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映画『スタンド・バイ・ミー』のこと

私の母校の中学校の卒業アルバムを眺めると、あるクラスメイトの女子が、リバー・フェニックスの顔写真の下敷き(普通のプラスティック・シート)を持って教室の椅子に座っているオフショット・カットに出くわす。卒業アルバムを開くたびに、そのカットを見ることになるから、自然とリバー・フェニックスすなわち映画『スタンド・バイ・ミー』を思い出す。
 その女子はリバー・フェニックスのファンだったのだろう。確かにあの頃、彼は売れっ子の大スターであった。ロブ・ライナー監督のアメリカ映画『スタンド・バイ・ミー』(Stand By Me)が公開されたのは、まさにその頃――中学3年だった1987年(アメリカ公開は1986年)である。  私はあの映画をいつどこで観たのか、憶えていない。おそらく、後々のテレビ放映で観たのだろう。下敷きの女の子は当然、彼が出演した映画『モスキート・コースト』(The Mosquito Coast)や『スタンド・バイ・ミー』を、公開最中の映画館で観たに違いない。そして今でも――これは私の推測だが――彼女は卒業アルバムを開くたび、自分がファンだったリバー・フェニックスを思い出し、『スタンド・バイ・ミー』を懐かしく思い出すに違いない。
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 『スタンド・バイ・ミー』の原作者はスティーヴン・キングで、私はどちらかというと同じロブ・ライナー監督&スティーヴン・キング原作の映画『ミザリー』(Misery)の方が映画としては好きで、その主演のキャシー・ベイツの恐ろしいほどに温和で甘ったるい顔が脳裏に刻まれていて離れない。うっかりすると、まったく毛色の違う『スタンド・バイ・ミー』の原作者が、同じスティーヴン・キングであることを忘れるほどだ。これらの映画は実に対照的である。  話を戻す。『スタンド・バイ・ミー』の映画で、“ゴーディ”役として主演したウィル・ウィートンは、私と同い年の1972年生まれである。これは思いがけないことであった。当時、小柄で幼い印象の彼を見て、同い年であるなどとは露程も知らず、実際のところ、リバー・フェニックスは私よりも2歳年上、コリー・フェルドマンは1歳年上、“太っちょバーン”役のジェリー・オコネルは2歳年下であり、出演した彼らとはほぼ同年代といっていい。まさに映画の中の冒険譚は、同年代の自分とごく近い頃の体験を匂わせていたことになる。ちなみに、映画の物…
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眠る人―ニュートンの『Pola Woman』

ニュートンと言っても、アイザック・ニュートンのことではない。ベルリン出身の写真家ヘルムート・ニュートン(Helmut Newton)のことである。彼は1950年代後半以降、ファッション雑誌『ヴォーグ』(Vogue)などでセンセーショナルなフォトグラフを発表し続け活躍した。世界の著名なフォトグラファーの一人でもあり、私は彼の作品が好きである。当ブログ「フェティシズムの流儀―『奇妙な本棚』」で伴田良輔氏のエッセイ「残酷な媚薬」の中で論述されていた、彼のポラロイド写真集『Pola Woman』について、ここで紹介することにしたい。
「フェティシズムの流儀―『奇妙な本棚』」の稿で私は、《ニュートンは2004年に不慮の交通事故で亡くなってしまった》と書いた。Wikipediaによれば、場所はハリウッドのシャトー・マーモント。遺灰はベルリンに埋葬とある。シャトー・マーモントと言えば、昨年大ヒットしたアメリカ映画『ラ・ラ・ランド』(デミアン・チャゼル監督)でもロケ地となり、セレブ御用達の華やかなホテルという印象が強い。そこはいかにも、ニュートンの趣味にしっくりくる居心地の良さそうな場所であり、彼にとっては最も生活臭の濃厚な居場所であったけれども、遺灰はベルリンに、という部分に、思わず一瞬、そうなのかとも思ってしまう。ニュートンが最も華やかに活動したパリやモンテカルロ、ニューヨーク、そしてロサンジェルスといった表舞台を遠ざかり、ひっそりとベルリンの街の一角に眠る(眠っている)とは、人と世俗の緊密さにおいて、感慨深い。
 ところで、“リブロポート”という出版社の名前は、私の脳内に強く刻み込まれている。この『Pola Woman』も“リブロポート”出版で1994年刊である。ヘルムート・ニュートンという奇才の写真家の写真集が見たかったらリブロポートは外せない。  90年代前半、まだ私は20代そこそこで、こうした“上品な”写真集を入手するだけの知慮も私費もなかった(渋谷PARCOの“LOGOS”に憧れた)。あくまで噂の範疇でニュートンの写真を空想し、夢想し、専ら、その絵面を思い浮かべては、エレガントなモデル達の優雅なニヒリズムを愉しむ以外になかったのだ。
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 今、ここに『Pola Woman』がある。もしこの写真集を1994年当時眺めることができていたならば、もしかすると私は、その未…

