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傘に隠された裸体―マーティン・ムンカッチ

 先稿の「フェティシズムの流儀―『奇妙な本棚』」で紹介したハンガリー出身の写真家マーティン・ムンカッチについて、ここでは掘り下げてみることにする。話の中心はもちろん、彼の有名な作品「Nude with Parasol」(1935年)。伴田良輔氏の本の装幀にもなっていたこの写真の、ある種感じられた「特異な秘匿性」について、しばし言語の幾許かを費やしてみたい。

 マーティン・ムンカッチは1896年生まれ、トランシルヴァニアのコロジュヴァール出身。若い頃にベルリンの雑誌の商業カメラマンを経験した後、1930年代からアメリカでファッション・フォトグラファーとして活躍する。私が昔、初めてムンカッチの写真を見たのは、やはり伴田良輔氏の本『20世紀の性表現』(宝島社)の中の1カットであるが、アメリカの雑誌『Harper's Bazaar』に掲載された写真である。その著書においては、モード写真におけるムンカッチの表現性とヘルムート・ニュートンのそれとの比較論的な言説を読んだ上、そこに挙げられたムンカッチの作品――プールサイドで全裸の女性が画面奥に向かって駆け足している後ろ姿――『Harper's Bazaar』1935年7月号掲載の「Healthy Bodies」は、特に印象的であった。ちなみに伴田氏はこの「Healthy Bodies」を、《おそらくファッション・ジャーナリズムに出現した最初のストレートなヌードだろう》と述べている。

【ムンカッチ写真集の中の「Nude with Parasol」】
 私は今、伴田氏の『奇妙な本棚』の装幀ではなく、ムンカッチの写真集『An Aperture Monograph』の中での「Nude with Parasol」の写真を眺めている。
 ――芝生に寝そべった一人の女性の裸体とパラソル。まず周囲の芝生の黒々とした色合いに反して、この女性の裸体がやけに光を反射させ金属のマテリアルのように白く輝いているのが分かる。画面右寄りのパラソルは、ほとんど円形に近い十六角形で半透明である。この半透明というのが素朴なようでありつつ、とても重要な効果をもたらしている。
 パラソルの内側では、女性の裸体の腰から上の半身及び顔の部分が覆い隠れ、上半身がぼんやりと白く見える。さらにこまかく見ていくと、右手首から先のみがパラソルの外側に伸び、その掌が芝生の上に“放し飼い”になっている。そしてこの半透明のパラソルの、周縁部分でもう一つうっすらと見えているのは、女性の下腹部の黒い(色の厳密さで言えば灰色の)「陰毛」である。
 しかも、このうっすらと見えている黒い「陰毛」に眼を奪われている場合ではないのだ。右手首とは対照的な、パラソルの中にぼんやりと見える左手の部分を見よ。それはまるで、X線に照射され透けて見えてしまった掌の細い「骨」ではないか。外側の芝生に“放し飼い”になった、まだ活力のある右手とは裏腹に、この左手は恐ろしくも「死の世界」を思わせる、“屍”の手のように見えないだろうか。

§

 「Nude with Parasol」の写真は実は、「Healthy Bodies」の一部の写真らしい。伴田氏はこの女性の足の指に注目し、その指がよじれているのを《エクスタシーの瞬間のよう》ととらえた。私もそう思う。しかし一方で、あの左手の“屍”の、透けた「骨」を見てしまうと、果たしてそれはいったい何のエクスタシーであったのか、と疑念が湧いてくるのである。
 この写真が「Healthy Bodies」の一部であることを裏付けるのは、左側上隅に見えるコンクリート材の縁だ。これが先に述べた、プールサイドを走る女性の写真の、プールサイドの背景にあたる。したがって同じ現場で、片方は快活とした走る全裸の女性の後ろ姿を写し、もう片方はパラソルにうずもれ寝そべった女性を撮影していることになり、いみじくもこれらの写真から感じ取れる雰囲気は、同じ方向性とは思えない。しかもこの2つの写真に写った女性が同一人物かどうか、まったくの別人なのか、私はまだムンカッチの「Healthy Bodies」のポートフォリオをすべて見たわけではないので、ここでは判断できない。

 ムンカッチにとっての究極のパラソルは、我々がそのようなファッション雑誌で見ることになるヌード写真の、究極的なパラソルでもある。パラソルにおけるメタファーについて考えてみよう。
 例えば、彼が1920年代後半から活躍したベルリン時代の週刊誌『Berliner Illustrirte Zeitung』の表紙でも、砂浜で縞模様のパラソルに隠れて女性の素肌の両脚しか見せていない写真がある。言うまでもなく、彼にとってのパラソルは、「見えない部分」にこそ確信があると視覚的に思わせるためのアイテム、写真術としての技法である。彼の写真に顕れた潜在的な「特異な秘匿性」に気づいた者はいるだろうか。「Healthy Bodies」における後ろ姿の全裸――しかも身体の後ろ姿のほとんどが光の陰になって黒くなってしまっている――においても、雄弁にその「特異な秘匿性」を語ることができるのだが、その内側の「見えない部分」を我々の脳裏に印画させてしまう写真、それがムンカッチの写真術であり、ある政治的な、修辞法とも言えるのだ。
 ムンカッチの写真はそうした意味で、皮相としてはどこか冷淡にも感じられる反面、内的で凄まじい欲望の在処をそこから発見することにもなる。「Nude with Parasol」を例にとれば、それはパラソルに隠れてしまった、しかしながらうっすらと見える女性の「陰毛」であり、死を暗示した「骨」である。これらの持つ記号とは、いったい何なのか。

 伴田良輔氏のムンカッチに関わる言説の中で、リチャード・アヴェンドンの言葉を引用した部分がある。ムンカッチがアメリカ時代に活躍した雑誌『Harper's Bazaar』におけるムンカッチの写真を、リチャード・アヴェンドンは10代の頃、なんと切り取って部屋の天井に貼り付けていたというのだ。つまり、ムンカッチのそれらの写真が若者の性欲を焚きつけるポルノグラフィとしての特性がある一方、非常に構図としての“審美眼”を養うような美しさがそこにあって、同時に「特異な秘匿性」という性の欲望の葛藤を示唆した究極的なアイテムと変貌を遂げたのが、半透明のパラソルであり、「Nude with Parasol」だったのである。リチャード・アヴェンドンの少年時代のスクラップの話から如実に伝わってくるのは、ある政治的な約束事を反故にしない領域において、それがファッション・ジャーナリズムという肩書きがあろうとなかろうと、ムンカッチの写真がムンカッチで在り得たということなのだ。

 「Nude with Parasol」。足の指をよじらせたエクスタシーの瞬間。生と死の狭間に設置された女性の身体。ムンカッチの究極のパラソルは、私たち鑑賞者にいくつもの謎を、投げかけている。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…