2016年9月25日日曜日

舞踏そしてアラーキーの「顔」論

荒木経惟著『いい顔してる人』(PHP研究所)
 先週の当ブログ「写真集『nude of J.』」の中で、写真家スペンサー・チュニックの「老若男女の大集団全裸」パフォーマンスについて僅かに言葉をかすめている。そこで述べたヌード・モデルの《表情》の問題とスペンサー・チュニックの身体表現とは、実に対照的な芸術の方向性を示しており、写真という形態での視覚性は、片や無数の人間達による、もはや個々の表情や肉体の性差すらもとらえることのできないマクロな眼差しがあり、一方で純粋に個々の肉体を精細にとらえ、その人間の《表象》や《表情》を炙り出した等身大の眼差し、というのがある。
 さらに広範な視覚性について述べるとすれば、肉眼を超えた小さな、虫眼鏡や顕微鏡のような極微の眼差しがあり、可視光の限界までをとらえた電子的な眼差しなどもある。身体表現のレベルで視覚性を考えた時、スペンサー・チュニックのマクロの造形から、等身大の眼差しによる肉体の《表象》《表情》までがその範囲に収まるであろうし、舞踏としての身体表現もその範疇のものと定義したい。

 「顔」についてはどうだろうか。私が舞踏というものを探ろうとした矢先、肉体的なdanceの観点ですべてを切り取ろうとしていたことにハッとなった。重大な部分を欠落させていたのだ。「顔」である。舞踏にとって人間の「顔」はどんな意味をもつのだろうか。あるいはどんな意味すらももたぬものなのだろうか。

 ――あらためて宣言する。私はいま“舞踏”(BUTOH)という身体表現の可能性の、虜になっている。この舞踏とやらを単にdanceと訳してしまった場合、それに秘められた「重大な何か」を欠落させてしまうのではないかという不安があった。それはいみじくも的中した。したがってここは、danceではなく、“BUTOH”と記しておいた方が良さそうだとも思える。
 しかしながらもし、danceというものの中に、同じ「重大な何か」が根源的に含まれているのだとすれば、私の一抹の不安は杞憂にすぎなくなる。ただしそれをまだ証明することができない。果たして、私の思い描く“舞踏”とはいったい何だろうか。ともかくそこに秘められた可能性を創造しつつ、音楽(又は音響的表現)の問題を絡ませながら、新しい表現への欲求を膨らまそうとしていることは確かなのだ。

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 そんな中、偶然、荒木経惟の『いい顔してる人』(PHP研究所)のエッセイ本をめくる機会があった。思い出せば6年前、荒木氏の『母子像』を知って興味を持ち、この本を買ったのだった。それは2008年、熊本市現代美術館でおこなわれた『荒木経惟 熊本ララバイ』という写真展であり、募集された一般市民の、40組の母子全身ヌード・フォトが当時話題になったのである。
 それにしても『いい顔してる人』は、帯が面白い。ついつい買って読みたくなるのだ。
《アラーキー生誕70年記念出版 いちばんの裸は顔だよ 過去も現在もすべて顔に出る。用心しろよ! 顔に始まり顔に終わる! 写真家生活50余年の到達点は顔だった! いい顔が増えれば幸せが増える!》
(荒木経惟著『いい顔してる人』より引用)

アラーキーの『母子像』ヌード・フォト
 帯さえ読めばどんな内容かだいたい分かる。とにかくアラーキー語録で埋め尽くされた本である。私が興味を持った「『母子像』~母という存在はいちばんいい顔をしている。」のページでも、彼の「顔」論がこれでもかと展開する。
 その内容については割愛するけれど、『母子像』の撮影ではどうやら、「女を忘れるな」というのがテーマだったらしい。アラーキーの魔法の手にかかれば、母として女として、それまで普段あまり見せることのなかったとっておきの“いい顔”を表出させたのではないだろうか。この本では2点の『母子像』フォトが掲載されているが、文句なく“いい顔”である。そこには女としての色気や可愛らしさも感じられる。

 敢えてこの本をヒントにしてみたくなった。先の舞踏についてである。
 何故、彼女らはカメラの前で、そんな“いい顔”を表出させたのだろうか。あるいはそれを隠し持っていたのであろうか。舞踏における身体性の顔=《表情》という問題には、人間以外を演じた場合と人間そのものを演じた場合とでは当然、差が生じる。果たして人間以外を演じた場合、人間以外の《表情》というのが生まれ出てくるものなのだろうか。逆に何故、女は、女としての色気や可愛らしさが《表情》として滲み出てくるのだろうか。
 何か共通項があるはずだ。《表情》とは、「顔」とは、いったい何なのだろうか。できうる限りの想像をしてみる――。しかしまだ、私の想像力は大いなる真理の前に太刀打ちできない。これは課題点である。

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 ところでヌード・フォトと言えば、これまでの私にとってそれは五味彬でありジョック・スタージスであり、ロバート・メイプルソープであった。そういう写真家の写真を思い浮かべることができた。いま私が眺めている『いい顔してる人』(6年前に買った本だけれど)を見て、相対的に、荒木経惟という人の写真をじっくりと鑑賞したのは、これが初めてではないかということに気づいた。
 以前、どこかで遠めから、「さっちん」であるとか、緊縛ヌード(1992年の『午後のリアリティー』)であるとか、『エロトス』の中の一部の写真を見たことがあった。これはこれで強烈な印象が残っているのだが、緊縛ヌードと言えば、私にとってジル・ベルケの写真なのであった。

