものと思われるが、これを書いている時点ではまだそちらの随筆作品を読んでいないので、はっきりとしたことは言えない。いずれにしても、開高氏のこの頃の作家的嗅覚の一つが、まさに“日本人の遊び場”であったことの傍証ともなって、このヨーテンで素晴らしき「温泉」、素晴らしき「風呂」天国、といったような日本人独特の癒やし文化がテーマに挙がっていることは、その時代の少し見えづらい文化的ダイナミズムの移り変わりが感じ取れよう。
 湯と風呂に対して、ある種の古い観念だとか風習がまだ蔓延っていた時代の、その旧態依然とした面白さが、ヨーテン第57号によく表れている。次回へと続く。

2017年2月14日火曜日

続・FMラジオ音楽悦楽主義

番組8回分をCD-Rにして送っていただいた
 連夜、1980年のラジオ番組「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」の録音を聴いている。DJはジャズ評論家・いソノてルヲ先生である。いま私の中で盛んにジャズが鳴り響いている。何故このような“至福”なる連夜と成り得たか。事の発端は昨年末の当ブログ「FMラジオ音楽悦楽主義」であり、とどのつまりこれはその後日談となる。起死回生のジャズ乱舞は以下の通りである――。

 いソノてルヲ先生の往年のラジオ番組「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」(1980年夏、NHK FMの夜枠で、土日を除いた2週間にわたって放送された全10回のジャズ特集番組)が聴きたくて、ある個人サイトのオーサーにその依頼をして失敗に終わった経緯を、「FMラジオ音楽悦楽主義」で詳しく書いた。ところが今月初め、まったく別のオーディオ愛好家の方から、奇跡的なコメントをいただき、当方はラジオ番組「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」を録音したオープンテープを所有しているので、宜しければCDにしてお送りしましょうか、というのだ。私は突然の予期せぬコメントにたいへん驚いた。

 もう昨年の時点で、いソノ先生の声――すなわち先生のDJを聴くことは不可能だと思っていた。私がいソノ先生と出会ったのはかれこれ25年も前の話だ。その当時の講義は、毎回先生が持参したカセットテープでラジオ番組(もちろん先生のDJ)の録音を聴き、古き良きアメリカのポップスやジャズを回想するといった趣向であった。既にこのことは他の稿で繰り返し書いてきたので割愛する。ともかく先生のあの独特な甘い声をもう一度聴いてみたいという切実な気持ちから、先の「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」という番組を知る経緯に至った。

 そのコメントをいただいた方のご厚意に甘え、ほんの一両日中に録音テープをCD-Rにコピーして送っていただき、ある意味においては25年ぶりに、じっくりたっぷりと、いソノ先生の声を満喫することができた。“至福”であると同時に先生の往年のジャズ解説とその甘い軽妙なDJは、珠玉である。

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 送られてきたCD-Rメディアは、4枚に分けられていて、「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」の全10回のうち8回分が記録してあった。
 その内容を大まかに書いておく。1枚目が1980年7月23日放送の「トランペット」特集と24日放送の「トロンボーン」特集。2枚目が、25日放送の「アルト・サックス・ソプラノ・サックス」特集と26日放送の「テナー・サックス」特集。3枚目が27日放送の「クラリネット、フルートその他木管」特集と8月1日放送の「ベース」特集。そして4枚目が7月30日放送の「ピアノ」特集と31日放送の「ギター」特集となっていて、番組としてはさらに8月2日放送の「ドラム」特集、3日放送の「ビブラフォン、オルガン」特集と続いているが、最後の2日分の録音だけは欠落している。それでも私としては、この4枚で充分なヴォリュームであったし、先生のDJによる名解説が聴けただけでも有り難かった。

