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人間と人間以外のもの―『蓮沼執太: ~ ing』

東京・銀座の資生堂ギャラリーにて、先週、蓮沼執太の展覧会(インスタレーション)『蓮沼執太: ~ ing』を体感してきた。私が資生堂ギャラリーに訪れたのは約2年ぶりで、前回は『Frida is 石内都展』(当ブログ「石内都―Infinity∞」参照)、と言いたいところなのだけれど、その時は資生堂ビルの前まで来て突発の所要のために引き返したため、中へ入った前回は――厳密に言うと、トノ・スタノ(Tono Stano)の写真を鑑賞するために訪れた8年前の『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)になる。その直後に私は、ほんの僅か、この資生堂ギャラリーと福原信三についても書いている(当ブログ「資生堂ギャラリーのこと」参照)。
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 蓮沼執太という人に対して、私自身、思い入れがここ数年濃密になってきている。敬愛する“若き音楽家”というリスペクトの範疇を飛び越え、彼のその多彩な活動は《芸術》という総体にまで及んでいることから、“1983年生まれ”の一回り下の年代、という意識がありながらも、崇拝する雲の上の人、なのである。しかも、同じ《今日》という時間に生き、地球のどこかで確実に寝起きし、様々な心境のうちに魂を揺さぶりつつ、《芸術》という総体に身を置いて活動し、Prophetたらんと日々、精進してさながら時を刻んでいる。そう、同じ世界を見わたしているのだ。
 同じ世界に生きながら、これはもちろんのこと、人それぞれ見方や感じ方が違う。世の中に対してあどけない冷然とした態度をとる人もいれば、がっつりと正面から熱く、社会と政治に対峙する人もいる。蓮沼執太という人にとっては、その感性を、《芸術》の総体の一角の「音と音楽」のカテゴリーに収斂していくことが、最も得意なのであろう。

 一方の私――という自己にとってもそれはまったく同様である。まことに恐縮ながら、銀座の資生堂ギャラリーという環境を伝って、リスペクトする蓮沼執太の創作の、ある一つの言わば《音の出るオブジェ》の装置に実際に足を踏み入れ、小さくひ弱な音を発して、それを自身の耳で聴き入れることができた悦びは、作者と演者によるバーチャルなジャム・セッションを完遂した充足感に近い。ここでは単に現代アートを眺めて鑑賞するのではなく、創作者による《触覚的な楽器》を借用し、それを用いて(そこに…
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京都へ―二条城と天龍寺の庫裏〈二〉

前回〈一〉からの続き。  今にも雨が降り出しそうな曇り空だった4月17日の午後。二条城。観覧の順路に従って、私は二の丸庭園から東橋を渡って本丸櫓門をくぐり、本丸庭園を鑑賞した。この庭園の風雅なよすがは、中学校時代の修学旅行で訪れた記憶を呼び覚ますものと思われたが、当時もまたこの庭園を眺め、そぞろ、目に飛び込んできた緑の美しさを思う以外に、この先の進路であるとか、そういったことはいっさい考えもしないで、ただひたすら、クラスが離れてしまった友人のことを想起するのにとどめられた。内心はおそらく、落ち着いて旅行を楽しむ気分にはなっていなかったのではないか。
 内堀に囲まれた本丸庭園の角には、天守閣跡がある。パンフレットのガイドを読むと、かつてここには伏見城から移された天守閣があったようだ。今は高い石垣が残されているだけである。思い切って段を上がってみた。ここから北東を覗き込めば、京都の街の片鱗が窺える。晴れていればもっと爽快な青空が見えたはずである。  本丸御殿の西側は少し広々とした広場のようになっていて、いかにもここに、学生らの団体が一時的な“集合場所”として利用できそうな所である。それでも尚、私の記憶の中には、二条城で何を見、クラスメイトの間で何を喋った、といった思い当たる場面が一つもなく、あれは本当に無色透明な修学旅行であったのだと、あらためて思った。ただし、これには補遺がある。宿泊先での夜、くだらない悪ふざけをして、クラスメイト一同先生に怒られ説教された、という苦い経験だけは、唯一というべきの想い出であろうか。
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 西橋を渡り、休憩所にて温かい缶コーヒーを飲み干す。ずっと歩き通しであったから、ここで少し足を休ませることにした。  同じようにして、この場で休息を営んでいる周囲の観光客は、皆外国人である。そもそも京都の街に踏み入ってから、ほとんど外国人しか見ていないのではないかとも思った。確かにその日泊まったホテルの、翌朝の朝食のラウンジでは、日本人はほぼ私一人だったようである。そういう外国人向けのホテルであったのか、どこのホテルでも同じ様な光景なのかは分からないけれども、日本の京都でありながら、日本の京都ではない奇妙な錯覚があった。  ――まだ雨は降っていない。屋根のある休憩所のベンチに身を任せ、ちょびちょびとコーヒーを喉に通す際、ふと想像してみた。もしあの時…