 どうも私はアラーキーの過去の代表作を思い浮かべるより、「顔」論を展開したあの『母子像』を思い出す方がアラーキーらしさを感じられると思った。そうなりつつある。世の中にはある意味つっけんどんなヌード・フォトが多い中、あの『母子像』の温かみあるモノクロームは、特別な空気を纏ってしまっている。荒木経惟という人の思考や写真への愛着感が伝わったと同時に、ああいうのが自分の思い描く“舞踏”なのではないかと、どこかで感じ始めている。これは私の発見である。

2016年9月22日木曜日

西暦と和暦の話

9月21日付読売新聞朝刊より
 近頃、片付け仕事が追いつかず、やっておかなければならないことが1ヵ月も2ヵ月もずれ込んでしまい、慌てふためく。当然、季節感もずれてしまう。私にとってはまだ暑い“夏”であって欲しい。ああ、時間を止めることができたら、どんなに便利だろうと思う。

 少々大袈裟な話だけれど、私にとって時間とは、一生のうちに、つまり死ぬまでの間に何が出来るかの刻印なのである。そういう意味では10代の学生時代、やるべきことをやらず(その時何をやるべきかも分からなかったけれど)、大量の時間を無駄にしてきたような気がして、そのツケがいま、自分自身に大きく降りかかっているのではないかと強迫観念に駆られる。したがって片付け仕事では、常に時間との勝負。作業自体を時間に換算して、これをやるにはどれだけ時間を要するか、いつそれをやればよいか、もっと合理的に時間を短縮して出来る方法はないか、などといった具合に時間的概念にうずもれて囚われることが多い。

 そうした時間的概念に囚われているせいか、あれはいつやったのだろうかと、正確な月日まで割り出しておきたい衝動もあったりする。
 昭和生まれの私にとって昭和元号での和暦は、比較的時間変遷を認識しやすい。昭和47年に生まれて、昭和54年は7歳。昭和63年は16歳で高校1年。翌年の1月8日に平成元年となり、高校2年が平成の始まりだということは認識できている。しかし、平成になってからは元号への関心が薄れ、例えば平成14年は自分が何歳で何があったかと訊かれても、すぐに答えることができない。平成になってからの元号では、自分の時間的概念がほとんど機能しないのだ。これは個人的な感覚の問題であろうが、平成という年号は完全に疎くなっており、それ以降は西暦でないと物事を思い出すことができなくなってしまっているのである。

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 9月21日付の読売新聞朝刊で興味深い記事があった。笠谷和比古氏の「歴史の年月日 正確な表記を」。歴史本やムック本などで、和暦の月日に西暦をくっつけた間違った表記があって改善を促したいという話。

 そもそも西暦とはなんぞや、とはっきりしなかったので調べてみた。
《西洋の暦法。イエス‐キリストが誕生したとされる年を一年目として年を数え、それ以前は「紀元前」としてさかのぼって数える。また、その暦法によるこよみ。現在、世界の公用紀元として用いられている。西暦。西暦紀元は五二五年にローマの修道士ディオニシウス・エクシグウス(Dionysius Exiguus)(四九七頃‐五五〇)が創設した。実際には、キリストの生誕は数年早いと見られている》
(小学館『日本国語大事典』より引用)

 笠谷氏によれば和暦と西暦では日付がずれるのだという。分かり易い例が示されていたので引用するが、例えば関ヶ原合戦の和暦は「慶長5年9月15日」。これを正確な西暦で表記をするならば、「1600年10月21日」が正しい。しかしこれを間違って「1600年9月15日」としてはならない、ということ。西暦の年に和暦の月日をくっつけた“擬似西暦”というのが横行しているらしい。
 笠谷氏が指摘した例では、鳥羽・伏見の戦いの擬似西暦「1868年1月3日」が王政復古の宣言の正しい西暦「1868年1月3日」と同じ日になってしまい、正しい表記の本と間違った表記の本を行き来してしまうと、混乱をきたす恐れがある。なるほど、歴史本などの表記はすべて正しいと思いがちだったのだが、こうした擬似西暦といった間違いの表記が存在するのだということを知った。
 こうした混乱を避けるため、関ヶ原合戦であれば「慶長5(1600)年9月15日」、王政復古ならば「慶応3(1868)年12月9日」というように表記するのが適切だとしている。ちなみに私が試しに調べてみた、とある歴史本では、西暦表記を前提としていて、年表の中で一部、西暦年と和暦での月を合わせてしまっていて間違った表記を見つけた。

 では、権威ある『広辞苑』(岩波書店)ではどのような表記になっているか確認してみたところ、王政復古「一八六八年一月三日(慶応三年一二月九日)」とまったく正しい表記になっていて安心した。これから歴史年月日の表記については、調べる側も十分注意して読み取ろう、と思った次第である。

2016年9月15日木曜日

写真集『nude of J.』

1991年の写真集『nude of J.』
 個人的にここ数年、“舞踏”(BUTOH)というジャンルに寄りかかり、その身体表現の世界をメディアを通じてあれこれ知るようになると、希に興味深いものを見ることがある。「演者の女性たちが屋外で全裸のまま演劇」をやる集団とか、写真家スペンサー・チュニックによる「老若男女の大集団全裸」パフォーマンスとか、遥かにアートの常識を越えた底知れぬ身体表現の世界を覗いたような気がして、人類の芸術史における《奔放》と《叡智》を感じさせてくれる。
 そうした時代において、これまでになく写真媒体としてのヌードが問われる時代もない。もはや有名なアイドルが、あるいは女優が、“服を脱いだ身体”を写真集にしてさらけ出しただけでは、見向きもされぬ時代となった。端的に言い換えれば、“服を脱いだ身体”=肉体に限りなく近い身体が「何を演じたのか」が問われる、そこにこそメディアに刮目される時代になった、ということである。

