2016年11月29日火曜日

岡本舞子―ファッシネイション

岡本舞子のアルバム『FASCINATION』
 前回までで、80年代のアイドル、岡本舞子が出演していた1986年のテレビ番組「うるとら7:00」(うるとらセブン・オクロック)と彼女のシングル・レコード「ナツオの恋人ナツコ」のB面「ファッシネイション」に関する話題を綴ってきた(当ブログ「ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈前編〉」「ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈後編〉」参照)。その面影は、中学2年生だった私にとって、まさにそのシングル・レコードのジャケットに表された通りの、初々しい彼女の姿に凝縮されており、頭の片隅に残る“一輪の花”の記憶とも言うべきものであった。

 思い起こせばその頃、私はまだレコードとカセットテープの連携を主体にしてオーディオ・ライフを満喫していたのだが、86年あたりで念願の、据え置き型CDプレーヤーを購入している。東京・秋葉原の電気街におもむき、“決死の覚悟”で買ったのだ。それはNECのCD-610という機種で、当時の価格は59,800円であった。ちなみにこのプレーヤーは2003年まで“現役”で使用した。
 高価なCDプレーヤーは買ったものの、CD自体も高価で、なかなか買えるものではなかった。当時のCDの価格は3,200円ほどであり、よほど欲しいアーティスト以外は800円程度で買えるシングル・レコードで我慢していた時代である。だから、「ファッシネイション」がどんなにカッコイイと思っていても、岡本舞子のアルバムをCDで買おうなどという発想は、一切よぎりはしなかった。そこに山川恵津子が編曲するいくつかのハイセンスな曲が収まっていることを、中学生だった私は知る由もなかったのだ。

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“DIGITAL REMIX”に関する定義
 そうして今更ながら、岡本舞子のアルバム『FASCINATION』のCDを入手した。数日かけて全曲を試聴。
 それにしても、『FASCINATION』のジャケットの岡本舞子は、大人びている。きりりとした瞳、少し開いた唇の輝きの恍惚感。当時17歳くらいだった彼女の表情というものは、これほど変わるものであろうか。あの“一輪の花”としての記憶にあった印象ががらりと覆り、もはや私は彼女の印象を、スニーカーにジーンズ姿のそれとして振り返ることができなくなってしまった。

 アルバムのジャケットのせいだけではない。強いて言えば、ここに収録された冒頭の「L.A.LOVER」(松井五郎作詩、久保田利伸・羽田一郎作曲、山川恵津子編曲)、そして2曲目の「ファッシネイション」(松井五郎作詩、山川恵津子作曲・編曲)、さらには5曲目の「バラと拳銃」(松井五郎作詩、山川恵津子作曲・編曲)における、音楽的潮流のパラダイムを如実に体現したナンバーが、彼女の存在感をより高めている。音楽的潮流の言及という意味でも、真に迫る切実な課題として、当時これらの曲を聴いておくべきであった。ある種の伝統的なアイドル・タレントのプロモートに属しつつも、このアルバム・アイテムは、新しいCD(=デジタル・サウンド)メディアの時代に与していたのだ。

 再び、“DIGITAL REMIX”のこと。
 「ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈後編〉」で私は、デジタル・リミックスの本来的な意味について書いた。このアルバムに封入されていた歌詞のみブックレットの最終ページには、あの当時お決まりのコンパクト・ディスクに関する解説文が記されていて、そこに“DIGITAL REMIX”の定義も記されていた。これによると、私が書いた内容と少し意味が異なる。

《デジタル・リミックスとはレコーディングにはアナログ・レコーダー、ミックス・ダウンにはデジタル・レコーダーを使用したものです》

アルバムは全11曲
 これは、アナログ・ミキサーによってマルチ・トラック・レコーディングされたものをミキシングし、デジタル・レコーダーに記録した、という意味である。本来の解釈では、これはデジタル・マスターのことで、マスターテープがデジタルであるというだけのことだ。リミックスではない。
 アルバム『FASCINATION』は、この昔の解釈の“DIGITAL REMIX”を踏襲しているのだけれど、ロスのスタジオにて、アナログ・ミキサーによるパートの差し替えがおこなわれた可能性は、残念ながらここから窺うことができない。ブックレットには一切レコーディングに関するクレジットが表記されていないからだ。おそらく実際的には、リズムマシンなどのいくつかのパートの同期信号のやりとりにおいて、相当苦労したのではないかと思われる。ミックス・ダウンした先のデジタル・レコーダーは、もしかすると当時のSONY PCM-1610であろうか。

 岡本舞子。ファッシネイション。所有していたシングル・レコード「ナツオの恋人ナツコ」を引っ張り出してきたあたりでは、郷愁をそそられるいたいけな偶像の産物に過ぎなかったものが、こうして96年当時のCDを持ち出してきてしまうと、決して夢が壊れる云々の話ではないにせよ、レコードという桃源郷から乖離した、具体音楽に対する言及の対象となってしまい、専門的な脳髄が働き出してしまうので、やはり後悔の念に駆られる。そのまま放っておけばよかったと。

 しかし、一つの伝説(あるいは夢)のようなものを壊し、そこから新たな課題(この場合は音楽)を模索、導き出していくのは、悪いことではなくむしろ新たな発見につながるだろう。私の中で、「ファッシネイション」が音楽的示唆のプロンプターとなればいい。そうなればそのたびに、あのきりりとした瞳が忽然と想い出されるのだ。

