2016年8月30日火曜日

藤城清治の影絵―聖フランシスコ

銀座・教文館『藤城清治影絵展』
 この世は《光》と《影》に満ち溢れているのにそれに気がつかない。気にも留めないことがある。何かを照らし浮かび上がらせ、何かを隠し暗闇にするということ。
 幼少の頃、初めて映画館で映画を観た時、後方から延びた煌びやかで細長い投射光がスクリーンを照らして、そこに動く画が次々と現れることの不思議さに、私はとても感動した。そうしてこれも少年時代のことだったが、5分にも満たないテレビの天気予報のスポット番組で、確かに藤城清治さんの影絵作品が淡い光と影によってちらちらとうごめいていたのを観、自らの身体がその中へ吸い込まれていくのを感じた。この世は《光》と《影》に満ち溢れている。しかし、誰もそのことに気づいていない――。

 今月の9日、東京・銀座の教文館にて『藤城清治影絵展』を観た。サブタイトルは「光と影は幸せをよぶ」。この場を訪れて、まさに少年時代の懐かしいあの《光》と《影》の感動に浸ることができ、また新たな感動の上書きさえもあった。この影絵展の広告の画にある抱き合う少年と少女の大きな瞳。その寄り添う二人の手の温かさ。このなんとも言えないぬくもりの画に惹かれて、私はその9階の小さなホールに足を運んだのだった。

*

『影絵展』にて「聖女クララの光」
 影絵については、こんな思い出がある。
 私は小学校の6年間、ほとんど何一つ得意とする教科がなかった。強いて言えば音楽の授業で歌を歌うこと、国語の授業で朗読することが楽しみであった。図画工作というのは特に不得意と言っていい、人に自分の拵えた作品を見せたくない、恥ずかしいと思っていたほどで、授業そのものがいやであった。何か作っては友達にその不出来を笑われていたし、作るたびにまた笑われるのかと思うと、とても図画工作の授業がしんどかった。もちろん通信簿の評価も低かった。

 そんな図画工作の授業で唯一自分で楽しいと思えた、夢中になって作ったのが、ステンドグラスの模倣であった。ガラス細工は子供には危ないので、黒色の板だったか画用紙だったかを枠にして下絵を描き、それに沿ってカッターで画をくり抜き、裏側から各々の色のセロハンを貼り付け、アルミホイルを背景にして枠を閉じたもの、という代用のステンドグラス画であり、見た目はステンドグラスのように色彩豊かな光と影の造物となった。本当にこれだけは楽しい工作の体験だったし、おそらくそれまでと同様にして不出来の笑いの対象となったのだろうが、自分の気持ちの中では満足感があった。

 何故それが唯一楽しいと思えたのか。幼い頃の藤城さんの影絵の美しさを覚えていて、それに惹かれたせいではなかったか。子供ながら《光》と《影》を作り出すことに魅力を感じていたのだと思う。

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「アッシジの聖フランシスコ」
 教文館の『藤城清治影絵展』で観た「聖女クララの光」や「聖フランシスコの肖像」に私が強い関心を抱いたのは、そこに画の柔らかさや優しさが感じられたからだ。
 無論、藤城さん特有の画の筆致と投影の美というのがある。そこから喚起される、言葉にできない“目に見えないかたち”こそが、私がここを訪れた本意のかたちなのだということを悟り、彼が出会った歴史や物語、人々に対する深い愛情を感じないわけにはいかないのである。

 今月24日に起きたイタリアの大地震は、中部の町アマトリーチェを壊滅させた。死者の数は数百人に達したという。けれども、そこより震源に近いノルチャという町は、建物に耐震対策が施されていて、大きな被害がなかったらしい。そんなようなことを新聞で知った。地震の被害に遭った方々への支援が広がることを心から祈りたい。地震については、大聖堂のあるアッシジも過去に部分的な崩落を招いたことがあり、その時の教訓がイタリア・ウンブリア州の耐震対策に生かされたようであった。

 そんなようなことを含め、藤城清治さんが向けられたイタリアの宗教画に対し、いま私は作品の素晴らしさと共に人々の厚い志について、心に触れるものがある。
 音楽家フランツ・リストが1865年頃に作ったピアノ曲『2つの伝説』のうちの第1曲、「小鳥に説教するアッシジの聖フランシスコ」(St François d'Assise: la prédication aux oiseaux)という曲があるのだけれど、私はこれをジョルジュ・シフラのピアノで聴く。ジョルジュ・シフラでなければならない。
 藤城さんのアッシジの聖フランシスコ、小鳥を手に、空を見つめるフランシスコの静謐な肖像を思い浮かべながら、遠い彼方に思いを馳せる。そしてそれは、最も身近な《幸せ》の在処を、照らしてもいた。

2016年8月25日木曜日

『洋酒天国』と再びジンの話

『洋酒天国』第12号
 今夏、大活躍したリオ五輪の選手団が帰国し、台風一過の穏やかな日光浴を愉しんでいると、どこかで秋の気配を感じさせてくれる今日この頃。夜な夜な酒も美味い、ということで2ヵ月ぶりのヨーテンを。

