香り高き映画『バリー・リンドン』

【キューブリックの映画『バリー・リンドン』】
 貴方は明日絶命します。もし最後に観たい映画があるとしたら、今夜何を観ますか?
 こんなことを訊かれて、真面目に答えるとするならば、私は『バリー・リンドン』と即答するだろう。スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を知り、『バリー・リンドン』を知らぬ者は恥と思え――というのが、したたかなキューブリック映画ファンの一つのスローガンであろうし、その企図は決して間違っていないと思う。
 されど、この世にいい映画なんていっぱいある。私がこれまで観てきた古今東西の映画の記憶は、どれもこれも素晴らしいものばかりだ。これからも観たい映画なんて山ほどあるだろうし、まして、どれがいちばんいい映画かなんてことは、決められるわけがない。
 だとすればなおさら、明日私がこの世から消え去るという身なら、その最後のよすがとして、『バリー・リンドン』を観ておきたいと思う。たとえ満天の星々さえ失った、雨が降り出しそうな冬空の、身も心も凍える夜の惨めな末路であっても。できればそんな時、最後の語らいの相手に、アイリッシュの酒を選びたい――。

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 18世紀のアイルランド。青年レドモンド・バリーが従姉妹のノーラ・ブレイディとの純愛に破れるエピソードから、この映画は始まる。ウイリアム・メイクピース・サッカレーの原作を脚色・脚本化した、スタンリー・キューブリック監督の1975年の映画。
 バリーは恋敵であるイングランド人の士官クイン大尉を決闘で打ち負かしたあと、逃亡して英国軍に入隊。七年戦争を経て、士官の身分を偽り、軍隊から逃亡する。ところがプロシア軍のポツドルフ大尉に身分詐称がばれ、軍の諜報活動の任を負わされる。そうして担ぎ上げるはずだった相手、賭博師シュバリエが同郷人であったためその任に背き、シュヴァリエと共に国外へ、二人は旅の最中賭博家業に明け暮れる。バリーの放浪と流転はさらに続き、チャールズ・リンドン卿の妻と出会う。程なくしてリンドン卿が亡くなるとその地位におさまるが、自身の浮気や亡きリンドン卿の息子ブリンドン卿との確執でいざこざが続き、バリーの人生はさらなる不幸と流転の一途を辿る。

 このアイルランド人青年レドモンド・バリーを演じているのが、ライアン・オニールである。ライアンの類い希な演技力は、文武両道をにじませる青年像を色濃く反映し、エピソードの各局面における実直な、重々しく辛辣な表情のあちこちに、アイルランドの歴史の暗い薫香がよく表れており、観ていてたまらなく胸が締め付けられる。
 キューブリックが描く男性像というのは、多分にも共通項が見受けられよう。『バリー・リンドン』におけるライアン、1987年の『フルメタル・ジャケット』における主役マシュー・モディン、それからキューブリック遺作の『アイズ・ワイド・シャット』におけるトム・クルーズ。あるいはこれに、もっと古い1957年の『突撃』の、カーク・ダグラスを加えてもいっこうに構わないのだが、彼らは美男子であり純真な好青年という品格で、女性を魅了して已まない風貌だけれども、その好青年ぶりのメッキが次第に剥がれ、《狂気》と《錯乱》に陥る波乱の振幅を、キューブリックは逃さず核心的に描いてきたのである。しかしながら、1971年の『時計仕掛けのオレンジ』の後作品となる『バリー・リンドン』は、その《狂気》と《錯乱》の描き方がやや異なり、(まるでライアン・オニールに同調したかのように)全体として穏やかに、緩やかに、まるでアラン島伝来のセーターを丁寧に編み上げるかの如く、精緻で物静かな映画なのである。これが当時、映画評として奮わない、大きな原因であったかと思われる。

 この映画にただよう音楽は、すべて、suspenseの趣を排除した激情的ではない甘い民謡曲に扮している。この映画が緩やかで物静かなのは、そのせいである。主たる楽器、バグパイプやティン・ホイッスル、ハープ、チェンバロが、優雅と気品に満ちた音色を醸し出し、アイルランドの心を忘れさせない。
 suspenseの趣を排したとは、例えばこういう場面を指す。バリーが放浪の途、二人の男の追い剥ぎに遭うシーンがある。ここは映画的には本来、主人公の予期せぬアクシデントの場面であるから、激情と興奮とに表れるような音楽で演出し盛り上げるべきところなのだが、キューブリックはここもあくまで、清楚な民謡風の曲を貫き、決してsuspenseまがいの映画に仕立てぬよう考慮したことが窺える。この映画の主題は、波乱に満ちた男の絵巻などではなく、「人生の《落胆》」を描いているのだ。

 「人生の《落胆》」の主題とアイルランドとがどのような関係を持つかは、その歴史を調べてみるといい。しかもまたキューブリックは、サッカレーの原作から紐解き、満遍なくアイルランド人の典型的性格ぶりをレドモンド・バリーという人物に刻印している。司馬遼太郎の『愛蘭土紀行Ⅰ』から言葉を借りる。

《典型となると、アイルランド人としての典型的性格は、演劇化されやすい》
《アイルランド人は、組織感覚がなく(中世的である)、統治される性格ではなく(古代的である)、大きな組織のなかの部品で甘んじるというところがすくなく(近代的ではない)、さらには部品であることが崇高な義務だというところがうすい。それらは概してイギリス人が所有しているとされるものなのである》
(司馬遼太郎著『愛蘭土紀行Ⅰ』より引用)

 しつこく言うようだけれど、キューブリックは、余喘を保って生き長らえるような人物を描くのが苦手、というか嫌いだ。キューブリックが描く青年バリーは、まさに司馬氏が述べているような典型的アイルランド人を絵に描いており、肉体的には思わず“ばりばりバリー”と言いたくなってくるような漲る活力さが基礎にあって、精神的には、歴史の上で見る度重なる侵攻と侵略、叛乱と革命とであえぎ苦しみ続けてきた民衆の、その濃厚な落胆ぶりが、遺伝子として引き継がれ、その性格をなすものと解釈できる。キューブリック自身も、マンハッタンで生まれ、若くして商業カメラマンとして船出した波乱に満ちた映画狂人生を見れば、この青年バリーと相通ずる部分がないとは言えないだろう。彼キューブリックもまた、“ばりばりバリー”の人であり、そのアイルランド人的性格をものの見事に体現した人だからである。

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 壮麗なる映画にこそ、人の美醜の凄まじいアイロニーをただよわせ、息苦しいまでの高貴な薫香がふさわしい。この『バリー・リンドン』は、中世的貴族に憧れを抱く者、群がる者、その冷め切った性愛の禍々しさに辟易としながらも、ある種の魅力に取り憑かれ、近づいて薫香を嗅ぎ続けようとする人々の、淡い期待と幻惑とその《落胆》ぶりが、描かれている。映画のほとんど冒頭、無垢なる魂のバリーが美しき従姉妹ノーラの乳房の谷間に手を入れ、彼女が仕込んだ“愛の織布”を、まったく怯えながら取り出す様は、彼における《落胆》の始まりであった。《落胆》を感じ、それには態度で唾を吐きさえしながらも、尚その在処を所有せざるを得なくなる、密着していたい心の不甲斐なさもまた、《落胆》の反映なのであり、アイルランドそのものを思わせる。

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