2016年11月24日木曜日

ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈後編〉

岡本舞子「ナツオの恋人ナツコ」のB面が「ファッシネイション」
 岡本舞子に関する〈前編〉の続きである。こちらは「ファッシネイション」の曲に集中して書いてみたい。彼女のプロフィールにも少し触れておかなければならないだろう。

 80年代のアイドル・岡本舞子は、東京出身の1970年生まれ。1985年、ビクター音楽産業より「愛って林檎ですか」でレコード・デビュー。「第4回メガロポリス歌謡祭」優秀新人エメラルド賞、「第18回新宿音楽祭」銀賞、「第16回日本歌謡大賞」新人賞など数々の音楽賞を受賞し、華々しいアイドル時代を謳歌した。
 私が中学2年生で観ていたテレビ番組「うるとら7:00」、そしてそこでプッシュ・プロモートされた「ナツオの恋人ナツコ」のシングル・レコードを買ったのは、その翌年の1986年のことである。ウィキペディアによると、さらにその翌年の87年に松竹の映画『舞妓物語』(監督は皆元洋之助)に出演するが、秋に引退。わずか3年のアイドル時代であった。
 蛇足になるが、1984年の日テレ系のアニメ『魔法の妖精ペルシャ』は当時、私は小学6年生でよく観ていた。金曜日の夕方枠で心地良いアニメ・タイムでもあった。このアニメ『魔法の妖精ペルシャ』のオープニング曲「見知らぬ国のトリッパー」を岡本舞子が歌っていたとは、いま初めて知った。私にとって懐かしい、子供時代の郷愁をそそられる歌であるが、「見知らぬ国のトリッパー」は岡本舞子のデビュー前のシングルだったようで、何と彼女はまだ14歳であった。

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 そんな順当な、実力派アイドルの道を駆け出した岡本舞子が、作曲家・山川恵津子とタッグを組み、そのコンテンポラリーな数々のナンバーに支えられていた背景を知るには、「ファッシネイション」を聴けば充分である。ギターのリフとパーカッションのカウベルでイントロが始まり、当時はまだ斬新であったタイトなリズム・マシンによる軽快なリズム、ドスの効いたシンセ・ベース、エレピ、シンセ・ブラス、その他シンセサイザーによって加えられた装飾的ないくつかのサウンドのディレイ・モーション。
 推測するに、これらはFairlight CMI(当時のコンピューター・マシーンによるサンプラー&シンセサイザー。非常に高価な電子楽器だった)のサウンドではないかと私は思った。であるならば、実力派アイドルと実力派アレンジャーによる、相当な制作費をかけた大プロジェクトだったことが想像できる。

 この7インチのレコードのレーベルには、当時大流行した“DIGITAL REMIX”(デジタル・リミックス)のロゴが記されている。記された“DIGITAL REMIX”の意味を明らかにすることはなかなか難しいが、アメリカ・ロサンゼルスのスタジオで録音されたというこの曲には、山川恵津子の作曲とアレンジをよりアグレッシブに具現化した種子の、優秀なブレーンが潜んでいると思われる。このシングル・レコードには一切記されていないスタジオのレコーディング・ミキサー、アシスタント、そしてもしこれが本当にFairlight CMIであるならば、そのマニピュレーターの存在である。

 “DIGITAL REMIX”とは、本来、デジタル・ミキサーによってリ・ミキシングされたことを指し、音源がアナログであればデジタルに変換されてリ・ミキシングがおこなわれる。最初からロスでレコーディングがおこなわれている場合は、そのままデジタル・ミキサーでミキシングをすれば“DIGITAL REMIX”とは言わない。あくまでリミックスとは一度ミキシングされたものをもう一度ミキシングすることであるから、考えられるのは、日本のスタジオである程度レコーディングがおこなわれ、日本でミキシングされたマルチ・テープをロスのスタジオに持っていき、デジタル・ミキサーで新たなサウンドを付け加えたりなどして編曲に手を加え、もう一度ミキシングした、ということである。つまりその作業の多くは、ロスのスタジオにてFairlight CMIのサウンドに差し替えた、ということが考えられるのだ。

 当時、レコーディング・スタジオ(あるいはミキシング・スタジオ)における電源まわりなどはロスが優秀であるという、きわめて断定的な“神話”があった。
 電源の質(電圧、機器の電子部品や電線)によって音が変わるということは実際問題としてあるのだが、比較的都内のスタジオは電源まわりの質が時間帯の推移によって悪くなり、悪評であった。簡単に言えば、夕刻を過ぎると一斉にスタジオ周辺の電気量が増えノイズが乗っかる。これがレコーディング時の音質を悪くする。だからレコーディングは夕刻前で終わらせるか、深夜に集中しておこなう、といったぐあい。
 そういう理由もあって、レコーディングはいっそのことアメリカやヨーロッパで、というスタイルが流行した。海外のスタジオには独特なサウンドを繰り出すヴィンテージな機器やマイクロフォンがストックされており、日本のスタジオにはそれが数少なかった理由もある。
 端的に、向こうのスタジオで録れば音が良くなる、ということだが、阿漕なファッション感覚で“このアルバムはロス録音”という触れ込みを表し、宣伝目的のためだけに利用した場合もあっただろう。バブル前だから、そういうことが横行したことは充分考えられる。しかし、「ファッシネイション」は決してそうではなく、純粋に“DIGITAL REMIX”の意義があったと思われ、そのサウンドからは、大ヒットシンセサイザーYAMAHA DX-7あたりのアレンジだけでは超えることができない特別なグルーヴが感じられる。