 『洋酒天国』(洋酒天国社)第12号は昭和32年2月発行。真っ赤な表紙は坂根進氏のイラスト。「編集後記」にちょっとした酒の飲み方のアドバイスが書いてあって、ストレートでウイスキーやブランデーを飲む際は、追い水を一口飲むこと。それも水道水より井戸水がうまいとか。先日私は村上春樹氏の本を読んで、アイルランドのパブではアイリッシュを、半々のタップ・ウォーターで割って飲むのがほとんど、と知って試してみたところ、どうもこれが馴染めない。向こうではちょっと嫌がられるロックの飲み方の方がきりっとして舌触りがいいと私は思ってしまうのだけれど、本当に様々な飲み方があるものだ。

杉村春子「レニングラード」
 女優・杉村春子さんの写真と文の「レニングラード」。その駅のホームの写真は本当に杉村さんが撮ったの?と俄には信じられないほど、美しい構図と色彩による旅人達の活き活きとした光景の一コマ。杉村さんにとっては憧れの地だったようで、革命の地レニングラード(現サンクトペテルブルク)への熱情が伝わる文である。夕焼けや夜明けを見て、松井須磨子さんの「生ける屍」で唄った歌を思わず口ずさんだ、と最後を結んでいるが、私もそのトルストイ原作『生ける屍』で松井須磨子さんが歌った「さすらいの唄」を聴いてみた。うん、これはやはり彼の地で口ずさみたくなる、トルストイのロシア文学の世界なのだなという気がした。そしてまたこれが、日本の大正浪漫の大衆風を吹いてもいた。

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 そんな話の後で、ドライ・ジンの話題に移るのは少々気が引ける。しかしこのところ私は、ジンという酒の深みを知って、心からとろけて酔っている。すっかりドライ・ジンの虜になってしまった。
 「洋酒の豆知識 ジンのことなど」。おそらくこれを書いたのは開高健氏ではないかと思うのだが、冒頭の書き出しが実に軽妙洒脱である。《ジン。これはオランダ人が発明し、イギリス人が洗練し、アメリカ人が栄光をあたえた酒です》。個人的に私はこのうちの、“イギリス人が洗練”させたロンドン・ドライ・ジン――BEEFEATERを愛して已まない。
 以前、ヨーテンの第26号を紹介した時(当ブログ「『洋酒天国』とジンの話」)、ジンは“明るさのない酒”、アムステルダムの陰鬱なる酒として登場し、そのカミュの小説の沈みこむ世界観を演出する材料となってしまっていた。ジンの香りの主成分は杜松(ネズ)で、オランダ式とイギリス式では製法が違うことをこの豆知識では繙いている。しかしここでは、主成分以外の香り付けのための草根木皮や配合処方については各社とも非公開で分からないとなっており、確かにそういうものだったのだろうと思われる。

「洋酒の豆知識 ジンのことなど」
 ちなみに現在、ロンドン・ドライ・ジンBEEFEATERを扱うサントリーのサイトでは、その原料や製造方法がある程度詳しく公開されている。それによれば原料(の一部?)は、杜松、セビルオレンジピール、アーモンド、オリスの根(アイリスの種類の根茎)、コリアンダーの種、アンジェリカの根、リコリス(甘草)、アンジェリカの種、レモンピール、とあり、これらの良質な素材を吟味し、杜松だけでも150種あまり集められるという。まさに洗練という他はない。

 ところで杜松というのがいったい何か、調べてみた。
《ヒノキ科の常緑針葉樹。東アジア北部に分布し、西日本に自生。庭木、特に生垣に栽植。高さ1~10メートル。樹皮は赤み帯びる。葉は3個ずつ輪生。春、雌雄の花を異株に生じ、紫黒色の肉質の球果を結ぶ。これを杜松子と称して利尿薬・灯用とする。ヨーロッパ産の実はジンの香り付けに用いる。材は建築・器具用。ネズミサシ。古名、むろ》
(岩波書店『広辞苑』第六版より引用)
 ジンは果汁や清涼飲料に混ぜると、杜松の香りが消え、果汁の味や香りを損なわない酒だという。したがってカクテルの基酒として最も多く使われるとのこと。私はとにかくこの夏、レモン・サイダーにBEEFEATERを合わせてごくごくと楽しんでしまったけれど、これほど陽気で明るく、奥深い香りを醸す酒もなかなかなかろうと感心する。カミュよ、ロンドン・ドライ・ジンを飲んでみたまえ。

2016年8月23日火曜日

サネアツの『友情』

武者小路実篤『友情・愛と死』角川文庫
 先月末、朝日新聞の記事を読んで武者小路実篤の『友情』をふと思い出した。あまりに長らく忘れ去っていた小説を思い出した、という感がある。武者小路実篤『友情』――。その新聞記事は、「文豪の朗読」を聴くというコラムで、実篤の『友情』の書評と合わせ、作家自らの朗読音声を聴いた奥泉光氏の朗読評なるものが綴られていた。こうして私はその実篤の小説の思い出深い、自身の高校3年の夏を振り返ることとなった。