京都へ―二条城と天龍寺の庫裏〈一〉

鳩居堂の話の次は、二条城である。二条城へは、地下鉄東西線の烏丸御池駅から一つ目の駅、二条城前駅で降りた。慶長8年(1603年)に徳川家康が築城。264年後の慶応3年(1867年)には、江戸幕府15代将軍の慶喜がここの二の丸御殿で大政奉還を表明し、歴史の舞台に躍り出る。明治以後は皇室の別邸として二条離宮となり、昭和40年には清流園が造成される。ユネスコの世界遺産に登録されたのは、1994年のことである。  こんなように、二条城にまつわる史実をここでつらつらと書くつもりはない。あくまで個人的なことを書きたい――。
 少々、話を蒸し返すけれど、そもそも鳩居堂で文房具――便箋と封筒――を買ったのは、実は長年音信不通となってしまっている中学時代の同級生に、手紙を書こうと思ったからである。できうるなら、限られた友人ら少数で同窓会を開きたい。手紙を書こうと思っている相手の同級生――Tという――については、7年前の当ブログ「白の絆」で詳しく書いた。
 私自身、学生時代の記憶というものは、徐々に薄弱になってきてしまっている。いまだに脳裏に刻まれた濃密な想い出が多い小学校時代と比べ、中学校時代のそれは、筆舌に尽くしがたいほど無残な、情緒の乏しい、主体性のない、精神的に苦痛に満ちた、無色透明な3年間であった。故に、教室や校内の出来事に関しては、3年間の記憶が甚だ定まらない。茫々としてつかみどころがない。自分が何を考え、何をしたのか、自我そのものが喪失した3年間であった。  中学校での3年間は精神的に苦痛、と述べたけれど、苦痛のうちでも唯一、心が和らいだのは、Tと知り合えたこと。“心友”と呼べるのはTだけであった。Tの存在が、私の、3年間における精神的な支えとなっていた。私は中学校に入って程なくして演劇部に所属したのだが、その時の演劇部の部長が、Tの姉だったのだ。  記憶が薄弱となり、事実性が喪われつつあることは、恐ろしい。そうした昔のことを思い出すのがだんだん億劫になりつつもある。だからこそ今、記憶が残っている限りにおいて、書き残しておこうという渾身の思いがある。母校の中学校の卒業アルバムを開いてみた。ここから少しでも記憶をたどる以外に方法はない。
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 確認すべき卒業アルバムの後半には、ぶっきらぼうに「修学旅行」とだけタイトルの付いた見開き2ページがある。これが、私があの時修学旅行に…