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 ところで、80年代の山川恵津子を知るファンにとって、恐ろしくレアな逸品、レア盤と言えば、ギタリスト・鳴海寛とのユニット名、“東北新幹線”のアルバム『THRU TRAFFIC』であろう(これを書いている時点で私はこのアルバムの一部しか聴いていない)。
 『THRU TRAFFIC』の入手は決して困難ではないと思うが、あまりにレアすぎて高値で取引されていたりする(いずれ再販されれば別だが)。そのアルバムとは別だが、山川恵津子の作曲では、谷山浩子の「カントリーガール」などは耳あたりのよいメロディで耳に残っている。
 つまり、山川恵津子の名を出せば、「ファッシネイション」がカッコイイのは当然、ということに帰着する。しかしそこには、“DIGITAL REMIX”の効果によるサウンドの差し替え的マジックがあったことを私は推理し、作詞者・作曲者のみならず、音楽は幾人かによる影の存在のブレーンとスタッフによって作られているのだということをここに表明したかった。

 80年代のアイドル、岡本舞子という存在は、そうした曲々にさらなる偶像美としての輪郭と色彩のテンションを上げ、大衆を惹きつけ、音楽がビジネスになり得ることを証明した。「ファッシネイション」はその奇跡のアイコンなのである。

2016年11月22日火曜日

ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈前編〉

岡本舞子「ナツオの恋人ナツコ」のシングル・レコード
 とりとめもなく、昔のアイドルの音楽の話をしたい。少しミステリアスな部分もあって、個人的には頭の片隅に残って妄想が妄想を呼び、消えることがなかったのだけれど――。

 そもそもこの話を最初に書こうと思ったのは、数年前のことだ。ただその時は、どうしても書けなかった。理由は、話の中心となる肝心なレコードが、自宅に残っているのか否かの“家宅捜査”で手間取ってしまったためだ。
 このことに触れるのに、数年も経過してしまった。しかし今、ようやくこれを書くことができる。つまりは、かつて所有していたはずのそのアイドルのレコードが、“家宅捜査”の結果、ついに見つかったのである。何を隠そう、そのレコードとは、1986年発売の7インチ・シングル・レコード、岡本舞子の「ナツオの恋人ナツコ」(ビクター音楽産業)である。
 このことは別に、私が当時のアイドルだった岡本舞子のファンだった、というたぐいの話ではない。それから「ナツオの恋人ナツコ」の曲の話をするのでもない。結論を先に書くと、そのシングルのB面の、「ファッシネイション」の話をしたいのである。この曲が何故か、とびきり格好良かった、のである。ちょっとびっくりするくらいに、本当に、異常なくらいに――。

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 その話をする前に、まず私がこのレコードに出合った経緯について、書いておこうと思う。
 あれは日本テレビ系列の番組、「うるとら7:00」(うるとらセブン・オクロック)であった。あの番組を憶えている人は少ないかも知れない。土曜日の朝の情報番組で、時代は1986年に遡る。
 もはや遠い記憶の彼方にあったため、この番組のタイトルの正確な表記及び番組内容等は、ウィキペディアの助けが必要だった。そう、確かに声に出せば、“うるとらセブン・オクロック”なのだが、表記すると「うるとら7:00」である。そんな番組名でウルトラセブンなんかが出ていたのかい、と思う方もいるかと思うが、冗談ではなく本当に、ごく希にウルトラセブンが出ていた…と記憶する。しかし基本的には情報バラエティなので、ウルトラセブンとは直接関係ない。モロボシダンやアンヌは登場しなかったと思う(ウルトラマンの隊員だった二瓶正也氏は出たことがあるらしい)。

 1986年と言えば、私がまだ中学2年生だった。
 少しずつ記憶がよみがえる――。怠惰に満ちていた中学2年の土曜の朝、眠いまなこを擦って黒い制服に着替え、テーブルに座ってテレビを付ける。4チャンネル。トースターで焼いたパンに大好きなマーガリンをたっぷりと塗り、それを頬張りながら、毎週欠かさず観ていたのが「うるとら7:00」だ(ちなみに当時の私の頭は、丸坊主だった。丸坊主だから、朝の髪のトリートメントはとても楽であった。何もしない)。
 司会はコント赤信号の3人。言わずと知れた渡辺正行さん、ラサール石井さん、小宮孝泰さん。当然、まだ若かった。ウィキペディアの情報によれば、岡本舞子はその時、司会のアシスタント・パーソンだったらしい。そのあたりのことは、まるで記憶にない。ただしウィキペディアには、彼女は「1987年3月で降板」とも書いてある。ここはウィキペディアのデータを鵜呑みにしておこう。

 ともかく、その番組に岡本舞子というアイドル・タレントが出ていた。「うるとら7:00」は、多くのアーティストのプロモーション・ビデオを流していた。ちょうど学校へ行く前の時間としては、ちょっとした音楽情報をかじるのに都合が良く、小気味よい番組であった。岡本舞子はおそらく若々しい、高いトーンの声だったような気がするが、自身のプロモーション・ビデオか、あるいはスタジオでの収録か何かで、「ナツオの恋人ナツコ」の曲を聴いたのだ。どんな思いを抱いたか定かではない。が、それなりに擦り込まれたのだと思う。私はショップへ駆け込み、彼女のレコードを買った。

 ざっくばらんに言えば、A面の「ナツオの恋人ナツコ」は普通のアイドルの歌であった。当時それを聴きまくったのかも知れないが、さほど好きな曲というわけではなかった。ただしサビが効いているので覚えやすい。シングルの選曲としてはベターだとは思えた。
 一方、B面の「ファッシネイション」を聴いて、即座に、これはA面とはまるで路線が違って格好いい、と思った。私の身体の反応がまるで違ったのだ。リズムがいい。メロディもいい。おしゃれだ。すぐに「ファッシネイション」が好きになった。作詩は松井五郎、作曲と編曲は山川恵津子――。