 『友情』については、実は2年前の当ブログ「漱石と読書感想文」で少し触れている。高校3年の夏休みの宿題として、何か一つ本を選んで読み、その読書感想文を9月の始業式の日に提出しなければならなかった。提出の条件は、「漫画本以外」を読め、である。原稿用紙の枚数に関しては、おそらく400字詰め「3枚以上」ほどではなかったか。

 私はその宿題に対し、実篤の『友情』を選んだ。選んだ理由については思い出せない。もしかすると、3学年で指定された課題作品の一つだったのかも知れない。ただ基本的には、「漫画本以外」であれば何を読んでもよかったのだと思う。他のクラスメートも何人か『友情』を選んでいたこともあり、当たり障りのない無難な課題作品を選んだことになる。ともかくこれを読むために、私は夏休み開始の頃に書店に駆け込んだ。その時手にしたのが、実篤が描いた「和楽」画装幀の角川文庫版であった。

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2016年7月31日付朝日新聞朝刊
 その時の私にとって実篤という人への、ムシャノコウジサネアツという仰々しい名前に対する畏敬の念は実に単純なもので、漱石よりも遥かに遠い存在にあった。言い換えれば、何をした人なのかまったく分からない恐ろしさを感じていたのだった。年譜の一部をはしょって読めば明治18年、《家は藤原氏から分かれた公卿華族で子爵》とあって《父は第10代の当主》となっていたし、明治24年の6歳で《学習院初等科に入学》とあれば、もはや人物として程遠い、“おののきの文豪”と思う以外になかったのだ。

 そんな高貴な実篤に対する嫌悪感に近い雑感を抱きながらも、高校3年生の私は、その夏、必死になって『友情』を読み、8月の最終日になんとか作文を書き上げた。しかし高校生であったから、内容を吟味し、よく理解していたとはとても言い難い。それはもう読書感想文という体裁の、規定の原稿用紙に字を埋め尽くすだけの、ゲームにもならない苦行そのものであった(他の教科の宿題も苦行であったが)。とりあえず苦心して3枚の原稿用紙に字を埋め、4枚目の原稿用紙の初めの3行ほど字を埋めさえすれば、この宿題は名目的にクリアしたことになる。その程度のことであった。

 ところが翌月、提出した作文が返されて(返されたのは1990年9月19日水曜日のことだと附けていた日記で分かっている)、そこに赤字の“C”というアルファベットが記されてあり、この作文が低ランクに評価されたことが分かって私は大いに憤慨した。他の者は他人の作文をほとんど丸写しして作成していながら“B”をもらっているのに、正真正銘自ら書き上げたあの作文がどうして“C”なのかと。とは言え、返された作文を如何様かの手段で修繕し、後日(これも9月28日金曜日と日記で判明している)、その作文が“A°”になったことで腹に収める結果となった。けれども、その書き直した文章の一部をいま読んでみると、

《友情というものは言葉で表わすものは何もない。つまり体しかそれは知らない。解答は自分で出すしかない。目に見えるものは嘘しかない》

 などとあって、我ながら苦心した結果の文章がこれかと、笑いたくなった。いや、むしろよくこの文章で“A°”に捏造してくれたものだと、先生の生徒を思いやる(むしろ甘やかす)大らかな諧謔ぶりに、心から感謝の意を表したいと思った。いい先生であった。

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 さて、そうした高校時代の思い出をきっかけにし、再びいま実篤の『友情』を読んでみることにした。
 どうしたことか私は最新の文庫版の書体でこれを読んでみたくなり、かくかくしかじかの書店を歩き回り、それを探した。が、どこにも見当たらなかった。角川文庫にも新潮文庫にも“ム”の作家棚に実篤が見当たらず、愕然とした。名作の時代潮流はとっくの昔にすっかり変容してしまって、あれほど夏の読書感想文フェアの定番だった実篤の『友情』は、いまや評判のない古すぎの小説で忘れ去られてしまったというのか。尤も私自身もサネアツの『友情』のことをすっかり忘れていたのだから同じである。
 ともかく新装版は諦め、高校時代のあの「和楽」装幀の――丼器にカボチャやらなんやらの野菜が入った画――クラシックな角川文庫版で、26年ぶりにそれを読み返したのである。本を久しぶりに手に取って、懐かしい気持ちになった。

