2017年1月19日木曜日

伊勢佐木町と『はま太郎』のこと

星羊社の雑誌『はま太郎』第10号
 前回のブログ「演劇『金閣寺』追想」で書いた、横浜・伊勢佐木町のイセビルの地下にあるクリエイティブスペースTHE CAVE。その地下の小スペースで、ぼんやりと見ることのできたエジプト風の壁画。昭和初期に建てられたというイセビルとその頃の食堂のものと思われる壁画については、個人的にとても興味があった。そうして調べた結果、このイセビルに編集部のある、星羊社発行の“ヨコハマを転がる民衆文化誌”『はま太郎』を入手したので、この本を精読して詳しい知識を得てみたいと思った。

 イセビルと壁画についての記事が書かれているのは、2015年6月発行の『はま太郎』第10号である。これがまた不思議な縁というか面白いことに、雑誌そのものが、実にあの壽屋(現サントリー)のPR誌『洋酒天国』とよく似ているのだ。
 『洋酒天国』は昭和30年代に不定期で発行され、各地のトリスバーなどに据え置かれた開高健編集の小冊子で、私のコレクター・アイテムでもあり、たびたび当ブログでも紹介している(カテゴリーラベルの“洋酒天国”をクリック)。『はま太郎』と『洋酒天国』を外見で比較してみると、本の大きさはほぼ同じB6判。ヨーテンのほうがやや小ぶりで、『はま太郎』のほうは紙質の違いで若干厚めに感じられる。が、しかし本当によく似ている。

 『はま太郎』の印刷の匂い――。この独特の匂いも、別の意味で懐かしい。
 昔、小学校で配られたテストや印刷物は、すべて藁半紙だった。手書きも手書き、謄写版刷りからコピー機へと推移する過渡期の頃だ。そういう藁半紙で印刷されたインクの匂いが、『はま太郎』の紙から漂ってくる。
 ちなみに、『はま太郎』第10号はミシン縫い製本の一色刷なのだけれど、11号以降はどうやらカラー印刷になったようだ。中区界隈の酒場だとか老舗パン屋(コテイベーカリーの「シベリア」がたまらなく美味しそう!)などのショップ・ルポ、ノンフィクション、ちょっとした味のあるコラムなどを読んでみると、やはり第10号は、とびっきり“ヨーテン”っぽいのである。

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「ヨコハマ・理想郷譚」
 さて、イセビルと壁画のこと。「ヨコハマ・理想郷譚 十之章 伊勢佐木町入口の不夜城 ~イセビル地下の壁絵が語る、ザキのモダン文化~」の記事。伊勢佐木町の沿革とイセビルの大まかな歴史については前回のブログを参照していただきたいが、当時横浜の市会議員をしていた地元出身の上保慶三郎という人の尽力によって1926年、イセビルは完成したという。明治の頃、20歳で洋品店を開業した上保氏は、33歳で市会議員に初当選。ビルの完成時は41歳とのこと。ビルの地下は和洋食堂で最上階は展望台レストラン。その後屋上はビヤホールとなり、活況の酒場と化したようである。飲食店の他は雀荘、美容院、洋傘やネクタイの店などが次々入居したという。

イセビルに残されていた壁画
 2014年のビルの原状回復工事で、例のエジプト風の壁画が現れた。私が先週、公演の際に観たのは確か、ファラオが鎮座した画だったと記憶するが、どうやら裸婦の壁画もあったらしく、現場の壁には4つの確認できる画があるようなのだ。横浜の大空襲にも耐えたビルの構造は、当時としては堅固なもので、基礎はしっかりとしたものになるよう上保氏の強い希望があったという。
 こうしたイセビルの当時の繁栄ぶりを想像すると、ここが伊勢佐木町繁華街の重要な文化センターであったことは容易に理解できる。何より、そのビルが今も残存していることに驚きを隠せない。「イセビル百貨店」としての気概は今なお、この地に根付いていると言えよう。

かつてこの街の多くはGHQに接収されていた
 ハマノザキニハマル…、ハマノザキニハマル――。今度来る時は、『はま太郎』を片手に散策してみよう。まことに稀少な本ではあるが、この街の賑やかで明るい文化とその歴史は、しっかりと刻み込まれている。

2017年1月17日火曜日

演劇『金閣寺』追想

 横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
《神奈川県横浜市の中心的商店街で中区にある。東京の銀座、大阪の心斎橋筋などとならび称せられる繁華街。第二次世界大戦後は焼け残ったおもなビルや周辺一帯が広く米軍用地に接収されて復興が著しく遅れたが、現在では活況をとりもどし、各種デパート、商店、映画館がたち並んでいる。この一帯は江戸時代前期、1659年(万治2)の干拓による吉田新田にあたっているが、開港後港を中心とした関内(かんない)すなわち外人向け商店街として開かれ、明治初年に共同して開発にあたった伊勢屋と佐々木氏の屋号をとって、町名にしたという》
(『世界大百科事典』平凡社・1964年初版より引用)

 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。
 イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。
 それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。
 この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。