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ジャケット内側の差し込みフォト。岡本舞子
 さらにその話をする前に、このシングル・レコードのジャケットが、少し奇妙というか謎なのである。そのことに触れておきたい。

 ジャケットの写真。スニーカーを履きジーンズ姿の岡本舞子の左耳をよく見ると、明らかに“カリフラワー・イヤー”っぽい。
 “カリフラワー・イヤー”とは何か。柔道やレスリング、その他組み系の格闘技のトレーニングで、マットに耳が擦れ変形して硬くなった耳を指す。このことから、彼女も何か格闘技をやっているのでは、と思った。
 ところが、ジャケットを開いた内側の差し込み写真(同じスニーカーに同じジーンズ姿)を見ると、彼女の顔がややふっくらとしていて、あれっ?と思う。別人、とまでは思わないけれど、精悍だったジャケットの彼女とは顔つきが違って見える。こちらはなんとなくまだあどけなさが残り、ぽっちゃりしている。それぞれ撮影の時期が違い、彼女の体型も違うのだろうか。
 もっと驚いてしまったのは、ジャケットの彼女の左耳にあった、“カリフラワー・イヤー”だ。あれが、内側の差し込み写真の左耳には見られないのだ。少なくともその形状がごく僅かに留まっている。“カリフラワー・イヤー”とは言えない。
 これはちょっと驚きである。私は当時、「ファッシネイション」の曲に感動しつつも、こちらの写真の謎めいた秘密に心を奪われてしまい、思春期の煩悶の相当量を費やした感さえあった。無論、このことは誰にも語らずにいた。番組の中で、このことに触れた会話はなかったはずだ。ジャケットの彼女の顔つきがまるで違うこと。“カリフラワー・イヤー”があったりなかったりの、謎…。

 私が立てた仮説は、こうであった。
 差し込み写真の方は、撮影時期が前だったこと。どれだけ前か分からないが、ジャケットの写真の撮影時期より数ヶ月前ではないかということ。その間、彼女は体型的にスリム化し、何か格闘技をやって耳も“カリフラワー”状態になってしまった。というより、格闘技をやったから体型がスリム化したのではないか、ということ。
 最初に撮った時の写真では、アイドルとして少し物足りない、イメージとして評判はあまりよくないだろうと判断したプロデューサーが、「おまえ、これじゃダメだから、ダイエットしてこい!」と彼女に伝えた。アイドルとして売れたい、短期間で痩せたいと必死になった岡本舞子は、事務所の承諾を得て、何故か格闘技をやり始めた。ダイエット目的でやり始めた格闘技だったが、けっこうそれにハマってしまい夢中になりすぎ、いつの間にかグラウンドの技術がめっぽううまくなってしまった。…わたしもしかして、アイドルよりこっちに向いてる?…
 気がつくと、耳にはアイドルとして絶対に相応しくない“カリフラワー”が出来ていた。怒ったのはプロデューサーだった。「アイドルがカリフラワーになってどうすんだバカヤロウ」。
 まあしかし、いいでしょう。スリム化して雰囲気が精悍になりましたよ。撮影を再開したら、案の定こちらのカットの方が良かったです、よござんした。一件落着。
 発売したシングル・レコードを見て、プロデューサーが激怒した。「なんでぽっちゃりのNGまで載せたんだバカヤロウ」。そうなのだ。何故、まだ精悍さに欠ける、ぽっちゃり岡本舞子を掲載してしまったのだろうか。

 私の立てた仮説は、こうしてここで行き詰まってしまった。納得がいかない。奇妙である。あれはつまり写真の妙で、実はなんてことはない同じ撮影日であり、片方のカットの顔が光の兼ね合いでぽっちゃりに見えるだけなのだ、と普通に考えてみた。しかしそうなると、耳の形状がまるで違う理由が分からなくなる。同じ日に撮影して、数分あるいは数時間で耳がああなるわけがないだろう。どんなジムだ。どんなグラウンドのトレーニングだ。いやいやいや…もしかしてこれ、双子の姉妹?
 双子の姉妹?
 双子の姉妹?
 双子の姉妹?
 グラウンドが得意な妹。
 ぽっちゃりの姉。

 謎はいまだ、私の中で解明されていないのである(これが解明すれば、ノーベル賞ものだと私は勝手に思っている)。この謎にまつわる本人のコメントか何かが、どこかのメディアだとか出版物にあるのだろうか。もう30年も前の古いことだ。ネット上の情報を掻き集め、その謎を解く鍵を探し回る余力だとかアドバンテージだとか岡本舞子に対する熱い思いが、私にはない(どなたか教えてください!とだけはここに書いておきたい)。

 次回、後編はそそくさと本題の「ファッシネイション」に移りたい。

2016年11月20日日曜日

暗黒舞踏と土方巽

中谷忠雄写真集『土方巽の舞踏世界』
 1990年代前半、私がまだ20代で演劇に携わっていた頃、役者の基礎稽古やワークショップとして、発声や「マイム」(パントマイム、黙劇)というのは当たり前のように取り入れられていた。「マイム」ではあまり凝ったことはしなかったけれど、一般的には動物や鳥や虫の真似をするところから始まって、その「マイム」によって「何か」に「なる」ことを身体で覚え、段階的に人間のしぐさや手振りへの基礎とする傾向がある。
 人間は時に嘘をつく。言葉に裏表があったりする。動作も、意識的に感情とは別のしぐさをすることがある。嘘をつくという意味が極端であれば、「取り繕う」と言い換えていい。人間の営みとは、自然発生的言動と「取り繕う」言動とが複雑に絡められて他者とコミュニケーションが取られるから、そうした人間らしい営みをリアルに芝居すること、すなわち人間の役を「演じる」というのは、実際的にはとても難しい技術なのだ。だから役者の基礎稽古の場では、「取り繕う」ことの少ない人間以外のもので基本形の動きを学び、「何か」に「なる」ことに段階的に慣れておく(身体を慣らしていく)必要があるのである。