音楽というパラダイム

もともと――という表現がこの場合好ましくないのを承知で、敢えて誤解を怖れずに書くけれども、もともと、ジェリー藤尾さんが1960年代に歌っていた永六輔作詞、中村八大作曲の「遠くへ行きたい」が、この55年もの間、変貌に変貌を遂げ、今も、日曜の朝の旅番組の主題歌としてそこで“歌われ続けている”ことを、私はたいへん幸せな心持ちで慈しむ。そういう毎週日曜の朝を迎えている。実によく、ここまで変貌を遂げたものだと感心してしまうくらい、もともとのジェリー藤尾さんの歌う「遠くへ行きたい」が、多彩なアーティストによって趣が変えられ、リアレンジされてきた。そのことを思う時、音楽は、出会う人々によって混じり合い、融合していくのが宿命なのだと、深く実感する。
 この“混じり合う”というキーワードで音楽の歴史とその融合性を説いているのが、最近読んだ丸善PR誌『學鐙』夏号に掲載された、千住明著「混じり合う音楽」である。今号の特集(のキーワード)は「混ざる 混ぜる 混在する」で、科学的文化的見地から様々な分野の著名人が、それを主題と絡ませてエッセイを綴っている。
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 千住氏の「混じり合う音楽」では、東洋の仏教の「声明」と西洋のキリスト教の「グレゴリオ聖歌」がよく似ているという例を挙げている。どちらもモノフォニーの様式であり、見えないものに対する畏怖の念や魂の根源性が先代の音楽から感じられる。そしてごく簡単に言えば、東洋と西洋の文明文化の混じり合いが音楽にも影響を及ぼし、人類は有史以来様々な音楽的ジャンルを構築してきたという話である。 《イタリアのカンツォーネ、ポルトガルのファド、フランスのシャンソンと同じ様に、アジアにもドレミを使った歌謡曲や演歌が生まれ、アフリカの音楽はアメリカでジャズを、ブラジルのサンバはジャズと混ざりボサノヴァを生んだ。イスラムの音階は他と比べて独特で、西洋音楽と混じり合えないのではと思いがちであるが、スペインで生活の中からフラメンコが生まれた》 (『學鐙』夏号「千住明著「混じり合う音楽」より引用」)
 こういったことをひっくるめて、私なりに例にとって示したのが、冒頭の「遠くへ行きたい」のリアレンジのことなのだが、ジェリー藤尾さんの歌う「遠くへ行きたい」がどこかしんみりとする情緒的な雰囲気なのに対し、ごく最近のリアレンジでは、これが実にラテンの明るさを持ってテンポアッ…