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 写真家・五味彬氏の“YELLOWS”シリーズ写真集を、個人的に追ってきた経緯がある(当ブログ「YELLOWSという裸体」「YELLOWS再考」「YELLOWS RESTARTのこと」参照)。“YELLOWS”は1990年に始動し、1993年にはセンセーションを巻き起こした『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』が発売された。確かに当初、この写真集は、不特定多数の若い日本人女性のヌード写真集、ということだけで話題沸騰になった。テレビのワイドショーでも取り上げられた。言わば、90年代初めのヘア・ヌード写真の先駆である。それまで暗い隠微な地下ポルノ雑誌にあるヌードが、一気に地上に躍り出てファッショナブルなヘア・ヌードをさらけ出した感があり、次々と有名人がヘアを露出させてブームとなった。極端なことに、ヘアさえ見せれば写真集は売れたのだ。

 そうした興味本位的反動の痕跡が、“YELLOWS”シリーズには色濃く残されている。それ故に私はこのシリーズに関心がある。先述のテーゼ=身体が「何を演じたのか」に鑑みて、“YELLOWS”シリーズ写真集に決定的な不具合があるとすれば、まさにそこにきわまれりであろう。被写体となった彼女らは、“何も演じず”に佇立していただけなのだから。

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 1993年の『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』から1999年の『YELLOWS RESTART 1999』を順に観ていくと、当初の不特定多数の日本人女性を美術解剖学的に眺めてみようという主旨が徐々に外されていき、ややポルノグラフィに近い、日本人女性によるヘア・ヌード写真集の商業的フォルムに変わっていったことが窺える。
 それは美術解剖学的役割を終えた意味での変革ではない。写真家・五味彬氏の視線があまりにも不特定多数の裸体に晒され、佇立のみのスタイルに対して網膜が拒否反応を示したから、だとしか思えない。『YELLOWS RESTART 1999』の風俗嬢のヌードは、そこに何の脈略もなく、ポルノグラフィとしての欲情の演出も中途半端で、まったく支離滅裂な写真集であったと言わざるを得なかった。それまでの佇立の方がどれほど美しかったかと思うほどだ。
 かつてジョルジュ・モランディが、飽きもせず同じような構図で瓶や器の静物画を描き続けたのは有名だが、五味氏は(生理的に)そうはならなかった。しかしそのことよりも、私がそれを特異な点として気づかなかったのは、当初被写体の女性たちはかろうじて美術解剖学の標本人間を無意識に演じていて、その《無表情》の表現で一定の美しさを醸し出していたということだった。

 美術解剖学であるという主旨の枠組みが外されてしまうと、途端にヌードの意味が脈略ないものとなり、不自然になる。何を演じてよいのか不安定な面持ちで写り込んでいたのが、シリーズ後半にあたる。シリーズ後半のそこでの彼女らは、カメラを前にし、自然な格好(時にそれは笑顔であったり怒りであったり哀しみであったり)を表現することができず、自分自身とは程遠い別の何か――無心の顔とは違う――で取り繕うことになり、その意味不明なぶっきらぼうな表情が写り込んでいる、と言えなくもない。
 しかも私は、ある種の《無表情》の表現で一定の美しさを醸し出していた被写体の女性たちが、それよりもむしろ自然な形で、しっかりとしたシチュエーションの中で確固たる女性を演じるよう仕向けられると、まったく別の表情を見せるものだということを発見してしまったのだ。これは他の写真家の写真集の話ではなく、五味氏の写真集『nude of J.』である。

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『nude of J.』トニ・メネグッツォの作品①
 詳しく説明すれば『nude of J.』は、1991年朝日出版社から出版された、五味彬氏とイタリアの写真家トニ・メネグッツォによる共同写真集であり、監修は高橋周平氏という体裁をとっている。五味氏はここでYELLOWSシリーズと同様のスタイルを貫いた。トニ・メネグッツォはポラロイドカメラを使って日本人女性のイメージを独自に演出した写真を撮っており、その対比の妙が実に素晴らしく、国内のヌード写真集史に残る傑作だと思われる。
 いくつかのカットでは、一人の女性モデルが二人の写真家の撮影スタイルによって、まったく違った表情を見せている。これはいったいどうしたことか――。五味氏によって撮られた表情がその女性の《素》の表情であると仮定するならば、トニ・メネグッツォの演出で確固たる架空の女性を演じた方の表情は、何とも言葉に表せない日本人の古風な、浮世絵的美麗を醸し出しており、これが果たして同じモデルによるものかと眼を疑いたくなるほど、その表情はまったく違うのである。

作品①と同じモデル(五味彬撮影)
 『nude of J.』は、おおっぴらなヘア・ヌード写真集ではない。ごく一部のカットにそれがあるだけで、全体としては抑制されつつ端整な構成である。にもかかわらず、下半身の露出や乳房よりも、表情そのものに惹かれるトニ・メネグッツォの演出においては、女性とは何物であるか、ということすらも考察してみたくなる不思議な魅力がある。