 『友情』は上篇と下篇の二部構成になっている。上篇は、主人公の青年・野島が友人の妹の杉子と出会ってからの、めくるめく恋心(結婚願望)を日常体現した若くエネルギッシュな物語となっており、無論ここでは《恋》がテーマである。野島が杉子に近づくことによって、その兄である友人とのある種ぎくしゃくとした根の浅い感情であるとか、最も信頼している友・大宮に自身の恋心を開けっぴろげに相談して、その成り行きで野島を全面から救おうとする大宮の発言や行動はより親密なものとなり、対する杉子はどこか無頓着でありすぎて、まわりの男どもへの奔放快活な態度に野島は始終振り回され翻弄され続け、いつも大宮を頼りにして心の拠り所の終着点としている、など。
 そういう双方の関係が良くも悪くももつれた結果、杉子は野島ではなく大宮に対して恋心を抱くようになり、野島の卑屈な感情は、大宮が外国へ出発する見送りの場で杉子の態度が瞬間的に表面化したことで絶頂を迎える。

 この場合の実篤の文章は、登場人物の内面に深く切り込もうとはしない。いや、実篤の文体では、人物の内面に深く切り込んでその肉体の襞を省察することはほぼ絶対的にできそうにない。そもそもそこには刃物としての鋭角性がなく、時代の自然主義の反動が、エゴイズムの悪を吸い上げるのではない《協和》への理想主義へと疾走していく。したがって実篤の文体は、メスではなく、木刀なのである。

 下篇では、大宮と杉子の本性が露わになる。大宮が某同人雑誌に掲載した小説(大宮と杉子の往復書簡)が内容となっており、もともと当事者同士の手紙のやりとりであるから、第三者である野島に対しては、杉子はある意味徹底して辛辣な感情を吐露してしまっている。大宮も杉子への恋心の傾斜(=友への裏切り行為)とは裏腹に、野島に対する友情を天秤にかけておきながら、結局は利己的な解釈によって彼への道義的責任を放棄してしまう。

 そうしてラストの、この告白小説(大宮と杉子の往復書簡)を読んだ野島のとった行動描写の、実篤の文体は驚くべきそしてまことに、奇想天外なものであった。こうである。

《野島はこの小説を読んで、泣いた。感謝した、怒った、わめいた、そしてやっとよみあげた》
(武者小路実篤著『友情』より引用)

 私はこの一行を読んで腰が砕けそうになった。ユーモアに、文体が飛躍しすぎている。あの時先生が私の手直し作文をちょいちょいと“C”から“A°”にしてくれたような飛躍。
 結局野島は、大宮に手紙を送りその中で、自分は傷つき、孤独であり、淋しくもあるが、奮起して起き上がる云々を表明している。《これが神から与えられた杯ならばともかく自分はそれをのみほさなければならない》と。

*

 サネアツ万感。先述した新聞記事での奥泉氏によれば、実篤は、これらのラストの文章を“泣きながら”朗読していた、という。私もその音声を聴いてみたところ、確かに泣きながら朗読しているようにも思えた。

 篤き情の人、サネアツ。
 武者小路実篤という人が白樺派のオピニオン・リーダーであることに無知であった高校時代の私は、大宮の罪の意識の希薄な、すなわちエゴイストの大宮もヘタレ的な野島も共に頑張れとでもいうような結末に、大いに腹を立てたのではないかと思う。宮崎県児湯郡木城村大字石河内の僻地に2.1ヘクタールの畑を買っておよそ15人で“新しき村”を始めた実篤の《共生》の精神は、人類皆一緒くたに「泣いて、感謝して、怒って、わめいて」なのである。後の太平洋戦争勃発における彼の思想については言及は避けるが、見える侵略と見えざる侵略とを鋭くえぐり出すメスは、やはり所有していなかった。いや、単純にそういう世界の現実感に触覚したくなかったのかもしれない。

 『友情』において大宮はその友を裏切った道義的責任を全うから背負い、何らかの行動を起こし、長い時間がかかろうとも闘いながら野島との真の友情を築くことは可能なはずだ。しかしその解決の先においても、人間は省みることなく再び利己的な行動で破滅へと導く。こうした繰り返しが人間社会には往々にしてある。だからこそ人間は《協和》へと向かうべきなのであって、その理想主義は高い目標であろう。野島が大宮に頼って恋を射止めようとした行為も、互いの関係に亀裂の生じる無意識下の利己的な判断によるものであり、友情を裏切るそもそもの発端であったとは言えないだろうか。一方だけが利己的であるとは限らないのが、人間社会の常である。

2016年8月16日火曜日

魯迅の『藤野先生』

岩波『図書』6月号「藤野先生の『頓挫のある口調』について」
 先月、岩波書店PR誌『図書』6月号の、三宝政美著「藤野先生の『頓挫のある口調』について」を読んだ。私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。『藤野先生』は魯迅の代表作であり、その魯迅でさえも、ひょっとしてもしかすると、その藤野先生の優しさの一面を知らぬままでいたのではないかと想像できたからだ。