京都へ―8年ぶりの鳩居堂

4月17日、京都の街をぶらり散策した。お目当ては、鳩居堂本店と二条城を訪れること。日中のあいにくの曇り空から夕刻には雨が降り出したこの日、別段、私の心には、それを憂う気持ちはなかった。天候などどうでもいい。お天道様の気儘さには逆らわない。すべて受け入れる。雨もよかろう。風情がある。こうして唯々、8年ぶりに京都に“帰ってきた”という思いが、感極まる何よりの悦びであり、その他に何もいらなかったのである。
8年前の京都散策を振り返ってみる。2010年3月30日と翌31日。――桜の花が咲き乱れる下鴨神社あたりから歩き始めた私は、およそ半日かけて街中をぶらぶらしたのだった。今出川通から百万遍、それから銀閣寺(慈照寺)へ。そして法然院、南禅寺とまわり、琵琶湖疎水のあたりから三条京阪へ。翌日は、河原町三条の寺町通にある鳩居堂へ。そこで文房具の土産物を買い、先斗町方面を歩いた。そうして作家・平野啓一郎の小説に出てくる高瀬川の面影を脳裏に刻みつつ、喫茶ポワレの佇まいを横目に、四条河原町界隈へと抜けた――。
 近いうちに京都へ、そしてまた鳩居堂へ訪れよう、と決心したものの、それから8年もの歳月が流れてしまった。愕然としてしまうほど長い時間の隔たり。この間、愛して已まない京都へ一度も足を運ぶことができなかった理由は、多々あった。2011年3月に東日本大震災。旅行どころではなくなった。そうしてその頃、思いがけずかつての演劇時代の旧友と再会を果たした。もう一方では、自らの音楽サイトの立ち上げというせわしい日々。旅行そのものが煩わしいと思う日々が、ずっと続いたのだ。京都が実に、私にとって縁遠かった。
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 京都駅に着いて、しばし、駅構内の勝手が分からず右往左往したのだけれど、徐々に記憶が甦ってきた。記憶というより身体感覚である。京都タワーを見上げて、その感覚が戻ってきた。やはり京都という所は、やってきた、のではない、“帰ってきた”なのである。  地下鉄烏丸線の烏丸御池駅で東西線に乗り換え、京都市役所前駅で地上に上がった私は、加賀藩邸跡とされる付近の高瀬川を眺めた。8年前の心に残る、懐かしき高瀬川。せせらぎすら聞こえない、このこぢんまりとした小川の雰囲気がなんとも堪らない。このすぐそば、漱石の句碑がある。が、私はその時、句碑の存在にまったく気づかなかった。 《木屋町に宿をとりて川向の御多佳さ…

靴下とパンツと甚平と『初夏の沐浴』

他愛ない一連の夢想から、無意識なる肉体の歓喜によって、音楽の断片が生まれることがある。ありふれた日常の中から、ぽつりと生まれ出た瞬間の、忽然とした所作の子宮的邂逅――。
 それはまだ冷え荒んでいた冬の2月のこと。私はある日の夜、自宅で入浴をしながら、何気に《初夏》の季節を夢想してみたのである。それは肉体の耐えざる反抗でもあった。あまりにも寒い日々の連続であったから、肉体にとっての心地良い夢想――寒さから解放された新緑の初夏――に思わず心が傾斜したのである。  確かに、去年の初夏のあたりから、突如として始まった家庭のゴタゴタ続きのおかけで、日々折々の季節を肌身で感じ取る余裕すらなかったわけだから、そのすっかり忘れ去られていた《初夏》という季節を、既に年を越えてしまった晩冬に思い描きたくなったのも無理はない。どこか新緑の季節が懐かしいと思わせてくれるのは、たとえば鮮やかな上野の公園の光景が脳裏に刻み込まれているせいであろうか。
 バスタブから湯が立ちのぼる。その寸前に、首筋から汗が滴り落ちる。  湯から身体を起こして、頭を洗う。思いがけず、シャンプーの量が多い。泡立ちが果てしなく続く。次は身体を洗う。ジャブジャブジャブと湯を上半身にかけた後、シャボンの香りが柔らかく裸体の隅々から漂ってくる。爽快な気分に陥る。  おそらくそうした瞬間から、メロディは生まれたのだろう。風呂から上がってPC内のCubaseを立ち上げると、そのゆったりとしたメロディは、チェンバロの奏でる音となってスピーカーから響いた。とりあえず記録に成功。ともかくそれが、「初夏の沐浴」というタイトルの、曲作りの始まりであった。
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 始まりは程なくして終息を迎える。作曲の行程はあっけなく終わる――。形式的にはそのチェンバロは、2分半ほどで緩やかに結びを迎えたので、これに則ってほかの楽器のパートを付け加えても、さして難儀な展開にはならなかった。どこかしら幻想的で、それでいて日常的すぎた。仄かな明暗も感じられた。程々小さく素朴な曲である。素描と言っていい。特に仰々しい部分はなく、子宮的邂逅というにしてはあまりにも平易だ。波乱のない曲の誕生。
 波乱のない曲の誕生――で何が悪い…。私はぽつりと独り言を呟いた。生まれ出ることの喜び。それは、安産であろうと難産であろうと等しいものだ。他人に喜んでもらえそうもない、…