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 暗黒舞踏の話をしたい。
 私がそうした基礎稽古の経験を日々繰り返していたある時、暗黒舞踏の話題になって一場が笑いに包まれたことがあった。それは暗黒舞踏を揶揄した、嘲笑に近いものだった。暗黒舞踏あるいはアングラの舞台を実際に観たことがなく、まったくの想像上のジャンルに感じられ、実体を掴めていなかったせいもあるのだが、心のどこかで西洋式の演劇に対する優越感があったのも事実である。
 暗黒舞踏という言葉から感じられた、ある種の暗いイメージとおどろおどろしいイメージは、それ自体を舞踊としてとらえることができなかった。舞踊として考えるとまるで滑稽な、不自然な(何が自然であるのかさえ理解できておらず)、踊りとはとても思えない感覚があって、むしろあれは「卑俗な演劇である」ととらえることしかできなかった。
 人間の営みや日常的に結び付いたものとはいったい何か。何が自然であるのか。そもそも人間とはいったい何であるか。何をもって生きていると言えるのか。我々はいったい、どんな世界に生きているというのか。
 暗黒舞踏を「訳の分からない意味不明な身体表現」と定義するためには、それ以外の身体表現が「訳の分かる意味の分かる身体表現」であると、どうして言えるのだろうか。そのことを考えもせずに、ただ見えているだけの嘘っぱちの世界の中で、私は暗黒舞踏を、あの頃、笑ったのである。

 しかしそれにしてもあの頃、どうしてあの「マイム」のワークショップが、まさにその真理に迫ろうとしていたのに、気づかなかったのだろうか。

舞踏公演「形而情學」での土方巽(1967年)
 ある若者が、蛙のマイムをやってみろと言われて蛙を表現してみたところ、ひどくヨタヨタして憂鬱な――憂鬱に見えたのはその若者の体が本当に疲弊していたせいなのだが――あまりにも元気のない蛙の表現となってかえって面白く、必ずしも元気な生き物ばかりではないからその表現はなかなか的を射ていると指摘され、場が盛り上がったということがあった。
 暗黒舞踏の基本的な方向は、疲弊して死に近づきつつあるもの。汚水にまみれ死臭の漂う近寄りがたいもの。破壊されて尚生きるもの。男女の性差が超越しているかもしくはそれが去勢されているもの。地上のあちこちにしっかり蔓延っていてかつ誰も見ようとはしない、“優雅な”踊り。暗黒というものには嘘がなく、暗く湿っていて腐臭がする。嘘がないのだからむしろ喜びであり、光のはずである。あくまで私は暗黒舞踏をそのようにとらえている。

「肉体の叛乱」(1968年)
 秋田出身の土方巽は20代の初め頃、ドイツのモダンダンスを経験し、舞踏家の大野一雄と出会う。自身の身体にハンディキャップがあった土方は、クラシック・バレエを諦め、1959年、“体験舞踊”なる『禁色』を発表する。これが後に暗黒舞踏の始まりだと言われる。土方は暗黒舞踊派を名乗り、自身の“体験舞踊”を推し進める。そして1968年の『肉体の叛乱』の発表によって、従来のクラシック・バレエやモダンダンスに対する反体制的な蜂起から脱却し、暗黒舞踏という土方式の舞踏を自ら超然と確立していくことになる。

 写真家・中谷忠雄氏の写真集『土方巽の舞踏世界』(心泉社)では、1965年から1972年までの土方の舞台写真がピックアップされている。それは中谷氏と土方の親交の期間を意味している。ここには貴重な土方の迫真の写真が揃い、その強烈な舞踏シーンが脳裏に焼き付く。写真はそうした現場の雰囲気をイメージすることができるが、やはりそこには限界があり、おそらく実際的な生の舞台はもっと強烈な情動を覚えるものであったろう。

 土方のパフォーマンスは常に動物的な死の臭いが感じられる。破壊と衰弱。混沌と宇宙。性的なものと醜悪なものとの掛け合い。それらは言わば、土方流の土俗的コラージュの結晶であったかも知れない。あの頃の土方は何を見つめ、何を目指そうとしていたのだろうか。

2016年11月8日火曜日

『洋酒天国』とアメリカの古い家

『洋酒天国』第20号
 酒の善き友、壽屋(現サントリー)のPR誌“ヨーテン”。《女房は死んだ、おれは自由だ! これでしこたま飲めるというもの。 今までは一文無しで帰ってくると 奴の喚きが骨身にこたえた》というボードレールの「悪の華―人殺しの酒」の散文詩で始まる『洋酒天国』(洋酒天国社)第20号は昭和32年12月発行。表紙はどうやら、1925年T型フォード車らしい。残念ながらというか申し訳ないことに、その図体の大きいボディの先頭は裏表紙の方になってしまっていて、ここでは見られず。しかしぼんやりと小さく、木箱の上に置かれた瓶はやはり、トリスの白ラベルであり、ヨーテン定番のフェイバリット・アイコンである。