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劇場で配られた『金閣寺』の御守護的フライヤー
 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。
 私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏に起きた金閣寺放火事件を題材にしており、三島由紀夫の小説『金閣寺』が原作。脚本は宮本亜門演出の『金閣寺』(伊藤ちひろ、宮本亜門)に拠る。
 上演が約2時間半強に及んだ『金閣寺』の構成は、脚本はもとより三島原作の『金閣寺』に忠実で、三島の文体が時折朗読されながら、「3人の青年」の生き様が滑降する状況心理劇となっていた。そのシチュエーションは概ね金閣の舎利殿がある禅寺(鹿苑寺)、あるいは京都界隈である。

 主人公の青年・溝口。彼は舞鶴で生まれ、父の遺言で金閣寺(鹿苑寺)の徒弟となった。父は舞鶴の辺鄙な岬の寺の住職で、その父と死別した溝口には生来の吃りがあった。彼にとって吃りは、自己の人生観を左右する大きなコンプレックスであった。
 同じ金閣寺で徒弟の修業をする青年・鶴川。彼は住職の縁故で預けられた身で、溝口の最も親しい慰藉の友であり、溝口の吃りを決して蔑まない。家は裕福で、溝口にはない明朗闊達な性格である。
 そしてもう一人の青年は、柏木。彼は溝口が通う大谷大学予科1年の生徒で、両足の内翻足のハンディキャップを抱えていた。性格は情動的で、知性を斜に構えた冷淡な態度をとり、関係を持つ異性を日常的に苦しめる。しかし溝口にとって柏木という男は、鶴川よりも自分に境遇が近く、その性悪な態度にしばし嫌悪を抱きつつも、どこか憎めず離れることができない腐れ縁的な存在だ。
 この三者三様の難役を実に瑞々しく等身大で演じきったのが、溝口役の河野麗生、鶴川役の高橋拓也、柏木役の金澤卓哉である。彼らの演技がこの舞台の軸となり血肉となっているが、そこに溝口の母親役の腰を据えた気丈な演技が加わると、場の局面の起伏が異様に波打つ。老師・道詮和尚が佇む禅寺の清楚で暗鬱とした趣は、「3人の青年」のうごめきによって血肉の赤に染められ、激しい人間同士の衝突が葛藤劇となって次々とめまぐるしく展開されていく。

 一つここで私は、三島由紀夫の言葉が想起された。「裸体と衣裳」という彼の日記抄の中で、昭和34年4月10日の皇太子御成婚パレードをテレヴィジョンで見た彼は、こんなことを書き記している。三島が釘付けになったのは、両殿下が乗る馬車に一人の若者が突然近づき、周囲が騒然となったアクシデントの瞬間だ。
《そこではまぎれもなく、人間と人間とが向い合ったのだ。馬車の装飾や従者の制服の金モールなどよりも、この瞬間のほうが、はるかに燦然たる瞬間だった》――。また、こうも述べている。
《それにしても人間が人間を見るということの怖しさは、あらゆる種類のエロティシズムの怖しさであると同時に、あらゆる種類の政治権力にまつわる怖しさである》
(三島由紀夫著『裸体と衣裳』より引用)

『金閣寺』フライヤーの裏面
 皇太子は生まれて初めて、“裸の人間の顔”を見、向かい合ったのだと三島はその時、昂奮を抑えることができないでいた。世界が変わった瞬間とも言える。それと同じものを私は、今回観た演劇『金閣寺』の舞台上においても、三島のこの不動の常態を示す感性の小端を見たはずだ、と気づいた。
 つまり、1950年の夏に起きた禍々しい金閣寺放火事件と等身大の若者――その若者の剥き出しの裸の顔。それは内部に秘められていた心の闇の突発的な爆発であり、向かい合った衝撃である。主人公の溝口が抱く想念すなわち金閣に対する美意識であるとか、まるで自分とは別世界の沙汰にある美の建物の存在が、やがて反撥と憎悪の対象となっていく経過を、舞台に面した観客席の中で私は目撃したのだ。私は確かにそこで、“裸の人間の顔”を、見た――。

 時系列が舎利殿放火へと向かうドラマチックな展開となっている反面、「3人の青年」の“裸の人間の顔”の実相を暴くのは、演劇が進行している最中ではとても難しいことだ。が、観終わって落ち着いた頃に、青年らの心の在処を探り出す永き余韻こそ、この演劇『金閣寺』の優れた演出ではないかと思われる。
 溝口、鶴川、柏木という3人の関係性及び情緒的行動はどこか不均衡かつ無秩序で、同胞としての仲間意識が表面的には乏しい。それぞれがそれぞれの人生を背負い、通い合うことなく孤独である。孤独としての共感、同胞的観念はおそらく内側の奥底に秘められ眠っており、それぞれの表情に無意識にもしばし反映される面がなくはない。しかし、緻密な心情を汲み取って束ねられるだけの達観というべきものが、溝口には具わっていなかった。すなわちこれが金閣寺を焼く、という行為の悲劇につながる。しかも、溝口の不幸は常に我々の中に存在するのだ。

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 若者であるという人生の一つのカテゴリーは、その尊き同志との関係性において、どこか意識と意識との最大公約数を見いだし、失望の途を踏み越えながら妥協しつつ、心を安息に束ねていくものなのだろうが、溝口も鶴川も柏木も、誰一人折れることなく自己の観念の聖域に到達することを夢見、あくまで同志ではなく反同志として貫通し、結果的には観念そのものが脆くも破綻していく。互いが互いにとって許されるべき存在であるのか否か――。他方は恋に破れ、他方は愛に絶望し、他方は自己愛と精神美の崩壊を招く。