We Are The World―伝説のレコーディング

私がレコーディングというものに真剣に興味を持ったのは、中学生の時だ。その頃、USA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」のビデオを観た。今思えば不思議な巡り合わせである。極端な話、このビデオを観ていなかったならば、音楽などやっていなかったかも知れない。
 そのビデオは、レコーディングの光景を如実に映したメイキングで、AKG C-12という名機のマイクロフォンの前でライオネル・リッチーが歌い始めるシーンが印象的。だが、ライオネル・リッチーとマイクロフォンのあいだに、奇妙な“布膜”の存在を“目撃”したのだ。どう見てもそれは、女性が穿く「ストッキング」であった。何故、ライオネル・リッチーとマイクロフォンとのあいだに、女性が穿く「ストッキング」が在るのか。中学生だった私は、思い悩んだ。結局はその「ストッキング」の謎解きこそが、レコーディングという制作現場への興味をいっそう深くし、自らもそれにどっぷりと浸かっていくきっかけになったわけだ。私はこれを、「思春期のストッキング事件」と称している――。
 さて、平成の時代がもうまもなく終わる。そういう時世において、かつては誰もがサビを口ずさむことのできたUSA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」など、“知らない”世代が増えてきているのではないか。そのことを承知の上で、「We Are The World」と私自身の想い出を書き連ねることは、逆にとても有意義なことだと思っている。前稿の「ミックステープってなんじゃらほい?」と多少なりとも繋がりのある話であり、昨年1月に書いた「青空の多重録音」も併せて読んでいただけるならば、この話はもっと聡明になるに違いない。私的なことながら、これは私にとってとても大切な、そしてある意味とても不思議な、歌とマルチ・トラック・レコーディングの話なのだから。
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 「We Are The World」(コロムビア・レコード)のチャリティー・ソングが初めて私の耳に届いたのは、中学1年の頃である。時系列で述べると、ニューヨークのハリー・ベラフォンテがアフリカの飢餓と貧困のために何かできないかと発起したのが1984年の暮れ。翌年の1月にその伝説の、深夜のレコーディングがおこなわれ、イースター前の4月5日の朝、世界各国のラジオ…

ミックステープってなんじゃらほい?

音楽の嗜好がメジャーJ-POP一辺倒、という人にはまったく訳が分からないであろう、ヒップホップ業界の“複雑怪奇”なミュージック・シーンとプロダクトにまつわる話。90年代のサブカルだとか、ブートレグに興味をそそられる人なら、いくつかキーワードを並べるだけでああその話ね…と分かってしまう、という音楽の話。なんと言っても、カセットテープとラジカセの全盛時代を知らなければ、この話はまったく理解できないだろうし、退屈かも知れない。ああ、boredom…boredom…。
 2007年、その頃私は24pのデジタル・カムコーダーでデジタル・シネマ(ショートフィルム)の自主制作をやっていた。それまでの5年ばかり、音楽制作にすっかり飽きてしまってそっちはほったらかしにしていたにもかかわらず、あれよあれよと“音楽熱”を見事に再燃復活させてくれたのが、Pro ToolsのDAWの存在とウォルター・ベル(Walter Bell)監督・脚本・編集のドキュメンタリー映画『ミックステープ』(“MIXTAPE”2005年、アメリカ作品)のDVDなのであった。ちなみに、この映画のDVDの販売元であるアップリンクは、その頃とっても(私的に)好きだった、サブカルの宝庫=ポータルである。
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 ところで実際、ウォルター・ベル監督のドキュメンタリー映画『ミックステープ』は、語弊を怖れずに言えば、映画としては見どころがほとんどない、“あまり面白くない”映画である。と、言い切ってしまっていいと思う。いくらヒップホップ界の大御所(チャック・DやDJレッド・アラートら)が次から次へと登場してくると言ったって、ただ彼らがカメラの前に立ち、ヒップホップの成り立ち話や現状をまくし立てるシーンのワンパターンとあらば、観ていて次第に飽きてきてしまう。  で、“あまり面白くない”というのを承知のうえで、彼らのまくし立てるトークやアティチュードを反芻していくと、実は喉越しにミントのキレッキレの爽やかさが感じられるが如く、爽快な気分になれる。音楽業界に興味があるならば――。要するに、『ミックステープ』は、一音楽業界の内紛事情を露わにしたドキュメンタリー映画であり、DVDパッケージ裏面の解説文を借用すれば、《音楽の利権を握る巨大企業はマーケットを操作し、楽曲のリリースを規制することで「ヒップホップ」カルチャーの定義を押し付けて…