 さて、本の中身。まずはヌード・フォト。
 ――ここで“ヨーテン”に関する面白い話を、思い出した。小玉武著『「洋酒天国」とその時代』(ちくま文庫)の解説を書いた評論家・鹿島茂氏は、昭和37年の中学1年生の時、既に“ヨーテン”の愛読者だったという。
 無論、未成年の彼がトリス・バーの客だったわけではない。鹿島氏の実家は横浜の金沢区で、酒屋を営んでいた。当時サントリーはビール販売の促進のために、いわゆる営業目的で、どうやら酒屋の主人らに“ヨーテン”を配布していたらしいのだ。販売促進の切り札として、“ヨーテン”のヌード・グラビアが武器になったと、鹿島氏は書いている。つまり鹿島氏本人も、そんなオトナの小冊子の魅惑に惹かれ、愛読者になったというわけだ。

中村正也氏撮影のヌード・フォト
 閑話休題。今号のヌード・フォト。2ページを割いた長い黒髪の女性の肢体は中村正也氏の作品。モデルは誰かというのは不明で、どこのページを開いてもその名前は載っていない。モデルが無記名であることを考えると、いつものヨーテン“御用達”日劇ヌード・ダンサーではないと思われる。
 それにしても、この肢体のしなやかさはなんとも美しい。絶妙な露光量で黒髪が引き立ち、肌のコントラストが中和され、モノクロームのグラデーションがなめらかに収められている。これぞ中村氏の現像魔術とでも言うべきか。この時代の日本の、モノクローム・フィルムによるヌード・フォトは、そのテクニックにおける一つの芸術的頂点に達した最盛期であったに違いない。

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 香料研究の著書の多い國學院大學の文学博士、山田憲太郎の「ミイラ造りと酒」というエッセイも、読んでみるとなかなか面白い。ここでは匂いや香りの話は出てこない。酒の話である。
 紀元前のエジプトのミイラ造りは秘中の秘だとかで、その秘法を唯一伝えるヘロドトスによると、遺体の内臓を取り出した後、腹部をパーム・ワインで洗浄したり、70日間ソーダ水に漬けて遺体をミイラにした後、再びパーム・ワインで洗う、などとあってミイラ造りにおいてパーム・ワインが大活躍する、という話になっている。

 山田氏はこのパーム・ワイン(ヤシ酒)に着目した、わけだ。彼はこれを《天国から地獄に通じる酒》と称す。パーム、つまり砂漠の中の樹林に棗椰子(ナツメヤシ)が生えていて、この樹木は建築材になったりパンになったり家畜の飼料になったりする。そういうことでペルシャ人は、360の用途がある「生命の泉」と呼んで、歌にも詠み込んでいるのだという。このパーム・ワインは、ヤシの花から液体を採取し醗酵させたもので、別名“タマル”(最愛の美人の意)と言うらしい。

 つまらぬ蛇足になるが、子供の頃、私は上野の科学博物館で、“別館”と称されたほとんど観覧者のいない薄暗い展示室にて、本物のミイラを見たことがある。私は“ベッカン”と聞くと、何か特別な響きが感じられて好きである。
 ともかくその“別館”で、一体のミイラを見たのだ。それが女性のミイラだったのか男性のミイラだったのか、全身が包帯でぐるぐる巻きになっていたのかさえ、あまりよく憶えていない。しかしながら、紀元前のエジプトの、その生活文化圏を実際に呼吸して生きていた王侯貴族僧侶の某さんがこのような姿で現代に残り、東京は上野の公園の一角で寝静まっていることに深い感銘を受けた。もちろんそれを見た時、このミイラがパーム・ワインで洗浄されていたなどということは露程も知らず、その秘中の秘の秘法も、世界のあらゆる大小の文明を支えてきた酒の素晴らしさについてさえも存じない、丸裸の“ベッカン”少年であったことは確かである。

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益田義信「古い家」
 どうも考えていくと第20号は、少しばかり強引な総論ではあるが、古風、というのがテーマであるように思われる。
 洋画家・益田義信のエッセイ「古い家」。旅先で出合った古風な家についての、甘美な回想文。そもそも何故、今号の表紙がフォード車なのかということだが、編集部が目を付けたのは益田義信氏の父の、劇作家でもある益田太郎冠者の落語「かんしゃく」(大正期の作)であろう。この噺には当時まだ珍しかった自動車が登場する。フォードが日本で生産を始めたのが1924年。益田太郎冠者の父は三井財閥の創始者であり、男爵である。ちなみに益田太郎冠者も男爵である。
 そんな財閥出身の益田義信氏(慶應義塾卒)は、祖父の遺した財産を放蕩三昧した曰く付きらしいが、彼が回想した「古い家」は、近代的なアメリカの都市の片隅に残った、ある古い家を写真に収めたフォト・エッセイである。

益田義信氏が撮影したロス市の古い家
 ロス市の一角に残ったその家が、どれほど古い家なのか、私にはよく分からない。紫やピンクの花が乱れ咲く花壇の庭の奥に、その古めかしい建物に囲まれた3つの椅子が、ひっそりと佇んでいる。象牙色の窓枠の内側は網材なのかガラス材なのか判断ができないけれど、それが写真全体の陰の部分となっていて、その黒々とした趣が、やけに恐ろしい。いかにも窓枠の角の向こうで“古きアメリカ”の住人であった地縛霊が、ひょこっと顔を覗かせて潜んでいそうで、怖いのである。
 モノクロームのフィルムであればもっと品のある、むしろ花壇の乱れ咲く花の色めきなどいらない、古めかしい建物の直線と黒い陰を生かした静謐な構図が撮れたであろうに、そこが洋画家たる所以の、放蕩家の、色彩の中に埋没した幻を見るかのような1ショットになっていると感じるのは、言い過ぎであろうか。先述した中村氏の写真と好対照であり、「古い家」は酒の話など一切なく、カラー写真に“酔って”しまったvacantの印象が強い。