 何かを「演じる」という行為は、その人の内面に閉ざされていた秘密のヴェールが露わになって、きりりとした芯のある表情が現出してしまう恍惚の状態を指す。写真家はその一瞬をねらって記録する。いやそうではなく、それ以外の無駄な贅肉を削ぎ落とすために、その一瞬を切るのだと言っていいだろう。それはとても美しい能動的な表情である場合が多い。
 一方、何も演じなくていいと言われた場合の表情は、《素》の表情と言われがちであるが本質的にはそれは、その人の内面とはまったくかけ離れた、死に体の表情であって、身体表現としては男であるとか女であるとか以前の、そういった性差すらも剥奪された被写体のかたちに近いだろう。『nude of J.』が五味氏のYELLOWSシリーズが始まる黎明期に撮られていたことを考えると、五味氏はその90年代、ある意味において(撮る側にとっても撮られる側にとっても)残酷なスタイルを選考していたことになる。

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 こうして時間をかけ、同じ写真家の写真集を追ってきたことによって見えてきたものがある。そこでは、時代の流行の尺度や価値観では掬いきれないものが多くあることを発見した。トニ・メネグッツォがより日本人らしい古風な美の姿――奈落を生きた女――をとらえたのに翻って、時代に翻弄され“ヘア・ヌード”という局所的な物珍しさに揺れ動かされてしまった日本人の卑屈な心を感じないわけにはいかない。
 いま私が“舞踏”(BUTOH)における身体表現に目をやる時、様々な意味合いでYELLOWSシリーズや『nude of J.』での写真がその都度参照され、写真表現の方向性を汲み取る研究材料の一部となって、自身の重要なファクターとなっている。決して私はこの写真集を忘れることはないと思う。

2016年9月13日火曜日

電算室での想い出―TK-80への考古学的哀愁

 最近、PC-6001関連の本や資料を眺めていて、ふと古いコンピューターのことを二、三思い出したりした。

 当ブログで以前書いた「ミニコンに萌え萌え」では、母校の工業高校の電算室で扱っていた、三菱電機の「MELCOM 70」らしきミニコンが懐かしく思えた。高校を卒業したのが1991年なので、もう25年の前のことになるが、その光景はともかく、この電算室でどんな授業を受けていたのか、あまりよく憶えていない。
 ただ、その授業中にクラスメイトの誰かが、以下の文章を工業プログラム用の用紙にプリントアウトしたのだけは、はっきりと記録が残っている(私が文章をコピーしておいた)。

《私は関口○○だ。趣味はGAMEで、毎日平均8時間ぐらいやっている。自分では、少ないと思っているが、最近、GAMEを始めたのだが、謎が解けず困って、友達の家に午前3時に、電話をした。今年のX'masに友達の家に行くことになり、自転車で1時間30分かけて行くことになったが、夜は寒いと思ったので、友達に車で迎えに来るように言ったら、おまえは、自転車で来いと言われた》

 ミニコンを使ったのかPC-9801を使ったのか定かではない。授業中にそんな文章を打って、そのプリントが電算室の中をぐるぐると駆け巡った。私はそのプリントを捨てずに持ち帰ったのである。当時のコンピューターで、まだ漢字変換のワード・プロセッサにも慣れていない高校生がキーボードを睨みつつ、のたうち回りながら数十分かけて熱心に打った文章だ。私はこのプリントに愛を感じ、捨てることができなかった。

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 現在の母校の高校のホームページを閲覧してみると、かつて一部屋を占領していたようなミニコンの存在は、もはや確認できない。ごく普通に日常的に生徒がパソコンを扱っている光景がある。私が卒業した電気科の、現在の実習内容を引用してみると、こうなっている。

《①デジタル時計の製作 ②電磁石の製作 ③3極モーター製作 ④電圧計や電流計製作 ⑤コンピューター・プログラミング ⑥電気工事の実習 ⑦デジタル回路実習 ⑧交流発電機・電動機の実習 ⑨リレー・シーケンス制御実習》

 ほぼ昔と変わらない実習内容だろう。デジタル回路実習というのは、もしかすると我々の頃にはなかったかも知れない。⑨のリレー・シーケンス制御実習は重要であり、電子的な論理回路で2進数を学ぶための、基礎の基礎である。ガチャ、ガチャと機械のリレーが動き、電子的加算器の理屈が分かるようになる。そして⑥の電気工事の実習は最も重要で、電気工事士の資格試験を受けるための(就職時でかなりな有利な?)要授業となる。
 こんなふうに工業高校の電気科では、あまり電算室に入り浸ることもなく、黙々と様々な実習で電子回路の製作に励むことになる(ハンダ付けと電流計の計測はいやと言うほど味わえる)。ただ、今となってはデジタル時計の製作より、TK-80のようなトレーニングキットを製作して欲しかった、と思うことがある。

榊正憲著のTK-80エミュレーター
 言わばTK-80は、かつての8ビット・コンピューターPC-6001や8001の基礎の基礎のようなもので、CPU μPD-8080Aによる基板剥き出しの、ワンボード・マイコンである。
 いま私は榊正憲著『復活! TK-80』(アスキー出版局)付録のTK-80エミュレーター(Windowsで動く)を使って、数当てゲーム(“MOO”=Bulls and Cowsの数当てゲーム)などをして遊んでいるのだけれど、これがなかなか面白い。子供の頃、「おむすび探偵団」というおむすびの玩具を使った、4個のおむすびの具を当てるゲームがあったがあれとほぼ同じルールで、歴史的に古い数当てゲームである。