 等身大の生身の若者がこれらの青年を演じる上で、『金閣寺』におけるこれほど難しい役柄と構造はなかったであろう。己の本身にこそ、その役柄の剥き出しの顔が具有されることの、一種のおののきを感じる際どい演劇である。
 人間が人間を見ることの怖ろしさはエロティシズムの怖ろしさであり、政治権力にまつわる怖ろしさであるという三島の言葉が、ここではやはり相応しい。私が今回観た演劇『金閣寺』は、おそらくこれまでのどの同作品劇よりも、“裸の人間”たちによる群像劇であったと思う。それを奇跡的に観たと同時に、あの「3人の青年」と同じ襞を、己の内側に隠し持っていることに、誰もが気づかされることだろう。

 こうして緊迫と平穏とに包まれていた特異な時間は、あっけなく過ぎていった。伊勢佐木町の青空に。これは、私がとんでもない演劇を観てしまったという秘密事なのである――。

2017年1月5日木曜日

空想と本の物語

2016年11月27日付朝日新聞「折々のことば」
 本に対する愛着を示せ――の答えが、ここにあった。2016年11月27日付朝日新聞のコラム「折々のことば」に挙がった北田博充さんの以下の言葉である。

《空想は現実の反対側にあるものではなく、空想の延長線上に現実がある》
(2016年11月27日付朝日新聞「折々のことば」より引用)

 やはり深みのある言葉である。この言葉が気に入って――というか気になって――よくよくこの言葉を考えてみようと、新聞の「折々のことば」の部分を切り取って、それからしばらく、この紙切れを机の片隅に置くことにしたのだ。

 本を読むことの始まりが、空想の始まりであることを、この言葉は味わい深く示している。いや、何も本に限ったことではない。何か物事を始めるには、空想の準備というか空想の前置きが必ず「起こって」いる。空想はそこに在るものではなく、自分で「起こす」ものなのだ。
 空想のその先に、つまり本を読んだその先に、思いもつかぬ現実がある。少なくとも私は、いくつもの本を読んだことによって、何か人生観や文化的な営みが活力を持って動き出し、意識的か無意識かは別にして、ある種の新しい現実を作り出していると思う。だから本との出会いがあまりうまくいかなければ、その先の現実もあまりうまくいかないような気がしてきてしまう。

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『THE BODY 写真における身体表現』(美術出版社)
 とにかく学生時代は、本が読みたいという衝動以外にも、小一時間の暇をつぶすために、よく本屋へ駆け込んだ。大きなデパートがあればそこの書店には必ず足を運んだし、駅の目の前の書店で時間をつぶす時の、“制限時間”を自分に課した官能的な快感はなんとも言えない。そこでいい本と巡り会えるかどうかは、やってみなければ分からない面白さがある。
 まだ、インターネットがそれほど普及していない時代の、本と本屋にまつわる話。
 その頃20代半ばの私は、行きつけの本屋で、『THE BODY 写真における身体表現』(ウィリアム・A・ユーイング著・美術出版社、1996年刊)という写真集を発見してしまった。これは、著名なアーティストたちによる身体表現写真をカテゴリー別に分類し解説したもので、飯沢耕太郎氏が日本語版の監修者であり、431ページもあるどっしりと重い分厚い本である(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)。

 本屋の書棚の、一番高い所に並べられていたその本を、ある時一度、偶然手に取って眺め、これは欲しいと思った。しかし、3,200円という割高な値段であったのと、あまりにも中身が、先鋭な身体表現が多く刺戟的であったため、若気の至りにすら到達しない完全無欠の“羞恥心”に駆られ、レジにそれを持っていく勇気がなかった。
 それから何度もその本屋に足を運んでは、どうしようか買うまいか、身体と心がねじれ切れてしまうくらいに、あれこれ思案した。…果たして、我慢して買わないで居られるだけの現実と自分が向き合えるのか。むしろそれは苦痛ではないのか。そこにある写真の数々を網膜に焼き付けないでいる未来とはいったいどんな未来か。そうした自分自身の未来が、果たして本当にこの世の中を見据えられるのか。そのペテンの未来に、どれほど生き続けられるのか…。
 理屈と理屈をこねくり回して攪拌させ、最終的には、その本の魅力を捨てることができず、バイトの男子学生がレジ係であることを目視確認した上で、レジのカウンターに持っていくという“元服の儀”を通過した。あれから長い年月が経ち、その本は今も私の手元にある。確かに、この本とあの時出会えていなかったならば、その先の私の未来は――決して大袈裟なことではなく――芸術活動におけるペテンの一歩手前であったかも知れないのである。

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 本との巡り会い以上に、いい本屋との出会いの経緯こそが、大切だと思う。今なお調べてみると、私がいつも親しんでいる上野の街の片隅に、北田さんが提案しているような“本と雑貨とカフェの複合店”のイメージにぴったりな本屋さんを見つけたりした。

 まるで大きな星々の光で隠れてしまうような小さな星たち、そんな淡い光を放つ星たちの本屋が、街のどこかにあるといい。空想というときめきで始まり、ワクワクした気分で本屋に足を運び、興味のある本と出会うこと。カフェでゆっくりと時間を過ごすこと。それが私にとって理想である。
 私があの時ヘトヘトになって苦労して買った“刺戟的な本”は、本屋のネームの入ったしわくちゃなクラフト紙の中に包まれて、引き出しの奥に眠っている。空想から生まれた、大事な本である。