 去年あたりからトランペッターのフレディ・ハバードに関心を持っていた私は、この最初の「トランペット」特集の中でマイルスやクリフォード・ブラウンと共に、その彼の「Windjammer」を聴くことができたのはしごく幸いと思えた。何故なら、いま彼の1960年代頃の、マッコイ・タイナーやアート・ブレイキー、あるいは私の好きなエルヴィン・ジョーンズとの共演作に関心があって、どうしても1970年後半以降の彼の演奏は敬遠しがちな、おそらく今後後期の録音を聴く機会は好みの問題としてごく限られていると思われ、そうした意味でいソノ先生が初回で提示した、フレディ・ハバードの「Windjammer」を選曲していることは、そこに明らかな意図があったと受け取れる。しかし私にはまだ、その意図を理解することができない。それはそれとして、初回ではその他チェット・ベイカーやディジー・ガレスピーが紹介され、初回の最後はディジー・ガレスピーの「Poor Joe」を聴くことができ、私はまた彼のチャーリー・パーカーとの共作「Bird and Diz」の、とんでもなくお洒落なジャケットのリマスターCDを発見したりして、各演奏者への関心にいろいろ目移りしてしまっているのだけれど、それもこれもいソノ先生の自選と造詣の深い解説によるものであることは、言うまでもない。

 それにしてもジャズの世界とは、いやジャズを愛する者達の底知れぬ《愛情》とは、これほどまで深淵なものなのか――。番組の作りからその《愛情》がひしひしと伝わってくる。私自身はただただそれに圧倒されるだけだ。ビル・ハリスの「Crazy Rhythm」を聴けばジミー・ロウルズに興味を抱き、同曲を別の録音で聴くことのできるトロンボーン奏者のJ・J・ジョンソンに惚れ惚れとしたり、といったふうに枚挙に暇がなく、ジャズ狂における50年代から60年代にかけてのハードバップの桃源郷を耳で彷徨う。一回ぽっきりのジャズ番組ならともかく、この楽器毎に2週間特集し続けたという企画の洗練と先生の情熱、そして心地良いそのDJにすっかり陶酔し、遠のいていたジャズが瞬く間、目の前に月光となって降臨したかたちとなった。

 ところでこの「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」。全10回のこの特別番組とは異なるそれ以前の、1970年代のレギュラー番組として知れ渡っていた“名物ラジオ番組”でもあったようだ。そちらの番組の交代制DJの中には、やはりいソノ先生も参加していたという。むしろそちらで番組名が記憶されていたジャズ愛好家の方が多いのではないか。
 私は今回、試しにネット検索をかけて、あちこちのジャズ愛好家のブログを閲覧してみたのだ。すると2017年以降の“新着”の投稿としても、古き70年代の「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」の思い出話を書き綴ったオーサーの方がいて、その記憶の先鋭さに思わず唸りそうになった。
 凄まじくジャズ狂のラジオ・フリーク魂が顕在化しているのだ。果たしてこれは、ジャズならではの特異なことなのかどうか。はっきりとしたことはよく分からないが、少なくとも、音楽という広い世界の住人の熱量たるものは、その熱が時代の変化によってクールダウンすることが、どうやら永遠に無いようである。

 最後に、この場を借りて、「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」を届けてくださったオーディオ愛好家のY様にあらためてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

2017年2月9日木曜日

My Love Is Your Love

ホイットニー・ヒューストン『My Love Is Your Love』
 アメリカのヒップホップ系のミュージシャンであるワイクリフ・ジョン(Wyclef Jean)が、私と同い年の1972年生まれであるということを露程も知らなかったのは、恥じらいをもって深く省みるべきだ――と自分自身に警告して、私は彼のリリース間もない『J'ouvert』が届くのを心待ちしてこれを書いている。
 実はホイットニー・ヒューストンの命日(2月11日)の折に触れ、ワイクリフ・ジョンとジェリー・デュプレシス(Jerry Duplessis)がプロデュースした1998年の「My Love Is Your Love」について、ここで少し“陽気に”書くつもりでいた。が、どうもそんな気分にはなれない…。
 同年のホイットニーの通算4枚目であったソロ・アルバム『My Love Is Your Love』とそのシングル「My Love Is Your Love」。これが今、個人的なキーワードであることには変わりはないが、私は今、思いがけず《挫折》の心境を味わっている。どうにもこうにもうまくいっていない。しかし、あのアルバム、あの曲が、なんだか苦境に立たされた私自身を、静かに慰めてくれている気がするのだ。