 ゲームはさておき、TK-80はまず自分で基盤を製作しなければならなかった(私が子供の頃、秋葉原のショップで中古TK-80の基盤がラップに包まれて販売されていたのを、一度ばかり見た、朧気な記憶の残像がある)。基盤が完成した後で、実際にプログラミング――マシン語プラグラムを16進数に置き換え――して打ち込む面白さ(?)があり、完成したら終わってしまうデジタル時計より遥かに重宝するのではないか。

 いま、巷ではTK-80のクローン基盤を製作販売しているメーカーもあるので、ワンボード・マイコンはコンピューターの世界を学ぶにはうってつけの教材となろう。私など、ほとんど落第の身で卒業できた愚か者には縁がないが、あの名文をプリントアウトした輩はそれなりの歳になって、中小企業の一国一城の主となっているかも知れない。

2016年9月7日水曜日

PC-6001で思い出すこと

思い出がありすぎるPC-6001(2008年撮影)
 年内のいずれかの日に、PC-6001を処分することを決意した。
 PC-6001とは、NECの8ビット・パーソナル・コンピューターのことである。私が小学生の頃に使っていた1台と、2002年頃にネット・オークションで入手した同機の計2台あって、6001で扱っていたソフトウェアのカセットテープも10本程度あるだろうか。いずれも古いハードとソフトである。これまでずっと、段ボール2箱に入れて保管していた機器達であり、これらととうとう訣別することを決めたのである。

 どのようにして処分するか、今はまだ決めていない。とにかく家の中が手狭になってきたので、処分しなければ…という気持ちは前からあった。
 普通に廃棄するのも構わないが、最近久しぶりにこれらが懐かしくなり、ちょっと引っ張り出してきて、最後の名残とばかり、当時のアドベンチャー・ゲームをロードしてみたりしているうちに、何だかまだ元気に稼働するし、所有するソフトウェアの歴史的な貴重価値(マニアが泣いて喜ぶ)を思ったりすると、誰かに譲った方がいいのではないかという考えも芽生えてきて、さてどうしたものかと思案している次第なのだけれど、これらを手元から離し、周囲の手狭さを解消しなければならないのは、重い腰を上げて確実に実行せねばならぬことでもあった。

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 とにかく今は思い出話に浸ろう。NEC PC-6001は、1981年に発売されたホビー向けのパソコンだった。国内で群雄割拠、あちこちのメーカーでホビー向けのパソコンが生産され、当時これらのパソコンを親しみ込めて、“マイコン”と呼んだ。70年代から80年代にかけて、大“マイコン”ブームがあった(1976年にNECから発売されたトレーニングキット用ワンボード・マイコンTK-80で人気に火が点いた)。
 PC-6001は、既に発売されていた兄貴分のPC-8001よりもグラフィックやサウンド性能が幾分優れ、サウンド性能を比較すると、PC-8001が「BEEP音」だったのに対し、6001は「8オクターブ、PSG3重和音」と他のメーカーと比較しても追随を許さなかった(音源チップはAY3-8910)。CPUは8001と変わりない「μPD780C-1/4MHz」で、これはザイログのZ80相当であった。

 あの頃は電子ゲーム、すなわち小型のLSIゲーム機も流行っていた。代表格はナムコの「パックマン」である。友人の家をハシゴしては、それぞれ持っているLSIゲーム機を交換しながら、放課後の余暇を過ごしたりしていた。特に黄色いボディで目立つ「パックマン」は人気があっていつも取り合いになっていた。
 やがて田舎の町にも、マイコンってなんだ?という話題が飛び交うようになった。あれは確か小学4年生の頃。今までたくさんのLSIゲーム機を所有していたある友人(こいつが「パックマン」を持っていた)が、突然それらの遊びを放棄して、親に買ってもらった新しいマイコンにのめり込むようになったのだ。松下電器のJR-100という機種だった。
 彼の自宅へ行くと、ゴム製のキーボードが特徴の、実にコンパクトなJR-100がテレビの前に置かれてあって、大概そこで彼はカセットテープからロードされたゲームに夢中になっていたのだ。何度かキーボードを触らせてもらったけれど、ゴムのぷにゅぷにゅした感覚が指に残り、変な気持ちになった。
 初めて触ったマイコンがぷにゅぷにゅして、そのぷにゅぷにゅの甘ったるい感覚と、次世代のマシンとして絶対ぷにゅぷにゅなんかしてほしくなーい現実逃避的な感覚とが頭を駆け巡り、「パックマン」の格好良さに比べてなんだいあのぷにゅぷにゅは!と苛立ちを交えながら、私はマイコンへの憧れを強めていった。そして直感的にマイコンというものは、それまでのLSIゲーム機のように持ち寄って交換して遊ぶものではなくなって、もっとひんやりとした、むしろそれをあまり他人には触らせてくれない(ぷにゅぷにゅはしたけれど)、主人だけの桃源郷なのだということに気づいてしまったのである。

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美しい落ち着いた配色のキーボード部
 それから程なく、私の父親がどこからもらってきたPC-6001のカタログを見て私は、これが欲しいのだと感じた。
 その間憧れていたマイコンは実は別のもので(もちろんJR-100ではない)、アメリカのコモドール社のCommodore64だった。JR-100のぷにゅぷにゅキーボードとはまったく違う白と黒の頑丈そうな筐体で、ゲーム・ソフトもたくさんありそうな気がしたのだ。