 「藤野先生の『頓挫のある口調』について」。
 三宝氏は『藤野先生』(魯迅『朝花夕拾』所収)で、魯迅が綴った先生の“口調”にまつわる表現――頓挫のある口調――の翻訳について鋭く言及している。頓挫のある口調とは、いかなる口調であるのかと。
 さて、と思い、私は高校時代の筑摩書房の国語教科書を開いた。残念ながらその教科書には魯迅の『藤野先生』は収録されていなかった。書棚を探して皮肉にもそれを見つけたのは、同じ筑摩の『筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫)である。ここに収録されていた『藤野先生』は竹内好訳で、『世界文学大系』第62巻(筑摩書房)に拠っている。私はこの竹内氏の訳版によって、三宝氏が言及する部分を見つけることができた。

 そこでは、《ゆるい抑揚のひどい口調》となっていた。
 『藤野先生』は魯迅がまだ若い頃、清国留学生として仙台の医学学校にやってきて、解剖学の藤野厳九郎先生に出会った時のエピソードが綴られたものだ。それは明治37年の秋、他の日本人学生のいる教室などでの、痛苦に満ちた日本での生活が垣間見られる秀作である。
 読んでいくと竹内氏の訳では、藤野先生は《ゆるい抑揚のひどい口調》で自己紹介を始めた、となっている。三宝氏が指摘するに、原文にある「頓挫」や「抑揚」を例えば昭和10年に岩波から出版された佐藤春夫・増田渉共訳版においては、《いつもの抑揚のひどい口調》であるとか、《先生の抑揚頓挫の口調で》と訳されているらしい。また昭和12年の『大魯迅全集』(改造社)の松枝茂夫訳では、《ひどい抑揚のある口調》となっているようで、どれも原文の「頓挫」や「抑揚」を日本語流に訳したとは言い難く、匙を投げたとも受け取れるほどだ。その後松枝氏は改訳し、それを《トギレトギレ》とか《ポツンポツン》と置き換えたようなのだが、やがて昭和30年には《ひどく抑揚のある口調》に戻ったのだという。
 私が読んでいる竹内好訳の《ゆるい抑揚のひどい口調》とか《抑揚のひどい口調》もまったく同じであり、前後を読んでいると、さも藤野先生の言い回しがおかしく、《うしろの方で数人、どっと笑うものがあった》と学生達からの軽蔑の意が濃いことを常識的な解釈にせざるを得ない。

 留学生だった魯迅も、そのように感じていたのだろうか。
 藤野先生は彼――自分をいっこうに不勉強であったと振り返っている魯迅本人――に対して、実に丁寧に、隅々までこまやかに、ある種の執着心を持って接し、解剖学を教えている。不幸にも魯迅はそのせいで、同級生からいじめを受ける。そして信じがたいことに、《中国人の銃殺を参観する運命に巡り合った》。さらにまた、幻灯機を使った余暇の教室の、日本軍に捕らえられた中国人の銃殺の場面で、同級生達が万歳!と歓声を上げた、ともある。
 魯迅はその時、どれほど心を痛めたか。結局、仙台での生活に落胆し、学校を去る決意をする。以後、魯迅は先生を失望させまいと、藤野先生とはいっさい書簡的やりとりをしたためなかった。

 しかしながらあの藤野先生の、学生にさえ嘲笑された《抑揚のひどい口調》とは一体どんな口調だったのか。しかも何故、三宝氏はその先生の口調の解明にしつこくこだわったのか。「藤野先生の『頓挫のある口調』について」は後半、その核心に触れていく。
 三宝氏は、魯迅の同級生の薄場実氏や後輩の半沢正二郎氏の随筆記録から、先生の口調には地方の訛りがあったこと、むかしの漢学師匠の調子があったことを突き止めている。そして魯迅は当時未熟な日本語能力であり、それらを聞き分けることができなかったにしろ、標準語とは違ったイントネーションであることは少なくとも感じることができた、と推理する。
 何事にも不慣れな魯迅に対し、藤野先生は、解剖学という専門的な講義で難しい専門用語が扱われ、しかもラテン語やドイツ語が飛び交っていたような教室では、《頓挫のある口調》つまり言葉を理解しノートに取りやすくするための、充分に間合いを取った口調を意図していたのだ、と三宝氏は述べる。藤野厳九郎は少年時代に儒学を学び、中国留学生への礼節を重んじた面もあったようだ。

 この三宝氏の鋭い指摘によって、《頓挫のある口調》の謎は解けた。これによってこれまでの訳本がすべて微塵にならざる事態になりはしないかと少々心配な面はあるのだけれど、目から鱗が落ちるとはこういうことを指す。
 『藤野先生』という秀逸な作品、藤野先生の学生に対する深い愛情と思いやり、そして心に窮して学校を去った魯迅の、その後の藤野先生に対する厚い感謝の念の高揚――。読者としての私はこれぞ文学、と叫びたくなる心境であった。