§

 高校時代で思い起こすことがある。それは確かに「1990年8月」の出来事なのだけれど、18歳だったその頃、雑誌の募集広告で応募した私は、横浜の本牧にあったアポロシアターの“アマチュア・ナイト”に、ヴォーカリストとして出場したのだった。簡単に言えば、若手ミュージシャンやエンターテイナーの登竜門的オーディションである。デモテープを送り、しばらくして事務所から連絡があった。出場してみないかと。そこでは観客の拍手の度合いで優劣が決まるルールになっており、優勝者は本場ニューヨークのアポロシアターに行くことができる、というような目標が掲げられていた。
 今でも私は、その時のチラシやチケットを棄てずに保管している。それは良き思い出としてではなく、“最悪”の思い出として――。
 私はここで、それなりの《挫折》感を味わった。出場の際に用意した曲は、ホイットニーの「One Moment In Time」という曲で、リハーサルではまったくうまくいっていたのに、本番での歌い出しの時、マイクロフォンの入力がミキサー側でオンになっていないという“最悪”の状況に陥ったのだ。

当時の“アマチュア・ナイト”のチケット
 ステージにいる私はそれを自分で操作することは不可能であった。もちろんミキサーなどの音響機材は、そのスタッフと共に観客席の後方に陣取っている。とにかく私は地声でフォローし、歌い続けた。しかし、観客席まで声は届いていない。やがてマイクロフォンの入力がかろうじてオンになった時、既に曲の半分を消化してしまっていた。
 私はあまりの緊張で、自分が何を歌っているのか分からなくなっていた。そうしてヴォーカル・パフォーマンスが劣悪な状態で、観客の鋭い視線のみが感じられ、拍手が疎らにあったのか無かったのか、そんなことはともかく、既に私は歌い終えるかなり前に、自分の敗北をはっきりと受け止めていた。ステージを去り、控え室に戻って、昨日までの希望に満ちた喜びが嘘のように消え去り、劇場を出てどこをどう帰ったのかよく憶えていなかった。

§

 1998年にアルバム『My Love Is Your Love』がリリースされ、本来ならホイットニーの大ファンである私はそのアルバムを買わずにはいられなかったはずだ。ところがその頃も、そんなふうな気分ではなかった。ちょうどその頃、20代後半あたりの、自作の曲がまったく作れない、歌えないという暗澹たる道を、とぼとぼと彷徨っている最中であり、大スターが放つ新しい曲を喜んで聴く気にはなれなかったのだ。そう、その時も、私自身に《挫折》感が漂っていた。

 『My Love Is Your Love』はいいアルバムなのである。90年代のデジタル・レコーディングによるクリアで肉厚のあるサウンド。ホイットニーが最もセンシティヴにパフォーマンスを披露してくれた最高の時期のアルバムであり、先述したワイクリフ・ジョンの「My Love Is Your Love」は比較的素朴なアレンジながら、人の生き方というものの温かみと情熱を感じさせてくれた。私はこのアルバムを、ずいぶん後になって初めて聴いたのだった。

 ――ホイットニー・ヒューストンは「2012年2月11日」に亡くなった。亡くなった直後、私は深い悲しみに暮れることなく意外にも平然といられたのは、目の前に取り組んでいた、いや真剣に取り組むべき本物としての、自分自身の音楽があったからである。悲しみの感情がどこかでリズムとなりメロディとなって漂泊していったと言うべきか、とどのつまり、ホイットニーは自分自身の音楽の中にあるという強い確信があった。だからさほど深い悲しみに陥ることはなかったのだ。

 そうしていま私は再び、あの“アマチュア・ナイト”での出来事のように、どうにもならず何かによって一本の線が途切れ、《挫折》感を味わいつつある。どうすれば音楽は作れるのか、どういう状態であればそれは可能なのか――。
 ホイットニーがこの世にいないという寂しさが、今になってようやく、猛烈な勢いで体内を駆け巡る。血潮がほとばしるくらい。とうに過ぎたはずの悲しみが、風船のように膨らみ始めている。状況としてはやはり、“最悪”だ。

 決して比喩ではなく、“最悪”は“最悪”である。今の私自身もそうだが、遠いアメリカの環境も、どうやら危うく変化しそうである。先が見えてこない。自由の象徴だったアメリカの文化は、相当、深い危機感に晒されている。
 よその国は、よその国、とは割り切れない。それでも私自身は、ただ前に向かって歩く以外にない。「My Love Is Your Love」の曲が、そのホイットニーの歌声が、頭のどこからともなく流れてくる。そう、ワイクリフ・ジョンが共に登場した、1998年のデイヴィッド・レターマンのレイト・ショウでの「My Love Is Your Love」は、本当に最高のパフォーマンスだった。あれをもう一度、いや何度も聴き返そう。あの感動が私の中で、途切れそうになる一本の線をなんとかこうにか、食い止めてくれているのだから。