2017年1月3日火曜日

青空の多重録音

「Sky High」と「Back Again」のEPレコード
 まず私は、この極私的な懐かしい思い出を、いかにして伝えるべきかたいへん苦慮し、タイトルもあれこれ考えてしまった。「青空の多重録音」。それは中学生だったか高校生だったかの頃の思い出であって、いま私が音楽で「歌う」ことの、その技術と心情の在り方の一つの分岐点になった事柄でもあった(この話は4年前、[Dodidn* blog]の「Back Again」で触れられているが、内容的に充分ではなかったので敢えてもう一度ここで書く)。

 この話は、「歌う」ことを目的とした私が、その初心に返るべく、忘れてはならないことを注意深く思い出していくことに意味がある。
 1987年頃、中学生だった私は、念願のマルチ・トラック・レコーダー「TASCAM PORTA TWO」を入手する(この機と多重録音に関してはホームページのコラム「多重録音ということ」参照)。これはカセットテープに4トラック録音することができ、ミキサー部には入力アンプやEQ、AUXなども充実していたから、アマチュアバンドの録音には最適なレコーダーであった。テープスピードは9.6cm/secと4.8cm/secに切り替えられ、前者のテープスピードだと、46分のカセットテープであれば片面23分のところを11分ほどで使い切ることになる。しかしこの倍速スピードは音質面で4.8cm/secよりも優れていたのである。
 私はこの機で、多重録音ということを学んだ。通常のカセットテープ・レコーダーは、磁気テープ帯の片面2トラックステレオ録音/再生であり、音を重ねて録ることはできない。マルチ・トラック・レコーダーは磁気テープ帯両面を一度に使用するので4トラック分録ることができる。それぞれのトラックのレベル・フェーダーを操作することによって音量を調節し、パンポットでそれぞれのトラックの定位(ステレオの左右の振り分け)を可変することができる。例えばバンド演奏を録る場合であれば、1トラック目にドラム、2トラック目にベース、3トラック目にギター、4トラック目にヴォーカルといったふうになり、これを音量的にバランスを取ってミックスし、別のテープレコーダーにダビングすれば、多重録音によるバンド演奏が仕上がる仕組みである。この録音のプロセスそのものは、現行のデジタルによるマルチ・トラック・レコーダーやコンピューター・ミキシングと何ら変わりはない。

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ジャケット裏の2曲の歌詞
 高校生になって、その頃私は猛烈な気持ちで歌を勉強するために、70年代のロックバンドJigsawの「Sky High」EP盤、そのB面の「Back Again」という曲を、4トラックを使って歌とコーラスで多重録音した、わけである。トラックの振り分けとしては、リード・ヴォーカルに対し3パート分のコーラスを吹き込んだと記憶する(ミキシングではリード・ヴォーカルをセンターに、コーラスを左右に振り分けた)。
 Jigsaw(ジグソー)がメジャーなバンドではなかったのは、とても残念である。とは言うものの、私自身もこのバンドを詳しく知らないまま今日まで来てしまったのだけれど、そろそろ彼らの過去のアルバムのリイシューCDを一つくらい買わなければと思っている。おそらくいい曲がたくさんあるだろう。
 ここではウィキペディアの情報データを参考にするが、Jigsawはイングランドのバンドで、1966年にウェスト・ミッドランズ・コヴェントリーで結成、ソフトロックバンドとして1968年にデビュー、だそうである。メンバーはヴォーカル&ドラムスのデズ・ダイヤー、キーボード&ヴォーカルのクライヴ・スコット、ベースはバリー・バーナードで、ギターはトニー・キャンベル。

 私が当時買ったEPレコードは彼らのオリジナルのものではなく、1982年のトヨタのコマーシャル、ライトエース・ワゴン“ムーン・ルーフ篇”のイメージソングとして発売(発売元はキングレコード)されたもので、Jigsawの『Sky High』のアルバム及びシングルは1975年発売である。このトヨタのイメージソングのEPレコード・ジャケット――真っ青な空に噴煙を撒き散らして絡み合う2機の小型飛行機――は実にシンプルで研ぎ澄まされていて素晴らしく、清々しい気分にさせられて私はとても気に入っている。

 切ない恋心を歌詞にした「Back Again」は英語を覚えるのにも適していた。私はこの歌詞に惚れ込み、心情的にどれほどか揺れ動かされた(現実の恋の生々しさと重ね合わせて)。多重録音で苦心しながらヴォーカルを重ねていくうち、音楽とは実にいいものだと心底思った。またそうした音楽はこうした多重録音で記録されることによって、後世まで残りうるものなのだとも気づいた。音楽の記録性。その計り知れない表現性と大衆への伝播の力。

 甚だ残念なことに、この時録音したテープはとうの昔に捨ててしまった。誰にも聴かせることなく消えていったテープである。だが、私の心にはいつまでも残っている。初心を忘れないための、大切な記憶だから。
 録音した自分のヴォーカルとはまったく関係のない、あのジャケット――真っ青な空に噴煙を撒き散らして絡み合う2機の小型飛行機――がこの思い出のビジュアルなのだ。これがある限り、私は忘れない。澄んだ青の中に、10代の私の心が溶けてしまっていてむず痒くて仕方がないのは承知で、時々にこのジャケットを見ていたいと願う。絡み合っているのは飛行機なのか、何であるか…。