 しかしこの機種は田舎町では手に入りにくそうだったし、6001のカタログを見ているうちに、「カラーで9色、3重和音の音源」のこちらの方が良さそうに思えてきて、ついに決断してPC-6001が欲しいことを父親に告げたのだった。
 それは何とも不思議な儀式であった。今いかにマイコンというものが子供達の間でも学びの道具=“学習機”として必要であるかを説き、これからの世界はマイコンの時代なのだ、これが使えなければ会社勤めできなくなるのだ、というようなことまで力説した。

 当時、6001のカタログ価格は89,800円だったが、おそらく月賦払いである。結果的に父親がカタログをもらってきた店で購入したのには、少々の理由があった。

 その店というのは、当時同級生だった女の子の父親が細々と経営していた電機店だったのだ。私の家から歩いて10分もかからない近所の、小さな店であった。もともとマイコンを扱うような店ではなく、もっと大型の家電製品を扱う店であった。マイコン・ブームの波で、流行りのマイコンをセールスし始めたのは、どこの電機店も同じ様子だった。

 その女の子は少しぽっちゃりしていたのでよく憶えている。性格はやんちゃで、男子と時々張り合う面もあった。私と父が毎週通っていたスポーツ少年団に入っていたので、私の父と彼女の父親も顔見知りだったのをきっかけに、おそらくうちでもマイコンを扱ってますよ、といった話が出たのだろう。向こうにとってはそれこそ必死のセールスだったに違いない。もしかすると、6001をカタログ価格よりいくらか安く買えたのかも知れない。こうした経緯があって後々、PC-6001が我が家にやってくることになる――。

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 さて、あれは小学5年の終わり頃だったろうか。
 毎週一緒にスポーツ少年団に行き帰りしていた彼女が、ある日突然学校へ来なくなった。教室では既に噂が流れていた。一家揃ってこの町を去ったのだと。担任の先生は彼女がその日からいなくなったことを、あまり説明してくれなかった。教室では、大人の事情だから、という諦めの雰囲気が漂っていた。

 電機店の経営が火の車だった、というような噂話を、後で聞いた時、私はPC-6001に深い哀しみが宿るのを感じた。いくらリセットボタンを押しても消えることのない、少女の面影を残して。もう33年も前のことである。

2016年9月6日火曜日

『ポートピア連続殺人事件』の時代

1983年発売『ポートピア連続殺人事件』(エニックス)
 1983年、私が小学5年生の時、猛烈に夢中になったゲームがある。PC-6001版の『ポートピア連続殺人事件』(エニックス/作者・堀井雄二)である。このゲームの概要については、5年前の当ブログ「ポートピア連続殺人事件」で書いた。この度、保管していたPC-6001を引っ張り出して(数年ぶりに引っ張り出したのは別の理由があったのだが)、その実機による『ポートピア連続殺人事件』をもう一度体験してみようという気になり、ソフトウェアのロードのセッティングを企てた。モニターはSONYのBRAVIA20インチ、専用のデータレコーダーは既に無いので、一般のモノラル・ラジカセをその代替とした。

《ある夜おこった密室殺人。キミは部下のヤスをひきつれ捜査にのりだすが、次々死んでゆく容疑者たち。犯人は誰か!港神戸を発端に、舞台は京都から淡路島へ…。「君は犯人を追いつめることができるだろうか?」サスペンスアドベンチャーの決定版!》
(『ポートピア連続殺人事件』パッケージ文より引用)

 このゲームのパッケージがとても印象深い。おどろおどろしいイラストは、さにい・パンセ(という会社か人か?)の作である。背景にある夜の京都・東山、1981年に開催された神戸ポートアイランド博で一躍有名になった愛称“ポートピア'81”の会場の神戸港。さもその港で死体が発見され、そこで女性が取り調べられているかのようなイラストで、事件への好奇な関心を抱くけれども、あくまでこれは脚色的なもので、実際には港では殺人事件は起きない(企画段階ではそんな展開があったのかも知れない)。
 ゲームの全体としては、おどろおどろしいイラストとは裏腹に、朗らかにストーリーが進行する。関西弁が時折飛び交うせいか、この妙に明るい朗らかさが、“ポートピア連続殺人事件”の真の姿であろう。まず、そのことを踏まえておきたかった。

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げんばふきんと部下のやす
 ここからはストーリーの内容に触れ、完全な“ネタバレ”となるため、注意していただきたい。これからこのゲームに挑戦してみたいと思う人は、とりあえず読まないことを推奨する。

 ――神戸。ローンヤマキンの社長、やまかわこうぞうが自宅マンションの書斎で死体となって発見された旨の一報から始まる。こうぞうの秘書のさわきふみえが第一発見者で、書斎には鍵が掛かっており、マンションの管理人のこみやを呼んでドアを叩き開けてもらったところ、社長の死体がそこにあったというふみえの話。プレイヤーは捜査一課の腕利き警部=ボスとなり、部下のまのやすひこを従えて事件の捜査に乗り出すことになる。

こうぞうの死体現場
 このゲームはすべて日本語でのコマンド入力方式となっており、例えばここで現場へ向かうには、〔げんば いけ〕と入力する。現場では〔したい しらべろ〕とか〔ドア しらべろ〕とか〔つくえ しらべろ〕といったふうにやすに要求し、ヤスがそれに答えるという会話調になる。やすが理解できなければ、「なにをいっているのかわかりません」などと答えが返ってくる。けっこう事件とは関係ない質問をして、やすが気儘に答えてくれることもある。プレイヤー(ボス)は事件の謎を解いていき、犯人を捕まえ、真相を明らかにするのが目的である。