梅と鮑照と漢詩のこと

昨年亡くなったが生前、ほっぽらざるを得なかったことの一つに、畑仕事がある。畑と言っても家庭菜園のために農家から借りていた畑で、今月になってようやく、土に埋まったままになっていたダイコンやらネギやらを農家の方に掘っていただき、借りていた畑の後片付けが一段落した。
 WWFジャパン(公益財団法人 世界自然保護基金ジャパン)の会報誌『地球のこと』春号のコラム「いきもの徒然草」の「梅という木の素晴らしさ」を読んで、もう一つ思い出した。梅だ。家の向かいにあるささやかな公園には、以前が植樹した梅の木がある。それは確か、ずいぶん前に水戸の偕楽園を訪れた際、買ってきた梅の木で、今年も見事な紅梅の花を咲かせていた。うららかな日和が続いたこの今、花はほとんど散ってしまったけれど、来年もきっと見事な花が見られるはず。ほっぽった末に処分せざるを得なかった畑とは裏腹に――というか家の小さな庭を眺めてみても、すくすくと元気に育っているのは、どうやらこの梅の木だけになってしまったようである。
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 コラムでは、六朝時代の詩人・鮑照(ほうしょう)の「梅花落」にまつわる梅の話が紹介されていたのだった。鮑照については詳しく知らなかったが、岩波の『中国名詩選』(松枝茂夫編)では、「梅花落」の詩の解説にこうある。 《「梅花落」は漢の楽府題の一つ。梅の花をもって正義の士にたとえ、雑木をもって無節操な人びとにたとえたもの。自問自答の形式をとる》 (岩波書店『中国名詩選』「梅花落」より引用)
 そういえば、今冬は例年と比べてたいへん寒さが厳しかった。関東では1月に珍しいほどの大雪も降った。どれだけ春が待ち遠しかったか、そう思わない日はなかった。されども、梅の木はまさにそういう寒い時期をわざわざ選んで耐え忍び、花を咲かせてみせる――。「梅花落」における鮑照は、庭の雑樹らに目を向け、おまえらにそれができるかと叱咤している。彼はそんな梅の気根に惚れていたのだ。  ちなみに『中国名詩選』で挙げられていた鮑照の、ほかの詩を読んでみると、なかなか含蓄があって目頭が熱くなる。彼の20歳の時の詩「擬行路難」はまだ可愛げがあるが、「詠史」の詩は、洛陽での富と権力の亡者に対する風刺がえらくきつい。
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 このような本を通じて漢詩や漢文に触れる機会があまりなかった私は、あらためて中国の名詩として括られる、時代と世俗を浮き彫…