2017年2月7日火曜日

茨城の銘菓「水戸の梅」のこと

水戸銘菓「水戸の梅」
 たまらなく和菓子が食べたくなって、駅ビル内の菓子店に駆け込んだ。茨城名産の和菓子が並んでいる。迷うことなく「水戸の梅」を手に取った。「水戸の梅」は私の大好物の和菓子である。

 和菓子で好きな品を3つ挙げるとすれば、「水戸の梅」「吉原殿中」(この2つは水戸の銘菓)、そして山梨の名産「信玄餅」であろう。どれもこれも幼年の頃に初めて食べたのをきっかけに、すっかり大好物になってしまったのだけれど、そのうちの「水戸の梅」の印象は、かなり濃厚である。その頃たびたび何方かが、土産物として「水戸の梅」を持ってきてくれた。包装紙の絵柄の、梅の木を模した紫色が実に鮮やかで、私がこの世に生まれて初めて感応した紫色は、これなのではないかとさえ思う。紫は古代から高貴な色とされているが、私にとって紫と言えば「水戸の梅」の包装紙であり、その高貴なる色の連想は今も微動だにしない。

 買ってきた「水戸の梅」は、水戸に本社があるあさ川製菓のものである。創業は明治5年(1872年)という。この銘菓「水戸の梅」の由緒は諸説あるようで、製造元が二、三あるらしい。江戸時代の徳川水戸藩の記録にそのような菓子があってそれをもとに製造した、との言説もあれば、明治の県令によって考案製造したとの話もあり、なかなか銘菓の発祥に関しては歴史が入り組んでいてよく分からない。ともあれ、古くから水戸の名産の和菓子であることに変わりない。

「水戸の梅」の紫色の美しい矩形
 和菓子は見た目が大事である。あさ川製菓の「水戸の梅」は、良き色合いの紫蘇(しそ)の葉が実にしっとりとしていて、食欲を誘う。この矩形の造形の幾分丸みを帯びた美しさは、どこかで見覚えがある。――そう、思い出した。上野の博物館で見た国宝、尾形光琳作の「八橋蒔絵螺鈿硯箱」ではないか。いわゆるそうした硯箱の工芸品の高貴でふくよかな重厚感が、この菓子の形からも感じられ、徳川三家・水戸藩由来の名産に相応しいとさえ思う。

 味は、さっくりとかみ切った紫蘇の葉の食感と餡の甘さが絶妙で、和菓子として類がない。強いて言えば桜餅の桜の葉における食感がこれに似ているが、紫蘇の葉によるさっくり感はもっと繊細で精緻だ。この美しい紫蘇の葉に包み込まれている中身は、白餡と求肥(ぎゅうひ)である。求肥とは、こねた白玉粉に水飴や砂糖を混ぜて練ったもので、小学生の頃、初めて家庭科の調理の実習をおこなった時食べたのが、白玉粉をこねて湯に熱してこしらえた「白玉団子」であった。その話はともかく、この白餡と求肥の風味からは仄かに梅の香りも漂い、いっそう美味さを引き立てている。

 この冬の季節、茨城の空っ風というのは身に応ずるのがさすがに辛い。耐えがたき寒烈な強風が田園地帯を吹き抜けていく。私はこれを“田園海峡”と心に呟く。田園海峡で冷えた身体が悲鳴を上げ、この時期、どうしても甘い和菓子が食べたくなる。まったく「水戸の梅」は菓子にして風光明媚。とても美しい。いみじくも茨城県の質実剛健な気風をよく表した銘菓に違いない。

2017年2月3日金曜日

三島文学と『花ざかりの森』

新潮文庫『花ざかりの森・憂国』
 私にとって2017年を新しく迎えるということは、演劇『金閣寺』に出会うということとほぼ同義であった(演劇『金閣寺』公演については、当ブログ「演劇『金閣寺』追想」参照)。こうした刺戟的な演劇と文学への《邂逅》によって新たな年を跨いだことはとても有意義なことであったし、幾人かの者達との能動的な交流の果実とも成り得た。具体的に言えば、この数ヶ月間、久しく触れていなかった三島由紀夫の文学に接近していたのである。約20年ぶりの再読を余儀なくされていたのは、無論、原作の『金閣寺』であって、私はその演劇公演を観るための予備知識として原作を読み込み、かつて20代の頃に味わった三島文学に漂う仄かな薫香やらを思い出しつつも、その鋭く均整盤石に構成された美文調の文体に瞬く間刺戟を受け、今もなお、演劇『金閣寺』と三島文学のゆらめく焔とけむりの幻影が、私の体内で燻っているのであった。