とりしらべしつに呼んだ管理人こみや
 第一発見者のふみえや管理人のこみやから直接話を聞き出すには、とりしらべしつに戻る必要がある。事件がさほど進展していない最初では、こみやを取調室に呼んでも、「わし じゃない!!わしは やってないっ!!」とうろたえるのみで、ろくな話も聞けず、多少この人物にイライラ感がつのる。
 ところでこのゲームは、電話番号(数字)を入力すれば、電話をかけることもできる。こうぞうが死んでいた現場の書斎では、机の上からマッチが発見され、そのマッチには「ぱる 622-3149」と記されており、ここに電話して所在を聞き出すことができる。こうして場所が分かれば、以後、そこに行くことができるようになる。ぱるは喫茶店の名で、しんかいちに店を構えている(しんかいちに行くと、しんげきシルバーというストリップ劇場があり、やすに入らせることができる)。その店でこうぞうの写真を見せると、かわむらという男とこうぞうとの関係が浮かび上がってくる。

ストリップ劇場のあるしんかいち
 このゲームにはいくつかの落とし穴的フラグが含まれている。
 まず、ひらたという商店経営の男がそれである。ひらたはこうぞうにかなりの金を借りていた。殺す動機としては充分だ。現場付近の聞き込みによって、事件当日からいなくなっていることが分かっている。そしてさらに彼は、京都へ行ったらしいことも判明する。
 だが、この時点で京都へ行っても、何ら情報を得ることはできないのだ。ひらたとはいったい何者なのだろうかという思いが強くなるが、捜査は進展しない。――あとでひらたは、あみだがみねで死体となって発見される。やすはここで、ひらたは借金苦からこうぞうを殺して自殺したと判断し、事件を終わらせようとする。これも落とし穴的フラグだ。エピローグをロードするよう促されるが、当然、ひらたは真犯人ではない。ひらたの自殺の死亡推定時刻は、こうぞうのそれより前なのである。したがって、ひらたがこうぞうを殺せるわけがないのである。

 こうぞうには、としゆきというおいがいる。莫大な遺産をねらった動機としても濃く、彼のアリバイも薄い。としゆきをとりしらべしつに呼んで白状させようとしても、なかなか埒があかない。しかし、管理人のこみやがとしゆきのサイフを盗んだことが発覚して、事件は急展開を見せる。サイフの中にあったメモ、

【0F14010E090D(=みなと) 0F013050E090D15】

 の暗号を解くことが、この事件の突破口を開くターニングポイントである。どうだろう。一般的には非常に難しいと思う暗号なのではないか。ところがゲーム・マニア、プログラマーがこれを見ればああと分かる暗号なのである。ちなみに港へ行くと、そこに一人の男がいて、こちらに話しかけてくる。「いまなんじですか?」――。

あみだがみねでのひらたの首つり死体
 私が小学生の時分、この暗号がまったく解けず、ゲームの展開が止まってしまい、何ヶ月も棒に振った憶えがある。実際、この暗号を解かない限り、先に進むことができないようになっている。
 港に現れる男の名は、むろたといい、その場で即、現行犯逮捕しないと、彼に逃げられ、事件の進展はもはや期待できず完全にストップしてしまう。つまりもう一度ゲームを最初からやり直さなければならない。これも落とし穴的フラグである。このように『ポートピア連続殺人事件』にはトリッキーなフラグがあちこち仕掛けられていて、一筋縄ではいかない(実に良くできたゲームだ)。先述したやすの、事件の解明を勝手に終わらせようとする言動はフラグでありつつ、別の意味深な伏線にもなっている。

あっと驚く人物の肩のちょうちょアザ
 としゆきのサイフにあったメモ、その謎の暗号文を解き、港のむろたを逮捕することができれば、事件の展開は急速に進む。むしろ容易に進んでいく。そうして、こうぞうとつながりのあるかわむらが第三の死体となって発見されると、えらく次々とタレコミ情報が入り込んできて、事件はクライマックスへ向かう。捜査は最終的に淡路島のすもと(洲本)に移る。
 すもとで最後に発覚するのは、秘書のさわきふみえには兄がいた、という事実である。なんと肩にちょうちょのアザがあるという兄。こうぞうとかわむらによる悪辣な詐欺によって彼らの両親が自殺し、兄妹が復讐を企てた、という事件の真相が見えてくる。
 そして、あっと驚く人物の服を脱がしてみる。これが『ポートピア連続殺人事件』の、アドベンチャー・ゲーム史上類例のない伝説のシーンである。脱がせば、確かにその肩にちょうちょのアザがあり、思わず声が漏れるほど衝撃的である。ここで真犯人が確定する。これでさわきふみえ兄妹の悲劇が明らかとなって、涙を流さずにはいられないエンディング・シーンが終わる。

*

 小学生だった当時、この『ポートピア連続殺人事件』は事件の展開に詰まった際、苦しくて投げ出したくなる辛さがある一方で、たった一つのコマンド入力いかんで突破口が開けた、という緊張感の末の面白さがあった。展開に詰まるたびに何度も現場へ行き、あらためて死体の状況を調べて頭の中を整理したり、各人物のアリバイをノートに書き写して誰がいちばん怪しいかを友人と議論したり。しかし、そうしたディテールの想像を軽く凌駕して、最後のあっと驚く人物と向き合った時には、むしろアドベンチャー・ゲームの終末の悲哀のようなものを感じた。