2016年12月31日土曜日

FMラジオ音楽悦楽主義

専門学校時代のいソノてルヲ先生
 果敢に、とりとめのないラジオと音楽の話で文字を埋め尽くしてみたい。脈絡がないから、話がどこからどこへ飛ぶのかさえ分からないけれども――。

 今年の4月、私が専門学校生だった頃に講師をしていたジャズ評論家・いソノてルヲ先生について、当ブログの「いソノてルヲ先生―わが青春の日々」を書いた。その時の参考資料として、いくつか学校時代の古い冊子から先生の文章を見つけて読んだり、先生がラジオ番組のDJをしていた頃の音声をYouTubeで試聴したり、例えば先生にとって思い入れのある懐かしいドリス・デイの曲、「Sentimental Journey」を聴いたりと、かつて講師だった頃の壇上の先生の“肉声”を思い出すべく、多少の下調べをしたのであった。

 そんな中で見つけたのは、先生がDJをしていた「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」(これは1980年夏、平日2週間にわたってNHK FMで夜枠放送された全10回のジャズ特集番組で、楽器別に曲をセレクトしていたという)という番組に詳しい“個人サイト”で、私の好きなレイ・ブライアントやコルトレーン、マイルス・デイヴィス、ジミー・スミスなどの名演奏もいソノ先生は挙げられており、これらの曲をどのような口調で解説・紹介したのか、大変興味が持ち上がった。

消えてしまったある個人サイト
 そのサイトのオーサーは、全10回をすべてテープに録音していて、今でも大切な宝物として持っていると、“個人サイト”に書いていた。いソノ先生のDJ(音声)は確かにYouTubeで聴けるのだけれど、残念ながら多くを見つけることができない。そこで私は思い切って、これは今年の5月のことになるのだが、そのオーサーにメールを送り、できれば「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」の音声をデジタル・メディアにコピーしていただけないかとお願いしてみたのだ。もし1回分でもその半分でも音声を聴くことが可能になれば、私にとってこれは、いソノ先生からの最高の形見分けになると思ったのだ。

 ところがいくら待てども、返信メールはやって来なかった。2ヵ月後の7月にメールを再送、今月の初旬にも再送。しかし、User unknownのMAILER-DAEMONすら受信されず、なしのつぶて。オーサーはこちらが送ったはずのメールを、まったく閲覧することができないようだった。
 そして気がつけば既に、その「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」の“個人サイト”すらも、跡形なく消えていた(※ニフティのホームページは、今年の11月のサービス終了により開設者の移行手続きが必要で、オーサーはその後継サービスへの移行手続きをしなかったため、ホームページが自動的に閉鎖されたと思われる)。

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 入手した1986年頃の、古いFM雑誌をとりとめもなく、眺める。
 あるラジオ番組紹介のページでは、まだ若かったムーン・ライダースの鈴木慶一さんの“デビュー10周年記念コンサート”の話だとか、高橋幸宏さんが何故か東京の市ヶ谷の釣り堀で魚を釣っている様子の写真が掲載されていたりして、喋っていることも面白い。最近フォーク・ロック調の音楽がナウい――などと。
 別のページで私は、マッカートニーの『Press To Play』の新譜紹介を読み、そうかあの頃かと確認し、ライオネル・リッチーの『Say You Say Me』のジャケットに惚れ惚れしたり、加古隆の『いにしえの響き~パウル・クレーの絵のように』が気になり始め、ザ・ガッド・ギャングの『Everything You Do』を大発見したり。
 今度は各局の“FM番組表”に目を凝らすと、これまた懐かしいと思える。中学生だったあの頃は、NHK-FMの木曜日のコンテンツを集中的に聴いていたことを思い出したりした(午後4時からの「午後のサウンド」は主にジャズの曲を、夜の9時からは「公園通り21」でラジオドラマを聴いていたはず…)。とは言え、FM東京の「ジェットストリーム」はまた格別の思い入れがあった。反面、あの頃、あちこちのラジオ番組でスティーブ・ウィンウッドの「Higher Love」をどれほど聴いたことであろうか。

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『Sound & Recording Magazine』2011年9月号
 2011年、雑誌『Sound & Recording Magazine』(リットーミュージック)9月号で、ライター・原雅明氏連載の「THE CHOICE IS YOURS」のコラムを読んだことがある。「人を“駆り立てる”ラジオ番組のあり方とは?」と題されていて、ヒップホップ系の一貫した音楽純潔主義のラジオ局だとか、ラジオも今やネット配信の時代といった内容で、私は感化された。前者ではボビート・ガルシアが紹介され、後者ではSHIBUYA-FMが紹介された。
 音楽中心のコミュニティFM局が日本では珍しく、また純粋な音楽番組も比較的珍しいと言わなくてはならない時代になっていたのだ。おそらくほとんどは、権利関係で採算が合わないのだろう。私はこうした記事を読むにつけ、たとえそれがサブ・カルチャーの一つとして数えられてしまうにしても、純粋な音楽番組を提供する形態はまだ残されていると安堵を覚え、SHIBUYA-FMという名前だけは頭にこびりついていたのである。ところが…。
 SHIBUYA-FMの公式ツイッターからURLをクリックしてみると、“消費者金融の即日融資ガイド”なる文字が。そのURLは別サイトと化し、とどのつまりSHIBUYA-FM(東京コミュニケーション放送)は、2013年の7月に既に廃局となっていたのだ。これには驚いた。