2016年8月11日木曜日

レコードとCDのミゾ

岩波書店PR誌『図書』8月号
 これ、着物の模様柄かしらん?
 と、多くの人が思ってしまうこの画像は、レコードとCDのミゾ=“溝”の拡大写真である。

 岩波書店のPR誌『図書』ではここしばらく、科学写真家の伊知地国夫さんの写真が表紙となっていて、私は毎号、その科学写真を眺め、表紙扉裏にある伊知地さんの解説を読むのが楽しくて仕方がない。8月号のこの画像を最初見た時、私もやはり一瞬、着物の柄ではないかと思った。表紙の裏を読んだら、音楽を再生するレコードとCDの記録溝の拡大写真だと分かって、これはすっかりやられたと舌を巻いた。

 というのも学生時代、音響芸術科に通っていた私は、こういう写真を事ある毎に見てきたつもりだったのである。伊知地さんの本文を借りながら、もう一度表紙の写真について簡単に説明しておくと、右がエジソン蓄音機の円筒管で、溝の大きさは横幅約2ミリ。写真中央がモノラルLPレコードで、横幅約1ミリ。左写真の記録溝はCD(コンパクトディスク)で、大きさはかなり小さく、横幅約0.03ミリだという。やはりこうして露骨に記録溝の拡大写真を並べられると、どうしても着物の柄にしか見えない。
 もう少し伊知地さんの解説に頼る。円筒管の溝は、音の振動を針の深さ方向に記録し、レコードは音の振動を横方向のゆれとして記録する。したがって記録溝の形状はまるで違う。単純に比べただけでも、LPレコードの溝の方が精確な音の信号を再現するのに適していると分かるだろう。CDの溝はさらにまったく別物で、それはピットと呼ばれ、デジタル化した音の“データ”を記録している。それぞれ溝の大きさから考えれば、媒体に記録できる量が違うのも頷ける。量とはつまり、ここでは全体の曲の許容時間を指す。

 蓄音機の円筒管については、以前、実物を手にしたことがある(ホームページ[Dodidn*]の「円筒レコード入手!」参照)。その時は入れ物の中の円筒管(ロウ管=ワックス・シリンダー)が黒く煤けて気味が悪く、その溝まで目視することはなかったのだが、基本的に円筒管もLPレコード(の原盤)も鋭い針で表面を削って記録することに変わりない。しかしやはり記録の精確性で言えば、塩化ビニールのLPレコードよりロウでできた円筒管の方が劣っていることは明らかで、私も実際に円筒管の記録を試してみた際には、音が出ること自体が奇跡、という程度のものであった(私が試したのは玩具のような実験だったけれども)。

 さて、CDの記録溝に関しては、私が学生時代に附けていた受講ノートがある。主にそれは、デジタル・オーディオの録音と再生システムについての授業であった。
 CDの材料はポリカーボネートやAPO(非晶質ポリオレフィン)、ゼオニックス、アートンと呼ばれるもので、かなり大まかに言えば、ディスクの読み取り面にピットを記録し、アルミ蒸着する仕組みである。受講ノートには、アナログ信号をデジタル化(標本化、量子化)する際の数理などがびっしり書かれており、いま自分で眺めてみて少々面食らってしまった。標本化する際のシャノンの定理から始まり、2進法におけるビットの計算方法、量子化する際の変調方式やエラー訂正システム、D/Aコンバーターの構成やその変換方式、さらには具体的な回路に至り、ピットの形状についてやピット信号の生成に関する処理方式や光変調器についても書かれてあり、授業としては凄まじく専門的である。

 日頃、何気なくCDで音楽を聴く時、そんな複雑な理屈や回路を経て音が鳴っていることをほとんど意識しない。が、音をデジタル化して記録し、再生時にそれを読み取ってアナログ化し音を鳴らすという仕組みは、実はたいへん面倒なものなのであり、瞬時に電子回路がそれをやってしまっているから意識しようがないのだ。デジタル・データは何度複製しても劣化しない(記録メディアの方は経年劣化する)記録の精確性に長けたシステムであるということは言える。

 専門的な難しい話はここまでにして、レコードとCDについて個人的な昔話を書こうと思ったのだが、長くなるので次回に回すことにする。
 私が個人的にレコードを主として音楽を聴いていた最盛期はいつだったかということを思い出してみると、どうやらそれは1988年あたりになる。自室に置いてあるオーディオ・システムから、レコードプレーヤーが消えた(処分した)ことが理由だ。もうその頃、街のレコード・ショップではCDメディアがレコードを追い払ってすっかり置き換わり、音楽を聴くメディアとしてCDが十分に浸透した背景がある。レコードはこの時――時代としては一瞬かも知れないが――初めて日陰の存在となったのだ。

2016年8月3日水曜日

リオ五輪の競泳を応援する私

『AERA』'16.8.8 No.34
 早いものでロンドン五輪から4年、リオ五輪の夏がやってきた。どれほどスポーツに疎い私であっても、夏季オリンピックの盛大なる祭典の直前の、ゾクゾクした気分というのは少なからず楽しいものである。