果てとチーク演劇公演『ヤギの身代わり』

新宿は大好きな街だった――。中学生の頃は事ある毎に駅周辺を訪れていた。思い出すのは、大きな仮設テントで劇団四季の『キャッツ』を観たこと、賑やかな歌舞伎町の映画館でスピルバーグの映画に夢中になったこと。それから、初めてロックバンドのライヴを観に行ったのも新宿。気分が落ち着くところは、紀伊國屋書店の演劇コーナーと、サブナードの地下街。駅に連なるルミネと小田急も、私にとっては懐かしい光景である。そう言えばその頃、ファミコンのゲームで『探偵 神宮寺三郎 新宿中央公園殺人事件』の謎解きにもはまったことがある。実際に行ったこともない中央公園にやけに詳しかったり…。  そうした思春期の精神衛生上、逆に落ち着かない猥雑な新宿の街の只中にいることで、何か心の安寧を保っていたように思えるが、果たしてそれは幸か不幸だったか。新宿駅西口広場から延びた地下通路にはあまり縁がなく、ぎょっとするような「スバルの目」に触れる機会はなかったけれど、確かに誰しもがこの街を愛する理由は、分かるような気がする――。
 升味加耀と川村瑞樹による演劇ユニット「果てとチーク」。東京・北区王子の花まる学習会王子小劇場でおこなわれた第三回公演『ヤギの身代わり』を、私は3月11日の日曜日に観劇。昨年5月の第二回公演『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』から約10ヵ月ぶりの本公演となり、より濃密かつ力強い舞台となって王子小劇場に帰ってきたことが印象に残った。脚本・演出は主宰の升味加耀。出演は川村瑞樹、伊佐敷尚子、板野正輝(テアトル・エコー放送映画部)、市川賢太郎(肉汁サイドストーリー)、稲垣廉、小畑はづき、金澤卓哉、小西耕一(Straw&Berry)、佐藤沙予、中島有希乃、宮内希奈香。
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 今回のストーリーの舞台は新宿。劇場で配られたフライヤーの「主宰挨拶」を引用させていただくと、《宗教とカニバリズムと何組かの母子をめぐる、ある三か月のお話》。『ヤギの身代わり』フライヤーを見て思わずぎょっとするビジュアルが、まさに「スバルの目」。  「スバルの目」は、新宿駅西口地下広場にあるアクリル製のオブジェで、彫刻家・宮下芳子の1969年の作品「新宿の目」(L'OEIL DE SHINJUKU)のこと。1969年にはこの場所で反戦フォークゲリラ事…

永瀬正敏の私立探偵・濱マイクのこと

カラカラに渇いた喉を潤すには、好きなサブ・カルチャーを一口ゴクリと飲めばいい。そのあとで、充分に時間をかけ、精進し、培養する。若かりし頃のそれは、同調した輩と時間を忘れつつ語り合うことが本当に愉しかった。けれど、年を取れば取るほど、仲間はいなくなり、語り合うことは激減する。それでも尚、嗜好へのひたむきさの純度だけは増してくるように思える。そんなサブ・カルチャーとは《孤独》なものなり。  「私」のサブ・カルチャー論。その本質的な定義は、人それぞれ千差万別だろう。まっとうな路上の正面から視界が外れた、いわゆる汚れた側溝の、しつこく黒ずんだコケから生えてくる《雑草》。普段は誰にも目にとまらない。そうでありながら、闇夜にこっそり立ちションをするおっさんや、泥酔して側溝に嘔吐する若者達には時折、視界に入り込む。いま私はそうした《雑草》を目撃する瞬間を体験したかのように、一冊の雑誌をのぞき込んでいる。
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 強烈なインスピレーションを感じた――。つい最近になって、とある古書店で入手した雑誌、『Weeklyぴあ』(ぴあ株式会社)の1995年3月21日号。この手の雑誌には、あまねく多くのサブ・カルチャーが詰まっている。それを見つけ出すのが面白い。そうして私の渇いた喉は、嗅覚と直感を伴い、一人の若かりし俳優を発見した。永瀬正敏である。
 たいへん恐縮してしまうことなのだけれど、私は永瀬正敏という俳優に、これまで一度も関心を持ったことがなかった。私より歳が七つ上で同じB型である。デビュー作の相米慎二監督の映画『ションベン・ライダー』(1983年)以降の彼の芸能活動については、メディアで時折眼に映り、広く人気がある俳優であることは百も承知だけれども、いかんせん私の関心事の中では、“一人の日本人俳優”という認識に過ぎなかった。  ところが、このあいだ、山田洋次監督の映画、寅さんシリーズの第45作目『男はつらいよ 寅次郎の青春』(1992年)を観て、はっとなって気がついたのだ。鮮烈なまでに、永瀬正敏という俳優の、稀有な存在感を――。こうした時代錯誤な遅かりし発見で、以前からの生粋のファンからはどやされそうな瑣事ではあるのだが、その雑誌『Weeklyぴあ』で、彼の当時の最新作であった、林海象監督の映画『遙かな時代の階段を』劇場公開云々の記事を目撃し、えらく私は興奮するに至ったのである。