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消えてしまったSHIBUYA-FMサイト
 もしあの「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」のオーサーが今も“個人サイト”を続け、私が送ったメールに反応して何らかのアクションを起こしてくれていたら、私は今おそらく、いソノ先生の声がかなり明晰に頭にインプットされ、その解説に伴って素晴らしいジャズの名演の数々に聴き惚れていたかも知れない。片や、SHIBUYA-FMが潰れていなければ、ヒップホップや渋谷系のフォーク・ロック、あるいはボサノヴァ・アレンジのポップスを盛んに聴いていたかも知れない。いやいや、虫がよすぎる幻想。儚き夢。他力過ぎる話――。

 しかしそれでも尚思うのは、ジャズや軽めのポップスが今年1年、耳からすっかり遠のいていたなということだ。中学時代の暇な木曜日、その放課後のかったるい夕刻前のひとときを、インスタント・コーヒーを飲みながらラジオに耳を傾けていた日々を思い出す。そう、あの頃はちゃんと、自前のオーディオのアンテナ端子には、屋外に設置してあるFM用アンテナのケーブルをつないでいたから、それなりにハイファイなサウンドでステレオを聴けていたのだ(ラジカセのロッド・アンテナを伸ばしてもこうはいかない!)。
 高校時代では、友人がお気に入りのラジオ番組(主にFM NACK5)をカセットテープに落として貸してくれたし、ソニーのウォークマンでそれを聴く日々があった(私はそれで種ともこという素晴らしいアーティストを知った)。
 今なら、どこに居てもケータイのラジオ・アプリでラジオが聴ける。それこそ無数にある世界中のコミュニティFMが無料で聴けてしまう時代だ。私はこれらに、すっかり鈍感になりすぎてしまっている。

 結局はこういうことなのだ。自分で聴きたい音楽は、面倒でも自分で探そう。SNSのシェアを頼るのもいいが、もっと努力して自分で探してみよう。それが本当の聴きたい曲ではないのか。音楽が好きなら、オーディオに手間とお金をかけよう(日々のしあわせのために僕達は働いているのだから)。テレビの音楽番組でありがちな、レコード会社の政治的意図には騙されるな。

 私はラジオという存在を忘れかけていた。
 ラジオを聴こう。お気に入りのラジオ番組を探してみよう。ラジオでもっと、音楽を聴こう。私が今日言いたかったのは、こういうことだと思う。

2016年12月27日火曜日

『洋酒天国』とバッカス礼讃〈2〉

『洋酒天国』第50号
 前回に引き続き、『洋酒天国』第50号を紹介。
 「東京ジェンヌ」のピンアップの裏は、「洋天ジョークス」。これもヨーテンの名物コーナーになっていて、柳原良平氏のアダルトなイラストと共に、そのエロティックなジョークで笑いを誘う。以下。2つばかり抜粋してみた。

《大晦日…大晦日の夜、上きげんで、A君が細君に言った。
「今年はいい年だったね。ボーナスはたっぷり出たし、旅行も四回もしたし、君の好きなものも、ずいぶん買って上げられたからね。思えば、結婚以来のいいほうの新記録を作った年じゃないか。」
「あら、それをおっしゃるなら、ちょっと待ってね」
 細君は家計簿を取り出すと、なにやらパチパチとそろばんを入れはじめた。そして、計算が終わると、勝ち誇ったように言った。
「ほらごらんなさい。私の思った通りだわ。去年よりも二十八回、結婚した一昨年にくらべると四十二回もいちばん肝心なことが少ないわよ。…この赤字は来年どうしてもうめてくれなければ困るわ」》

《拳斗家の妻…プロ・ボクサーのA君は大事なタイトル・マッチをひかえて、トレーナーから厳重な禁欲生活を申し渡された。幸いA君の細君は、良妻の誇れが高い。夫君にこのきびしい戒律を立派に守らせた様子だった。その故か、試合はわずか三ラウンドで、A君のKO勝ちだった。
 さて、その夜、A君の寝室から、A夫人のこんな声が聞えて来た。
「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、…さあ、立上って!…まだ三ラウンドの途中なのよ」》
(『洋酒天国』第50号より引用)

早田雄二のヌード・フォト
 「私のお気に入り 8人のカメラマンのお気に入り特集」は、それぞれのプロ・カメラマンの妖艶合戦である。艶めかしい女性たちをとらえた写真が、10ページにわたって掲載されている。8人のカメラマンとは、秋山庄太郎、稲村隆正、大竹省二、杵島隆、田沼武能、中村正也、中村立行、早田雄二。どれも個性的なカットばかりで、女性の色気がそれぞれのセンスで縦横無尽に引き出されている。
 ここでは、早田雄二の写真を紹介しておく。早田氏は『映画の友』のカメラマンとして有名で、昭和の名女優の写真を数多く撮られたプロフェッショナルである。ちなみに2016年は、早田氏の生誕100年の年であったとか。今年、生誕100年を記念して、早田氏撮影のスター写真による“美しき昭和の名女優”なるカレンダーが発売されていたようだ(1月は原節子さんで始まり、12月は美空ひばりさん)。
 ヨーテンにおける早田氏の写真は、男女の淑やかな曲線の構図。ラテンのダンス――それもマンボであろうか、サルサであろうか。踊る女性の官能的なくねり具合がなんとも言えず、抑制の効いた名女優たちのブロマイドとは一線を画し、このようなヌード・フォトに早田氏が挑んでいたとは、とても新鮮な趣である。