 小学校最後の夏休みのある日、その日は希にある登校日で、なんの目的で登校したのか今となってはまったく憶えていないのだが、教室でのやりとりが終わった後、校長室と職員室の掃除をしたことだけは薄らとした記憶がある。(当ブログ「魚の骨」参照)。
 校長室に置かれていた細長い花瓶の花の、花弁に近づいて匂いを嗅いでみた時、雌しべのあたりにぽつりと蜜がたまっていたのを発見した。私はミツバチの気持ちになって、その蜜を舐めてみた。さてそれがどんな味だったかまでは憶えていない。が、校長室で掃除をしたことで思わぬ発見があったことを内心喜んだ。ただでさえ夏休み期間中に学校に来るなんて鬱陶しかった気分が、それで一気に晴れやかになったのである。
 そして帰り際に職員室の前を通ると、テレビでロス五輪をやっていた。実に賑やかな音声であった。今までオリンピックに興味がなかった自分が、何故かその時だけとてもオリンピックが愛おしく思われたのだ。花の蜜のせいだろうか。カール・ルイス、レーガン大統領、マラソン競技で印象的だったガブリエラ・アンデルセン――。

*

 『AERA』(朝日新聞出版)'16.8.8 No.34の表紙は、競泳の瀬戸大也選手。考えてみれば私は、今度のリオの五輪について、まだ周囲の誰ともおしゃべりしていない。リオ五輪が私の中で話題にすらなっていなかった。
 だから私は、ほとんど直感でこの号を買った。ぱっと思いついたのは、もうなんの前触れも脈略もなく無条件でこの人を応援しよう、表紙で大写しになっている瀬戸大也選手をテレビで応援しようじゃないか、ということだった。

 応援するにも準備が必要である。
 これは他の雑誌になるが、“日本代表選手名鑑”なるものを見つけた。そこで競泳の36人の顔と名前と略歴を頭にインプットし、イメージ・トレーニング的に競泳フィーバーさせてみた。さらには競泳スケジュールも頭にたたき込んでみた。…8月6日土曜、予選、男女400メートル個人メドレー、女子100メートルバタフライ、男子100メートル平泳ぎ。7日日曜、準決勝は女子100メートルバタフライと男子100メートル平泳ぎ。決勝は男子400メートル個人メドレー自由形、女子400メートル個人メドレー。予選は女子100メートル平泳ぎ、男子200メートル自由形、男子100メートル背泳ぎ…などなど。8日月曜、9日火曜、10日水曜、11日木曜、12日金曜、13日土曜と競技が続く。スマートフォンにもリオ五輪の民放公式アプリを入れ、情報取得のための万全の体制を整えた。

『AERA』での瀬戸大也選手に関する記事
 瀬戸選手を応援する理由なんてものはない。応援したいから応援するのであって、それ以上の理屈はない。
 彼は埼玉出身で、埼玉栄高校から早稲田大のスポーツ科学部入学と『AERA』で読んだ。その間のロンドン五輪には行けなかった。今回が初めてのオリンピック。大学入学後の彼の活躍なんていうのは、私がここで箇条書きにする必要がないほど一般で有名であるし、競泳に疎い私がそれを書くのはあまりにもおこがましい。とにかく、リオで大活躍するに決まっている。
 『AERA』の記事では、萩野公介選手との精神的丁々発止というか、そういういい関係についても知ることができた。とにかく競泳は、ポスト北島康介を担う選手の台頭が期待されているという。

 こうして書けば書くほどおこがましいのだけれど、私は瀬戸選手の競技人生を応援する。5月24日生まれだなんて、私と同じ双子座じゃないか。ポジティヴであっけらかんとした性格なんてよく分かる。何を考えているかなんとなく読めます。
 夏季のオリンピック。小学生の誰かが、職員室のテレビで同じ体験をするかも知れない。子供達がオリンピックのお祭り騒ぎをたっぷり楽しんでいる様子…を想像しながら、私もオリンピック・イヤーを存分に体感したい。

2016年7月28日木曜日

浅川マキの歌

浅川マキ『浅川マキの世界』
 1976年1月号の『ビックリハウス』については、前回書いた(「サブ・カルチャー雑誌『ビックリハウス』のこと」)。私はここで、その号の一般投稿者による、あるエッセイを全文、以下に書き記しておこうと思う。
 それは、歌手・浅川マキに関するエッセイである。――しごく私は気に入ってしまった。何度も読み返しているうちに、紫煙を燻らす浅川マキが容易にイメージできるし、私はこれと同じ文面をどこかの機会で既に読んでいたのではないか…何かそれは初めて出会ったのではない感触のある、心にじわりと響くエッセイなのであった。
 あらためて詳しく書いておく。これは、『ビックリハウス』(パルコ出版)1976年1月号の、「フルハウス」という投稿ページに寄せた、(当時)国府台高校3年18歳、永田裕之さんのエッセイである。タイトルは「マキについての断片 または『極私的浅川マキ論』」。