スペース・シアター―大阪万博・鉄鋼館の記録

かつて秋田の高校が“大阪万博”へと向かった修学旅行の話「高校生の万国博読本」とは少し趣を変えて、ここでは再び「大阪万博と音響彫刻のこと」に関連し、鉄鋼館の話に立ち返りたいと思う。
 1970年“大阪万博”で前川国男設計の鉄鋼館だった建物は、今もその跡地、つまり万博記念公園のまったく同じ場所に現存している。現在は「EXPO’70パビリオン」と称し、“大阪万博”全体のメモリアル・スペースとなっているようだ。記念館のホームページによると、当時「スペース・シアター」と呼ばれたその円形の大ホールも、いまだ残存しているとのこと。ここは、ガラス越しによる観覧が可能らしい。
 最近私は、当時の「スペース・シアター」の音響を記録した、貴重な音楽アルバムを蒐集した。この音楽アルバムは『スペース・シアター:EXPO'70 鉄鋼館の記録』(ソニー・ミュージック・ジャパン)といい、“期間限定CD”として市販されている。すなわち、1970年発売同名LPの復刻盤である(私はこの2つとも所有することができた)。
 収録曲は、当時の音楽プログラムを再現した3曲。武満徹の「Crossing」、高橋悠治の「Yéguèn」、イアニス・クセナキスの「Hibiki Hana Ma」。3曲とも日本フィルハーモニー交響楽団の演奏録音で、1曲目と3曲目の指揮者は小澤征爾(1970年1月、川口市民会館で録音)、2曲目は若杉弘(1969年11月、日本フィルハーモニー交響楽団リハーサル・ホールで録音)である。  アルバムのクレジットによると、レコーディング・ディレクターは草刈津三、音響ミキサーは若林駿介氏。おそらくこれらの演奏の録音は、マルチ・トラック・レコーダーを使用したものと思われ、通常のクラシック音楽のレコーディングと変わりはない。ただし、鉄鋼館の「スペース・シアター」は特殊な音響ホールである。ホールの床や天井に設置された千個を超えるスピーカーから音を再生するため、12チャンネル出力のいわゆる“スイッチング・システム”と呼ばれるコンピューターの自動制御装置を使って音像を可変させ、録音された演奏を立体的に再現したのではないか。会場にいた観客は、前方後方にとどまらず、あちらこちらから迫力ある音が発生して度肝を抜かれたはずである。  しかしながら、これをそのまま現在のオーディオ・システムで再現(再生)するこ…

高校生の万国博読本

バシェの「音響彫刻」修復プロジェクト(当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」参照)に鑑み、1970年の“大阪万博”関連の話題を増やしていきたい(※その他の万博関連の記事については、当ブログのカテゴリー・ラベル「万博」を参照していただきたい)。
 5年前だったか、1冊の古本をオークションで入手した。日本万国博覧会教育研究会編『高校生の万国博読本』という小冊子。この本の発行年は定かではない。が、万博開催年1970年の直前であることは間違いなく、これは後半で紹介するが、高校における万博旅行の際の必須読本であったようだ。内容は、全72ページのモノクロ判(世界地図と国旗を記した参加国一覧、会場案内図、会場パノラマ写真のみカラー判)で、当時の公式ガイド本をコンパクトにまとめた、学校での学習用とでも言うべきガイドブックとなっている。ちなみに、この小冊子には企業広告はいっさい掲載されていない。
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 『高校生の万国博読本』は、シンプルどころかとても几帳面で真剣そのもの。公式ガイドとして充分なヴォリュームとなっており、読み応えがある。言うまでもなく、“大阪万博”のテーマは「人類の進歩と調和」。本を開くとまずこのテーマが強調されて目に飛び込んでくる。おさらいがてら、万博の概略を列挙してみる。  種類は「国際博覧会条約にもとづく第1種一般博覧会」。開催年「1970年(昭和45年)」。会期は「3月15日から9月13日の6ヵ月間」。会場は「大阪府吹田市千里丘陵」。主催は「財団法人日本万国博覧会協会」。これらを踏まえたところで、本は万博のテーマに関する基本理念の説明から入り、テーマの展開、これまでの万博の歴史と意義、それから“大阪万博”の設営に関する記述と続いて、さらにテーマ館、お祭り広場といった主要な設備の紹介となる。次はエキスポランドという娯楽地区、日本庭園、日本館の紹介及び解説ページとなり、その後各パビリオンのページとなっている(これが約半数のページを割いている)。最後は、「出展国の素顔」と題した、各国の国名や面積、人口、首都名、民族・宗教・言語など付随の事柄が表にまとめられたページがあって、「会場の交通」という万博会場までの道程を示した地図で本の内容は終わる。
 本当はここで、“鉄鋼館”のパビリオンについて書き連ねたいと思っていたのだが、それは別の稿に譲るとして、この『高校生の万国…