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六浦光雄「東京酔歩」
 戦後の東京を緻密な線画で描く漫画家・六浦光雄氏の「東京酔歩」。これはどうやら、彼の貴重な“東京漫画”と言えそうだ。ヨーテン第50号が発行された年と同じ昭和35年8月にこれを描いた旨のサインが小さく記されており、3年後には文藝春秋漫画賞を受賞している。昭和44年に亡くなられたその4年後に刊行された『六浦光雄作品集』(朝日新聞社)はマニア垂涎の貴重な画集本である。果たしてここでの2点は、そこに含まれているのだろうか。
 漫画とは言え、もはや記録写真に匹敵する写実であり、何も足さない何も引かないリアリズムがある。この緻密な線画には、昭和の東京の、活気ある街の風景と人々による、ユーモラスな優しさ、おどろおどろしい毒気をはらんだ都会の暗底部が、不可分にひしめきあいながら描かれている。

都筑道夫「さよなら」
 ショート・ショートの推理作家・都筑道夫の洋酒天国版世界名作全集「さよなら」。原作ミッチェナー。1957年公開のアメリカ映画『サヨナラ』(原題Sayonara、主演はマーロン・ブランド、ナンシー梅木)に影響されているようだが、この都筑道夫の「さよなら」は、原作ミッチェナーとも映画ともストーリーが異なるまったく別物。あくまでタイトルをもじっただけの独創作品であろう(私自身はミッチェナーの原作も映画も簡単な筋しか知らないが)。以下、こんなストーリーである。

 ――雨の降る夜、主人公のバーの客・黒木が、バーテンの白井に毒薬を譲って欲しいと促す。以前白井はノルウェー人の船員から、プロキシド・エフレナリンという毒薬を入手したのだという。黒木はその毒薬を、自分の結婚問題でいざこざのある女に、試すつもりであった。
 白井はこう考えたのだ。形のよく似たビタミン剤の瓶に、二錠のプロキシド・エフレナリンを混ぜ、この中から二粒、選べと。毒薬を譲るのは構わないが、そっちの人殺しに加担したくないという腹だ。
 黒木はしぶしぶその案をのんだ。迷いながら瓶の中から二粒を選び、白井が差し出したナプキンにそれを包んで、ポケットにしまい込んだ。白井はカネを受け取ろうとはしなかった。残った錠剤を白井は、ゴミ捨て缶にすべて捨ててしまった。黒木はその女と会うため、店を出た。「さよなら」。外はまだ雨が降っていた。
 やがて、店を閉めるために白井が後片付けを始めていると、ドアを叩くものがあった。黒木だ。黒木は雨で濡れていた。サントリーのダブルを注文した――さて。

 この後の結末は割愛させていただく。ショート・ショートの面白さは結末にこそあるから。
 都筑氏の作品は何度もヨーテンに登場し、私は好んで彼の作品を読んできた。酒に絡んだストーリーであることは言うまでもなく、とどのつまり、夜の女の話であることが少なくない。酒好きにとって、酒の絡んだストーリーで、夜の女が登場する連載もの、連作の小説があればどれほど毎夜の酒が愉しくなろうか。
 『洋酒天国』のような小さな本が、現代を見渡して今、どこにも存在しないであろうことを考えると、寂しい思いがしてならない。そんな本が今あるのなら、是非とも教えて欲しいと願う。第50号は大人のお伽話の詰まった大傑作であろう。

 最後に「洋酒天国三行案内」を一つ紹介しておこう。目立ったのはこれ。
《結婚望洋天的センスの女性年不問当方糞真面目青年26バーマン歴6年熱海市銀座酔族館●●●》
 ●●●ってこれ…シライじゃないんです。

2016年12月22日木曜日

『洋酒天国』とバッカス礼讃〈1〉

『洋酒天国』第50号
 洋酒の壽屋(サントリー)のPR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)を今月も紹介。昭和31年4月発行の創刊号から昭和39年2月の第61号まで、すべて紹介したいと私は意気揚々、今や当ブログではそのほとんどを網羅したかと自負するが、まだまだ入手していない号もあってなかなかヨーテンは手強い。完結には程遠い。継続あるのみ。今回は、記念すべき第50号を2回に分けて紹介してみたい。50号とあってなかなか内容が充実している。エロティックな画像も含まれるので、殿方以外はしばし、ご留意を…。

 『洋酒天国』第50号は昭和35年10月発行。昭和35年(1960年)と言えば、どんな出来事があったか。国内では、日米新安保条約の調印により、岸信介首相が辞任。池田勇人内閣誕生。三井三池炭鉱の労働争議があり、テレビのカラー放送が始まる。海外の出来事としては、チリ地震、ローマ五輪開催、チャップリンの映画『独裁者』公開、などであろうか。ちなみに昭和35年のヨーテン各号は、第43号から第50号まで8冊も好調に発行しており、大豊作。しかし、この50号で一区切りついたせいか、翻って翌年の昭和36年は寡少。第51号と第52号のたった2冊のみの発行となっている。