雑誌『ビックリハウス』での投稿ページ
《僕が、浅川マキを聴くようになったのは、たしか中3の終わり頃だったと思う。あのころの僕は、教師の何かと言うと勉強勉強、異常なまでの受験指導等に嫌気がさし、それでいて現実には受験せざるを得ないというジレンマみたいなものがあって、なにか世の中を斜めに見るような(今でもそうなんだけれど)中学生だった。

 淋しさには名前がない
 ……誰が言ったの
 何にも いらない
 これからは
 ドアを開けたら 朝の光が
 また ひとりよ 私

「マキについての断片 または『極私的浅川マキ論』」
 なんて言う歌があって、そんな詩がマキのハスキーでそれでいて各小節の終わりのところが、ピョッと上がるような声で歌われるともう理論もクソもありゃしない。ただただ、歌のイメージに浸りこみ、そのイメージをレコードの中のマキ自身に勝手に投影して、精神的オナニズムの世界に漂よいながら生きてきた。

 つまり、結局なんだかんだと言っても進学校と言われる高校に入ってしまった僕にとって、浅川マキの世界というのは、常に逃避場であった訳なんだ。それにマスコミやレコードやコンサートを通じて感じるマキのイメージも、その弱虫な僕の要求を満すような黒一色(でも黒というのは、色では無く光の無い状態、つまり闇の中でいくらでもイメージなんかふくらむのだけど)を通してきた。

 いつもは、マキのことなんか、ごく近しい友人に、しかもアルコールでも入っていなければ話さないのだけれど、こんな風に有名な雑誌『ビックリハウス』に書く気になったのは、僕自身が最近変わってきてしまったのではないかと思うからだ。

 自分自身でもよく分からないし、多少うろたえているのだけれど、あれ程心にしみたマキの歌が、精神的安定剤としての役割を果たさなくなっている。何故なんだろう、マキは変わっていない、9月14日の野音のステージもすばらしかったし、彼女が山下洋輔と組もうがロックの連中と共演しようが、浅川マキは断固として浅川マキであり、その歌は、ブルース以外のなにものでもないのだけれども……。

 マキのあの世界が僕から離れていってしまうのは、とても淋しくまたオーバーに言えば心の寄り所を失ったような気がする。
 でも、マキに出会った3年前とちょうど同じような状況にいる今の僕は、高校受験とは比較にならない程醜い大学受験戦争の中で、反発を感じながらも流されていきそうな自分の、マキに変わる新しい心の逃避場を模索しているような気がする。

 お前は かつて荒れ狂う河の
 激流に身ぶるいしただろうか
 そそぐように降る雨の中
 旅をした事が あっただろうか
 旅をした事が あっただろうか》
(『ビックリハウス』1976年1月号より引用)

 「フルハウス」は、若者の自由な意見を募集した投稿ページである。「マキについての断片 または『極私的浅川マキ論』」は(それがフィクションでない限り)永田さん自らの、思春期における浅川マキとの出会い、その彼女の歌に心酔した内容が書かれており、さらにはその浅川マキの歌に対しての、自分の心の変化の吐露、すなわちそれを心の逃避場としていた自分自身が、大学受験の中で渇き切ってしまうことを感じた、苦い経験の最中の哀歌なのである。

*

 折しも、今年は田中角栄逮捕のロッキード事件からちょうど40年を迎え、メディアの方々でこの事件の経緯や真相に迫る話題が錯綜した。あの事件は1976年2月、アメリカの公聴会から発覚し、やがて田中角栄逮捕へと連動していく政治汚職スキャンダルである。およそその事件で日本中が大騒動となる直前に、永田さんはまさしく極私的な浅川マキ論を展開したことになる。彼の心が徐々に渇き切っていったことと、多くの若者たちの気持ちと、あの時代の社会の姿、あるいは世の中の大人たちへの不信感といったものが、まったく別個のかけ離れたものであるとは、私にはとても思えないのだ。

 そうしていま、私は繰り返し繰り返し、浅川マキを聴く。《淋しさには名前がない……誰が言ったの》の「淋しさには名前がない」(作詞・作曲浅川マキ)を何度もかける。雨の降る夜のしじま、アルバム『浅川マキの世界』に収録された、東京・新宿にかつて存在したアンダーグラウンド蠍座でのライヴ録音を聴き、その世界にどっぷりと浸ってみる。集っていたのは確かに若者たちであったのだろうか。歌い終わったマキへの、場内の乾いた拍手が耳に強く残った。スタジオ録音とはまったく別の彼女の孤独な歌声が、長く脳裏に反映した。

 永田さんの浅川マキ論が、何やらのりうつってくるような気がして、少し怖くなった。それほど、マキの歌声が濃密であり、胸を、心臓を突いてくる。
 彼の思いの丈があまりにもストレートで、その影響をまともにかぶったせいなのだろうか。暗く静かな歌声と、聴き耳を立てて研ぎ澄まされた蠍座の空間の、流れる空気の“無音”でさえも、私にはドキリとした心の戸惑いがあるのである。浅川マキはもうこの世にいない。