アラビアの道―東博・表慶館にて

春の兆しを体感した2月末の穏やかな日、東京・台東区の東京国立博物館(通称・東博)におもむく。目的は、『アラビアの道―サウジアラビア王国の至宝』の観覧。東博の表慶館という趣のある場所で、人類の歴史と文明を遡り、アラビア半島における交易と巡礼に連なる至宝を見ることができ、至福のひとときを味わうことができた。いまだ、ぞくぞくとした気分の余韻が絶えない。  まず何より、東博へ訪れていつ見ても美しいのが、玄関口の左側に鎮座する表慶館である。表慶館は、明治41年竣工の片山東熊の作品。翌42年に開館したこの洋風建築の建物は、イギリスの建築家ジョサイア・コンドルに学んだ片山の、最も有名な作品である国宝の迎賓館(旧赤坂離宮、旧東宮御所)にも見劣りしない、古代ギリシャ・ローマ様式。その恰幅のある姿は惚れ惚れとしてつい見とれてしまう。この館はもともと、大正天皇の御成婚を記念した奉献美術館であって、開館当時は美術工芸を主とした陳列館であったという。荘厳な趣は昔も今も変わりない。
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 そんな表慶館で今回催された、『アラビアの道―サウジアラビア王国の至宝』。主催は東京国立博物館、サウジアラビア国家遺産観光庁、NHK、朝日新聞社。  今展覧会は特別協賛としてサウジアラムコが支援している。昨年3月、サウジアラビアのサルマーン国王がアジア歴訪の折、日本を公式訪問。両国間による「日・サウジ・ビジョン2030」の合意。言わずもがな、日本とも関係が深い。その昨年のサルマーン国王来日のニュースは大いに話題を呼んだが、サウジアラビア王国、西アジアのアラビア半島と聞いても、私はその歴史や文化に疎い。ちなみに、この展覧は当初、1月23日から3月18日までであったが、会期が延び、5月13日までとなった。これにより、いっそう多くの観覧者が素晴らしい至宝を目の当たりにするに違いない。
 話の腰を折る――。昨年、岩波書店のPR誌『図書』の岩波文庫創刊90年記念の臨時増刊で『私の三冊』という小冊子を読んだ。映画史評論家の四方田犬彦氏が岩波文庫の『アブー・ヌワース アラブ飲酒詩選』(塙治夫訳)を挙げているのが目に留まり、少し興味を持った。《八、九世紀のバグダッドに生きた破壊詩人の作品集。さしずめイスラム世界のパゾリーニか?》と述べてあって気になり、思わずのけぞった。アブー・ヌワースもさることながら、この詩選は一体どん…