 第50号の表紙(背表紙を含む)は見ての通り、これまで発行された号の表紙を順に並べた、豪快かつ壮麗なビジュアル。まさに記念の号であり、感慨深げな揮毫である。表紙を開くと、大阪の山崎蒸留所を空撮した写真が載っていて、撮影に金をかけたなと思う。山間に囲まれた蒸留所とその南側の町は、当時国鉄であった東海道本線によって境界線となり、その鉄道のカーブに沿って西国街道が並行に通っているのが分かる。町の方は田畑が目立つが、現在そのあたりにはサントリーの社宅の建物があるらしい。

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並木康彦「ルイ・ジューヴェのバッカス礼讃」
 さて、本の中身。まずは、並木康彦著「ルイ・ジューヴェのバッカス礼讃」。ヨーテンのライブラリーをあちこち眺めていると、この“バッカス”という言葉がたびたび出てくる。バッカスとは、Bacchusすなわちローマ神話の酒の神である。筆者・並木康彦氏は当時中央大学の講師という肩書きで、このエッセイを書いている。
 エッセイの内容はたいへん興味深いものだ。フランスの名優、ルイ・ジューヴェの演技論とも言うべきもので、彼はメチエ(métier)という言葉を愛したと筆者は記す。酒に酔う、つまり酩酊こそ、演技における俳優と劇詩人の原始の姿だとジューヴェは説き、《演劇という芸術が真実を引き出そうとするのは井戸の中からではない。それは酒の中からである》とも述べた。《役の人物が自分に入れ代ると感じるあの恍惚たる瞬間》こそが、陶酔であり、演劇の本質である。そんなふうな内容の、ジューヴェのバッカス礼讃。
 酒の酩酊によって、人は様々な喜怒哀楽の情を露わにする。俳優がそうした酩酊を演じた時、そこに表れるであろう自由で奔放な、無秩序な、束縛が一切無い解放された酔態の言動が陶酔の表現となって、俳優たる演技はそれに近づかんとすることを本義とせよ、ととらえればよいか――。語り出せばキリがないが、これを読んで私の身体はぶるぶると震えだした。演技とはなんぞや。彼が1938年に出演した映画『北ホテル』(監督はマルセル・カルネ)を是非とも観たいと思った次第である。

今月のカクテル「サンセット77」
 「サンセット77」のカクテルの写真が際立って、とても美しい。単なるカクテルの紹介コラムではない。酒による芸術のカタログである。ヘルメスジン、ヘルメルフレンチベルモット、ヘルメススロージン、トリスコンクオレンジジュースをシェイクして、グラスにレモンのスライスを飾るのが、カクテル「サンセット77」。写真の瑣末とは思いながらも、グラスに注がれたあの透き通った真紅の液体が憎い。エロスを感じてしまう。
 酒を嗜むとは、液体と化した妖精を見て享楽し、味覚でそのエロスを堪能するということなのか。ところでこうしたエロスの色合いを、現今のデジタルのフォトグラフは再現できているであろうか。あるいは写真家の眼差しの、その得体の知れない魔力を引き出す力、色彩に対する審美眼とセンス、モチーフの使い方の流儀など、私はどうしてもこの時代に一つの到達点を見いだし、それ以降、芸術分野の部分的な側面においては、すっかりあの時代に置き忘れてしまったのではないかと思わざるを得ないのである。

ヌード・フォト「東京ジェンヌ」
 「東京ジェンヌ」のヌードを鑑賞してみよう。ここにも酩酊と陶酔とがある。写真としての酩酊――それは構図と陰影・色彩の酩酊芸術であり、被写体は写し取られる覚悟の、理性を飛び越えた酩酊がある。
 うつろな女の視線は酒が注がれたグラスに対してではない…。愛する者の背中を女は見ているのだ。女の意識がそうであればこそ、その身体は見られることを忘却した無防備な裸体となって、その瞬きの光の影像となる。ひとまとまりの乳房は重力によって垂れてはいるものの、若さ故に張りがあり、宙に浮いた局地である。その局地点の薄紅色の突起は、愛の深さと照応し、まったく神秘なるモニュメントと化している。
 さらに。折り曲げられた左脚の天井に敷かれた右脚の、その美しい直線を見よ。直線の中にも緩やかな曲線の美が微弱に混在し、見ていて飽きない。そして、左右の脚を束ねる臀部の造形の、あまりに見事な無垢。純真なる何一つない一帯。まるでそれは、広大な砂漠における孤独な一筋の陰とも言うべき、蠱惑な風が吹き描いたさざ波の妙ではなかろうか。

 ――冊子に折り曲げられていたピンアップのグラビアは横長で大きい。そのため、左側と右側に分けてデジタル・スキャンし、Photoshopで2つを巧妙に、的確に、時間をかけて繋ぎ合わせた――。これ見よがしのヌード・フォトであればこその私の苦心。私のエロス。
 東京ジェンヌ。そのうつろな女性。あ、今ようやく気がついた。彼女の髪は菩薩の螺髪ではないか。それはガンダーラかギリシャか。女は神である。バッカスの女神である。

 引き続き「『洋酒天国』とバッカス礼讃〈2〉」はこちら