 ともかく、当時私はこのゲームによって神戸や京都、淡路島という土地にずいぶん興味を覚えたし、トラベラーズ・ミステリーの醍醐味を存分に味わったのだと思う。そして今、あの頃それを体験し記憶にとどめている愛好者が多い中で、実際に正真正銘のオリジナルの『ポートピア連続殺人事件』をプレイできたことに満足感を得た次第である。堅固なハードウェアの部分も含め、言うなれば、日本人の技術力と想像力の逞しさへの感動がある。PC-6001とこのゲームの人気は、まだまだ衰えを知らない。

2016年8月30日火曜日

藤城清治の影絵―聖フランシスコ

銀座・教文館『藤城清治影絵展』
 この世は《光》と《影》に満ち溢れているのにそれに気がつかない。気にも留めないことがある。何かを照らし浮かび上がらせ、何かを隠し暗闇にするということ。
 幼少の頃、初めて映画館で映画を観た時、後方から延びた煌びやかで細長い投射光がスクリーンを照らして、そこに動く画が次々と現れることの不思議さに、私はとても感動した。そうしてこれも少年時代のことだったが、5分にも満たないテレビの天気予報のスポット番組で、確かに藤城清治さんの影絵作品が淡い光と影によってちらちらとうごめいていたのを観、自らの身体がその中へ吸い込まれていくのを感じた。この世は《光》と《影》に満ち溢れている。しかし、誰もそのことに気づいていない――。

 今月の9日、東京・銀座の教文館にて『藤城清治影絵展』を観た。サブタイトルは「光と影は幸せをよぶ」。この場を訪れて、まさに少年時代の懐かしいあの《光》と《影》の感動に浸ることができ、また新たな感動の上書きさえもあった。この影絵展の広告の画にある抱き合う少年と少女の大きな瞳。その寄り添う二人の手の温かさ。このなんとも言えないぬくもりの画に惹かれて、私はその9階の小さなホールに足を運んだのだった。

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『影絵展』にて「聖女クララの光」
 影絵については、こんな思い出がある。
 私は小学校の6年間、ほとんど何一つ得意とする教科がなかった。強いて言えば音楽の授業で歌を歌うこと、国語の授業で朗読することが楽しみであった。図画工作というのは特に不得意と言っていい、人に自分の拵えた作品を見せたくない、恥ずかしいと思っていたほどで、授業そのものがいやであった。何か作っては友達にその不出来を笑われていたし、作るたびにまた笑われるのかと思うと、とても図画工作の授業がしんどかった。もちろん通信簿の評価も低かった。

 そんな図画工作の授業で唯一自分で楽しいと思えた、夢中になって作ったのが、ステンドグラスの模倣であった。ガラス細工は子供には危ないので、黒色の板だったか画用紙だったかを枠にして下絵を描き、それに沿ってカッターで画をくり抜き、裏側から各々の色のセロハンを貼り付け、アルミホイルを背景にして枠を閉じたもの、という代用のステンドグラス画であり、見た目はステンドグラスのように色彩豊かな光と影の造物となった。本当にこれだけは楽しい工作の体験だったし、おそらくそれまでと同様にして不出来の笑いの対象となったのだろうが、自分の気持ちの中では満足感があった。

 何故それが唯一楽しいと思えたのか。幼い頃の藤城さんの影絵の美しさを覚えていて、それに惹かれたせいではなかったか。子供ながら《光》と《影》を作り出すことに魅力を感じていたのだと思う。

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「アッシジの聖フランシスコ」
 教文館の『藤城清治影絵展』で観た「聖女クララの光」や「聖フランシスコの肖像」に私が強い関心を抱いたのは、そこに画の柔らかさや優しさが感じられたからだ。
 無論、藤城さん特有の画の筆致と投影の美というのがある。そこから喚起される、言葉にできない“目に見えないかたち”こそが、私がここを訪れた本意のかたちなのだということを悟り、彼が出会った歴史や物語、人々に対する深い愛情を感じないわけにはいかないのである。

 今月24日に起きたイタリアの大地震は、中部の町アマトリーチェを壊滅させた。死者の数は数百人に達したという。けれども、そこより震源に近いノルチャという町は、建物に耐震対策が施されていて、大きな被害がなかったらしい。そんなようなことを新聞で知った。地震の被害に遭った方々への支援が広がることを心から祈りたい。地震については、大聖堂のあるアッシジも過去に部分的な崩落を招いたことがあり、その時の教訓がイタリア・ウンブリア州の耐震対策に生かされたようであった。

 そんなようなことを含め、藤城清治さんが向けられたイタリアの宗教画に対し、いま私は作品の素晴らしさと共に人々の厚い志について、心に触れるものがある。
 音楽家フランツ・リストが1865年頃に作ったピアノ曲『2つの伝説』のうちの第1曲、「小鳥に説教するアッシジの聖フランシスコ」(St François d'Assise: la prédication aux oiseaux)という曲があるのだけれど、私はこれをジョルジュ・シフラのピアノで聴く。ジョルジュ・シフラでなければならない。
 藤城さんのアッシジの聖フランシスコ、小鳥を手に、空を見つめるフランシスコの静謐な肖像を思い浮かべながら、遠い彼方に思いを馳せる。そしてそれは、最も身近な《幸せ》の在処を、照らしてもいた。