2016年11月1日火曜日

『洋酒天国』と活動屋放談

『洋酒天国』第56号
 三日三晩、ジョルジ・シフラが演奏するリストのピアノ曲「リゴレット・パラフレーズ」を聴いているのだけれど、記憶がない。導入部の演奏からいつも記憶が飛んでいる。スコッチのオールド・パー12年物のせいだ。これを飲んで音楽を聴くと、瞬く間に瞼がとろんとしてプレーヤーの電源が付いたまま朝を迎える。オールド・パーは好きだし、これがまた部類なく心地良いのだが、いっこうにシフラの「リゴレット・パラフレーズ」は謎のままで、私はあの曲を、優しい夜のしじまに語ることができない。

 『洋酒天国』(洋酒天国社)第56号は昭和38年1月発行。映画特集号となっている。昭和38年と言えば、鉄腕アトムが始まり、力道山逝去、アメリカのケネディ大統領暗殺、梓みちよさんの「こんにちは赤ちゃん」が大流行した年であり、レナウンのニット商品のヒットと共に“ワンサカ娘”のコマーシャル・ソングが流行りだしたのは、確かこの頃ではなかったか。
 ちなみに映画の話に絡めると、この年の暮れに、私の大好きなサスペンス映画、スタンリー・ドーネン監督の『シャレード』が公開されている。主演はケーリー・グラント、そしてヘップバーン。おそらく私はこの映画を、テレビ朝日系列の「日曜洋画劇場」(解説は淀川長治)で初めて観たのだと思う。「日曜洋画劇場」(当初は「土曜洋画劇場」)が始まったのは昭和41年からで、子供の頃すなわち昭和50年代頃、この日曜洋画劇場のスポンサーだったレナウンのコマーシャルで、“ワンサカ娘”の歌を覚えた。

 たまには検索ワードのために、“サントリー”のPR誌『洋酒天国』と記しておかなければならない、と気を遣ってみる。
 第56号の裏表紙は壽屋「赤玉ポートワイン」のおしゃれな広告。壽屋は現在のサントリー。Suntory。サントリーホールディングス。又は燦鳥。これだけワードを並べておけばよかろう。それにしても当時の「赤玉ポートワイン」のコピーがまた甘ったるい。

《野菊の如き君におくってください 甘い生活が始まります 土曜の夜と日曜の朝にはこれです 唇によだれです 赤玉ポートワイン!》《おくりものに 赤・白詰合せ(グラス付き)500円》

 野菊の如き君とは。唇によだれ、とは…。日本の国旗の日の丸を見て赤玉ポートワインを思い浮かべ、急に赤玉が飲みたくなれば、あなたは立派な赤玉通。今宵は赤玉に決まり。キャビネットに3本か4本、ストックしておきたい。現行は赤玉スイートワイン。

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裏表紙は壽屋赤玉ポートワインの広告
 さて、映画特集号である。A5判で分厚い第56号。この号は作家・山川方夫氏の編集ということで、マニアの間ではどうも垂涎の的らしい。そんなようなことが、小玉武著『「洋酒天国」とその時代』(ちくま文庫)で書かれてある。
 そのヨーテンのA5判についてだが、どうやら社内でも評判が悪かったらしく、第57号から元のB6判に戻ったのだという。確かにそれ以前の小気味よさがこの分厚いA5判の内容では感じられず、トリスバーでトリスを片手にニヤニヤしながらヨーテンを読む、というわけにはいかない。酒の肴本の良さが小型のカラー刷のB6判にはあって、少なくともこの映画特集号にはそれがないのだ。しかし、映画に関したエッセイの数々は名品が揃っており、別枠として伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」も掲載されているのだから、蒐集家がじんじん唸るのも頷ける。
 あまりに映画にまつわるエッセイが豊作なため、一つ二つこの号の内容を摘まみ取っても全体をお伝えすることができないのが残念である。映画のエッセイの付録的な役割として、大正13年から昭和37年までの「内外映画作品編年ベスト10総目録」などもあって非常に重宝する。

 私の個人的な観点から、この号の映画に関する部分をチョイスする。渾太防五郎著「活動屋放談」。
 いきなり、昔の撮影所なんてヤクザなんだ、という話から始まって思わず瞼が痙攣してしまう。まさに放談。それは撮影所はヤクザ的人達の寄り集まりという意味なのか、本当にヤクザの寄り集まりだったのか、俄に解読しづらい。ともかく昔の撮影所の役者やスタッフに対する重役らの対応が破天荒だったらしく、特に俳優たちへの最初の2年間の大盤振る舞い、すなわち着る物や身につける物やその他諸々の賄いは、会社にツケ、が許されたという。いい物を身につけて態度や振る舞いのステータスを上げ、大役をこなせるだけの立派な俳優に仕立て上げる2年というリミット。一人前の俳優になると、ツケは禁止になるのだとも。昔の撮影所のシステムには、そういう風習があったようだ。

 時代が無声映画からトーキーに変わって、そのトーキーの良さはテレビによって初めて分かった、とも渾太防氏は述べている。映画の画面に圧倒されるから、音の善し悪しなんていうものが観客には分からない。ただ、テレビというのは画面が貧しいから、音に敏感になる。テレビによって初めて大衆が音の善し悪しに気づき、トーキー映画の音の何たるかが分かってきた、という話。