上野散歩―開くまで待とう奏楽堂

2月末。ずっと寒い日が続いていた折の、比較的穏やかな日和の正午。東京・台東区の上野公園を散策。ここは私にとって、学生時代から親しんできた公園である。  確か前回、この公園を訪れたのは、昨年の晩夏の頃だ。ちょうど、「パキスタン&ジャパン フレンドシップ・フェスティバル」が(酷暑にもめげずに)中央噴水池の広場にて、賑やかに催されていた頃だったのだから、間が空くというより、ずいぶんと“間が抜けて”いる。客観的には本当に馬鹿げたくらい、あれから月日が経ってしまった――。  振り返ると昨年は、母親の入院から退院までとつらなって、父親の死去という事由が相重なった。本当にいろいろな出来事が、昨年の半年のうちに折り重なり、せわしい時間を駆け巡った。学生時代から親しんできた東京・上野の一角を、こうして再びのんびりと歩くことができるようになった今、なんとも幸せなことだと実感する。ふと思えば季節は、もう早春の候である。
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 散策の道すがら、ひょいと気になって、旧東京音楽学校奏楽堂の前まで来た。しばしたたずんで、工事中の建物を眺めた。ここへ訪れたのは5年ぶりである。以前と比べて、なんとなく外装がきれいに艶やかになっている気がした。公園を訪れるたびに頭の片隅で気になり、やきもきとしたのは、この奏楽堂がずっと休館で工事中だったことである。
 思い返せば、2013年の3月。それまで何度となく夢想していた奏楽堂の見学がようやく実現(当ブログ「麗しき奏楽堂」参照)し、念願のイギリスのアボット・スミス社のパイプオルガンの音色を間近で聴くことができた喜びは忘れない。こぢんまりとした古風なホールの空間に、さりげなく柔らかなオルガンの響きが広がって、心地良い気分となった。かつての時代、ここは由緒正しい学び舎だったのだ。それを想像すると、まるで自分もその一員であったかのように感じられ、不思議にも懐かしさが込み上げてくる。奏楽堂にはそういう深々とした魅力がある。されど、私が見学した翌月、ここは休館となって門が閉じられ、今日に至っている――。
 奏楽堂の休館は、長期にわたっての改修工事のためである。道すがら我慢できずにここへ訪れたけれど、そう、あれから5年の歳月が経過したのだった。  工事現場の遮蔽壁のパネルには、改修工事についてのいくつかの情報が記されてあった。工事の名目は、重要文化財である旧東京音楽学…

宮坂静生氏の『母なる地貌』

岩波PR誌『図書』2月号掲載の随筆で俳人・宮坂静生氏の「母なる地貌」を読んだ。最初は何気なく読み始めたのだけれど、これは、と感極まった。言葉としての感動がそこにあったのだ。私は日本人として、その随筆に鏤められた日本語の繊細な感度や質感、日本の国土や歴史との複層的な絡み合いに酩酊し、しばし体を震わせながらこの随筆を読み返さざるを得なかった。たいへん美しい詩情豊かな文章である。 §
 「母なる地貌」。ここに記してある主題をより良く味わうために、一旦は、自前で用意した日本地図を机上に開くべきだ。  日本という国土の、その地形地理の具合の粛々たる浪漫あるいは情念に身を委ねることは、文学を味わうことと密接な関係にある。そう思われないのであれば、日本語の本質的な美しさや情理のきらめき、思慕の哀感を決して味わうことはできないであろう。私が用意したのは平凡社『世界大百科事典』の日本地図である。[日本の周辺・海流]という区分で日本列島全体を眺めてみた。しばし時間を忘れて見入る――。むろん、中国大陸や朝鮮半島との海洋を隔てた“一連なり”の、その悠久なる蜜月にも、浪漫や情念として込み上げてくるものがある。
 まずは北緯40度の男鹿半島の位置を視認する。そこは日本海の東側である。序で、北緯30度の屋久島(鹿児島県の大隅諸島)と中之島(鹿児島県のトカラ列島)の位置を見る。こちらは東シナ海の東側。北緯40度より北は冬が長く、奄美大島から沖縄諸島より南は夏が長いと、宮坂氏はこの随筆の冒頭で述べている。  次に、地図の[長崎県]の区分を開く。五島列島の福江島の、北西に突き出た三井楽半島。そこにある柏崎の港。《最澄や空海ら遣唐使が日本を離れる最後に風待ちした港》と称した宮坂氏は、そこを《茫々たる》と表現した東シナ海の性格を叙情的にとらえ、海の果て――強いて言えば遣唐使の難破船――に思いを馳せる。《茫々たる》とは、広辞苑によると、「ひろくはるかな」さまなこと、「とりとめのない」さまなこと。しかしそれ以外にもこの言葉からは、一抹の暗さや不穏さが感じられてならない。
 ところで、「地貌」(ちぼう)とはどういう意味か。宮坂氏は「母なる地貌」の中でこう書いている。 《風土ということばは格好が良すぎる。どこでも通用する景観を指すだけに個別の土地が抱える哀感が伝わらない。むしろそこにしかない人間の暮らしを捉…