大阪万博と音響彫刻のこと

久方ぶりに個人的な“大阪万博”熱が再燃するような、そんな興味深い新聞記事に出合い、そのクラウドファンディングの主旨に賛同し、些かの支援の企てをウェブ上で取り計らった。このネット出資が功を奏するかどうかは現時点では分からない――。しかし、“大阪万博”に対する憧憬と抽象音楽への深い関心の交差は、紛れもなく私自身を一瞬にして突き動かした。このプロジェクトが無事に成功してくれることを祈る以外にない。
 私が突き動かされたのは、朝日新聞朝刊5月27日付茨城版の「再び響け 大阪万博の『音』」という記事である。「音響彫刻修復へ ネットで出資者募る」という副題に刮目し、興味を持った。掻い摘まんで記事の内容を説明すると、1970年の大阪万博で出展されていたフランソワ・バシェ(François Baschet)製作の「音響彫刻」を、茨城県取手市の東京藝術大学ファクトリーセンターが修復・公開することを目的とし、その資金200万円をクラウドファンディングで(6月末まで)募っている――というもの。バシェの「音響彫刻」は17作品あって、過去に修復された5台以外の12台がこれに含まれる(一部寄贈された作品があるらしい)。
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 この「音響彫刻」の修復プロジェクトに関しては、バシェ協会のホームページが詳しい。それとは別に、私自身も独自にこの「音響彫刻」について調べてみた。そもそも“大阪万博”でこのようなオブジェがあったのかということに対し、私はこれまで聞いていたような聞いていなかったような、俄に判然としなかったのだけれども、最近、坂本龍一氏のアルバム『async』の中で過去に修復されたバシェの「音響彫刻」が使用されたことを知り、なんとなく朧気な輪郭が見え始めたのだ。そこではっきりと理解するために、当時の“大阪万博”の公式ガイド本(『日本万国博覧会 公式ガイド』)を開いてみた。
 現代音楽の音楽家・武満徹氏がバシェに依頼して作られた「音響彫刻」は、鉄鋼館で出展された。武満氏は鉄鋼館の芸術監督を担っていた。鉄鋼館は、日本鉄鋼連盟主管のパビリオンで、主立った企業を抜粋すると、八幡製鉄、富士製鉄、日本導管、川崎製鉄、神戸製鋼や大阪製鋼、三菱製鋼、日本ステンレス等々で、その他の組合や協会も連なっている。この公式ガイド本によれば、鉄鋼館は、“世界に誇る音響装置”、“古代ローマのコロシアムを思わせる大ホー…

素朴な感傷―アルルの女

レコードが奏でる物悲しいメロディが、突如として想い出の地の記憶へといざない、可憐な少女の面影を重ね合わせる。かつて聴いていた古ぼけたレコードの「アルルの女」は、見上げるその建物の5階の、あの「部屋」の物語でもあった――。  ジョルジュ・ビゼーの「カルメン」に続き、密やかな郷愁の記憶が甦ったのは、同じビゼーの「アルルの女」(L'Arlésienne)である。厳密に言うと、「アルルの女」の第2組曲第3曲の「メヌエット」(Menuet)であり、フルートのメロディが美しい有名な曲である。
 例によって幼少の頃、百科事典『原色学習図解百科』(1968年学研)の第9巻[楽しい音楽と鑑賞]によるクラシック・レコード集「名曲鑑賞レコード」(EP盤全6枚、全30曲)のうちの“アルル”のメヌエットを聴いた。日本フィルハーモニー交響楽団、渡辺暁雄指揮。  赤いレーベルのEPレコードをプレーヤーに載せ、その針のうごめきに眼を奪われる中、まさに密やかなフルートの音色に耳を傾け、心の些細な動揺を感じ取った平穏な日常の淡い香りは、夜の佇まいとして忘れられない記憶である。そうして矢も盾もたまらなくなって思いを馳せたのは、隣室に住む幼い少女のこと。仲良しだったその少女は、時折こちらの「部屋」に訪れてお飯事(クッキーを作るキッチンの玩具が素敵だった)をして遊んでいた。だが、私の一家がその集合住宅を去る前、彼女の一家もどこかの地へ引っ越してしまったのだった。実にあっけない幸せな月日ではあったものの、私はあの“アルル”のフルートのメロディと共に、今では写真でしか見ることのできない少女の円らな瞳を思い出す。あの「メヌエット」こそが、少女の「姿」の投影であったとさえ思えてならないのだ。
 フランスの文豪、アルフォンス・ドーデの戯曲をもとに作曲された、ビゼーの「アルルの女」組曲。ドーデの戯曲のための付随音楽を、4曲の組曲にしたのが「アルルの女」第1組曲であり、ビゼーの死後あらためて編成されたのが第2組曲である。ドーデの戯曲がとても牧歌的で情愛に満ち、そして不憫な――フランスはプロヴァンスのアルルの地に現れた“アルルの女”に惚れてしまった豪農の息子フレデリの、悲劇と官能の――物語。幼かった私にとっては、そうした物語の背景などまるで分からなかったのだけれど、恋というべきもの、愛というべきものの《核心》…