 加えてこれを最後に書いておきたい。この号の別のエッセイで、ジョン・オハラの「フレッド・アステア」考がある。1930年代のアメリカ。フレッド・アステアが自動車会社スポンサーのある人気ラジオ番組に出演した。音楽と共にフレッド・アステアが踊る。しかしラジオだから、彼の踊りを見ることはできない。聴くのである。アメリカ国民の聴衆は、フレッド・アステアの“足音”をラジオのスピーカーから聴いて、踊りを“見た”のである。

2016年10月27日木曜日

ゴジラというポリティカル・レガシー

1954年版『ゴジラ』DVD
 去る8月28日、朝日新聞朝刊にゴジラが現れた。編集委員・曽我豪の「日曜に想う」の「ゴジラと保守 破壊と創造」の記事である。その頃熱狂的な評判となっていた映画『シン・ゴジラ』にあやかっての、ゴジラがテーマとなった日曜版コラムだ。
 とは言え、それを読んでみると、初代ゴジラの映画が引き合いに出された、政治の、55年体制に絡んだ論説であり、映画の特撮の話にはなっていない。しかしこれはこれで興味深く、初代ゴジラが公開された1954年(昭和29年)の吉田内閣の話から、造船疑獄の影響による総辞職、保守合同、左派と右派の社会党統一などといった戦後政治史の流れを汲んでいる。現今の政治のおける要諦も、時代を正しく読み取り、確かな采配が求められていることに変わりない、と結んでいて大変読み応えがあった。

 私が子供の頃にテレビの放映で観ていたゴジラ映画は、『メカゴジラの逆襲』(公開は1975年)の印象しかない。もっと古い、ザ・ピーナッツの“モスラの歌”で有名な『モスラ対ゴジラ』(1964年)などはあまり知らず、第16作目にあたる1984年の『ゴジラ』(橋本幸治監督)で初めてゴジラ映画を映画館で観た。特撮モノが好きだった私はむしろゴジラ映画には疎く、子供の頃にメカゴジラの超合金のオモチャを親に買ってもらったくらいでゴジラとはあまり縁がなく、ゴジラより大映のガメラ、ガメラより大魔神の方が映画としては好んで観ていた。

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8月28日付朝日新聞朝刊より
 1954年の初代ゴジラ――『ゴジラ』(東宝作品・本多猪四郎監督)はかなり後になってテレビ放映だったかビデオ・レンタルだったかで観た気がする。モノクロームでおどろおどろしい。それまで“特撮の子供向け大怪獣映画”としか印象がなかったゴジラ映画だったが、初代ゴジラの映画を観てこれは違うと思った。特撮の大怪獣映画の仮面を装った、完全なる政治風刺映画であった。

 いま考えるとそれは、とてつもないエネルギーと熱意で制作された映画だと分かる。
 1954年の3月、アメリカのビキニ環礁水爆実験で、マグロ漁船第五福竜丸の乗組員23人が死の灰を浴び被爆する。ゴジラという空想怪獣の映画は、この現実に起きた事件に端を発し、そこから「水爆実験によって海底から目覚めた古代怪獣」というモチーフが生まれ、同じ年に完成して11月3日には封切りになっている。いかに急ピッチで制作されたか。
 しかもこの間、9月26日、旧国鉄の青函連絡船洞爺丸が、台風直撃によって座礁転覆。1,155人の死者行方不明者を出した海難事故が起きている。映画『ゴジラ』では、相次ぐ謎の海難事故からストーリーが展開され、洞爺丸の事故のイメージがぴたりと重なる。

 映画『ゴジラ』は全編にわたって、破壊の画が続く。破壊の映画である。水爆実験によって巨大な古代怪獣が甦り、地上に上がって都市を壊滅的に破壊する。走る電車を握り潰し、銀座和光の時計台ビルを叩き壊し、国会議事堂を全身で破壊する。テレビ鉄塔で中継するアナウンサーが絶叫し、鉄塔がなぎ倒されるシーンは特に、背筋が凍るような恐怖を感じる。
 防衛隊のような組織が登場して、大がかりな作戦でたびたび守備攻撃を試みるが、ゴジラはいっこうに引き下がらない。そこで、「オキシジェン・デストロイヤー」という化学物質による兵器が究極的に使用される。これは海の生物が窒息死してしまうという恐るべき兵器だ。この「オキシジェン・デストロイヤー」こそ、人間が作り出した水爆に匹敵する兵器であり、その使用の是非で苦悩した発明者の博士は、ゴジラとともに海底で命を絶つ。実に悲劇的な終焉である。

 怪獣退治という解決が、真の解決になっていない。むしろ社会に新たな悲劇の火種を生むという現実。それは国家と国民に対する核兵器根絶への進歩的な投げかけであると同時に、核の平和利用ならやむを得ないという原子力政策への許容的メッセージとも受け取られかねず、この初代ゴジラの映画作品は、そこのところが嘆かわしい。しかしながら、当時の東西冷戦構造のはざまで日本が抱えていた政治的問題、あるいは社会的問題を明確に、見事に浮き上がらせた傑作であると言える。

 破壊と創造とは、芸術の世界では美しさを伴うものだが、政治における破壊と創造は、あらゆる副作用をはらんだ《難しい未来》の「可能性」を示唆している。私は『ゴジラ』の映画を観てあらためてそう思った。ゴジラという象徴は、《難しい未来》がやってくることの象徴でもある、ということだ。