 さて、私はいったいいついかなる理由で、三島由紀夫と向き合ったのであろうか。これが今となっては難儀な詮索なのだ。最初に読んだ新潮の文庫本が『仮面の告白』であることは間違いない。その文庫本の刷年が“平成4年”(1992年)となっているのを考えると、私がちょうど20歳を過ぎたあたり、それは演劇活動に夢中になっていた頃と重なるので、おそらく演劇的なものから何か発露して、衝動的に三島を読み始めたのではないかと思われる。突き詰めると、三島の戯曲作として有名な、美輪明宏(丸山明宏)主演の演劇『黒蜥蜴』の影響ではなかろうかと思わざるを得ない。

 いずれにしても最初の『仮面の告白』を読んだすぐ後、次々と文庫本を買いあさり、三島の作品に耽った。彼の小説の半数以上をその頃読んで“網羅”した気分でいた。ただそれがあまりにも周囲の関心を巻き込まない一元的な読書だったせいか疲弊し、あのとてつもなく広大な樹海の如し『豊饒の海』全4巻を読むには至らなかった。結局私はここで、三島文学を中途放棄したのである。
 こうして20代を過ぎ、三島文学への関心は遙か彼方の忘却沙汰となった。それ以降、三島に触れる機会はほとんどなかったのだ。周囲で三島の小説を愛読している者さえいなかったから、あの均整盤石な美文調は脳裏における遠い面影となっていった。

§

2016年11月12日付朝日新聞朝刊
 その遠い面影が、突然にして呼び覚まされたのは昨年の秋も終わる頃のこと。演劇『金閣寺』の公演が横浜の伊勢佐木町で来年おこなわれるという言伝があったのと前後して、新聞に三島の『花ざかりの森』に関する記事が掲載されていたのを見、思わず昂揚した。記事によれば、三島のデビュー作である『花ざかりの森』の原稿が見つかり、三島の本名の「平岡公威」が2本線で消され、「三島由紀夫」に書き直されていたのだという。この原稿が学習院中等科の同志の家で発見されたというので、三島の直筆原稿であるのは間違いないらしいとのこと。「花ざかりの森」にまつわる貴重な資料の発見であり、「三島由紀夫」のペンネームが生まれた経緯がこれによって詳らかになっていくのではないだろうか。

 当時16歳だった三島の作品『花ざかりの森』を読んでみた。やはりそこでも三島らしく、ある一定の緊張感が保たれ、既に美文調の萌芽は乱れんばかりの美しい花となってそこかしこに咲き放たれていた。
 『花ざかりの森』のこうした幻想的な物語に、気安くイメージとしての《音楽》をあてがうことはできない。それがピアノの旋律であろうとハープの音色であろうと、それらはすぐさま彼の文体の整った美によって掻き消されてしまうであろう。もはや彼の文体そのものが狂詩曲的な《音楽》なのである。
 この作品を一気に読んでしまった私の読後感というのは、心地良い風雅な物見後のマゾヒスティックな痙攣と言うべきもの、あるいは白昼夢の最中の浮遊感に似たものであり、常に三島の作品には「死」の気配が漂っていることから、「この世ではないもの」への鑑賞の安寧と緊張感とが同居するのだ。

 それがすっかり成熟している感のある文体でありながら、どこかしら少年らしさが感じられるのは、その咲き放たれた花の種が決して重くメランコリックな印象を受ける花ではなく、子供らが親しみを感じて近づくであろう、ひまわりや朝顔、三色すみれのような花だからなのだろう。『花ざかりの森』は、愁いを帯びて登場する夫人の存在の、大人らしく燻された風情と加味されて、いわゆる子供じみた小説的体臭を打ち消した独特の雰囲気を醸し出している。三島自身はこの作品を《もはや愛さない》作品に位置づけていたようだが、私はその剪定者自身に「愛されない」花というものが、実に愛らしく活き活きとしていることに、しばし笑みを浮かべたくなるのである。