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読書三昧―『源氏物語』というパンドラの箱

今年はのっけから本が増えて増えてならないのだ。自宅の蔵書が書棚に収まりきれず溢れかえり、あちこち本の塔(まるで卒塔婆のよう)ができて居処を狭くし、煩わしい。しかし、読みたい本が目の前にあるという充足感は格別。諸刃の剣でいずれにしても読書というものは、蔵書が“増書”となり、行き過ぎると“毒書”ともなる。
 昨年は春から夏にかけて、ジョイスの『ユリシーズ』をかじった。かじっただけなので、読後の達観した気分にはならなかったが、連夜読み続けていたその頃、1巻だけでも厚みのある『ユリシーズ』が寝床の傍に3巻も並べられ、さらに隣に『フィネガンズ・ウェイク』が2巻置かれていた。そうなると、かなり手狭となって、これまたひどく分厚い柳瀬尚紀訳『ユリシーズ 1-12』(河出書房新社)を読み出したりすれば、もはやジョイスの本に囲まれた私自身の身体は、狭い窮地に追い込まれた小動物である。この点、巨人ジョイスに隷従した身と言っていい。  それほどの長編小説は懲りて、もう読まないようにしている。にもかかわらず、昨年末、保坂和志氏の些細なコラムを読んだのをきっかけに、紫式部の『源氏物語』にすっかりはまってしまった。これがまた言うまでもなく、大長編である。そうして収まりきれない本が、蔵書が、またしても増えてしまったのだ。いかんいかん…。  確かその前、秋だったと思うが、古書で『日本国語大辞典』全10巻を買い込んだ。これはなんとか書棚を整理して全巻押しくるめることに成功したのだけれど、今まさに岩波と角川とポプラ社(児童書)による『源氏物語』数冊と、絵巻関連の本と、それから瀬戸内寂聴版『源氏物語』全10巻(講談社)を揃えてしまった渦中において、私はじっくりと、この長い物語を耽読することにした。平安貴族の幽玄の世界に浸り、悦楽の気分を味わうために。
§
 『源氏物語』の文体の、その美しくも儚く、時に性的で艶やかな「言葉」の秘めたる鼓動を、なんと驚きをもって表現すれば良いのか。これがいにしえの、平安朝時代に書かれた読み物ということに対する純粋な感動。そこには、まどろんだ一昼夜の風雅にたたずむ男女らの交錯と、あれやこれやの大人びた人間模様の連鎖が記録されているのであり、私はそのことの発見に何度溜め息をついたことか。  岩波書店のPR誌『図書』12月号の保坂和志著「ようやく出会えた源氏物語」を読むと、新…

ある講義の話

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年12月31日付「ある講義の話」より)。

 12月のある日、私は何気なくこんな行動をとりました。
 朝日新聞朝刊の社説に眼を通す。社説欄をハサミで切り抜く。スクラップにした社説欄をプリントアウトする。
 そして、気になった文章に赤鉛筆で傍線を引き、この社説の論説との関係(あるいは要点・注意点・矛盾点)を反芻する――。
 昔、専門学校で私は元朝日新聞記者の秋吉茂先生(著作『美女とネズミと神々の島』など)の「マスコミ講義」を聴講しました。ある時、秋吉先生が急遽、講義を欠席なされたので、代理の先生の方が講義をすることになって、“突貫”の授業が行われたことがあります。その際、生徒にはある新聞記事のコピーが配られました。
 その新聞記事を要約し、マスメディアとジャーナリズムについてのお話をなされた…と記憶していますが、“突貫”でもあり、突然配られた記事を読むだけで面食らった私は、その授業の内容はおろか、ノートに書き写すこともできませんでした(その記事のコピーは今でも保管してあるはず)。
 そうして20代の後半頃まで、私は新聞記事のスクラップを収集してファイルする癖があって、量としては大したことはないのだけれども、インターネットを扱い始める以前の時代の、自分が興味を持った分野に対する執拗なる痕跡がそこに眠っています。
 最近というか今年の下半期、三好行雄編『漱石文明論集』(岩波文庫)とClaude Lévi-Straussの『レヴィ=ストロース講義』(平凡社ライブラリー)を読み耽りました。
 この2つは内容的に非常にリンクする部分があると思うのです。
 夏目漱石がマードック先生にどんな英語の本を読んだらよいかを訊ね、マードック先生が手近な紙片に10冊の書目を書き記し、漱石はそれを大切に持っていて、10年かけてそのすべての本を読破した(「博士問題とマードック先生と余」)というくだりは、レヴィ=ストロースが言うところの、文化の多様性と文化相対主義における個人レベルでの実相であると思いました。
 つまり、個人と個人の親和の問題――もしマードック先生がもう少し雑な対応をして、口答で10冊を述べて漱石が記憶に留めようとするか、あるいは漱石がそれを書き留めたとしても、おそらく漱石は10冊をすべて読破することはなかった…

「大阪」とリヒテルの謎にまつわる話

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年12月28日付「『大阪』とリヒテルの謎にまつわる話」より)。

 高校修学旅行の記憶の中に、「大阪の新世界の界隈を歩いた」――があります。が、修学旅行は姫路・金比羅・萩・山口・広島に行って、大阪を訪れた公式記録はありません。
 ――休憩のためにバスを降りる際、ここは賑やかなところだから十分気をつけるように…と引率の教師に含み笑いをされて、さて何のことかと思ったのですが、要するに風俗店には入るな、という意味だったようで、新世界商店街での休憩時間はものの数十分で終わった――という記憶。
 その記憶自体が非常に曖昧なうえ、卒業アルバムにある修学旅行旅程表には、東京から新幹線で姫路へ、姫路から姫路城へはバスの運行路線となっており、その記憶とはまったく食い違います。
 自分の記憶が不正確で、公式の旅程表が正確である、という可能性が高いにしても、どうも自分の記憶を捨てきれません。仮に、何らかの理由で旅程計画が急遽変更され、実は新幹線を大阪で降り、大阪からバスで姫路城へ向かったとも考えられ、卒業アルバムには当初の計画の旅程表がそのまま掲載された、という可能性もないわけではありません。
 ともかく、私にとって濃厚すぎる大阪への連想・連関は、この奇妙な記憶と“大阪万博”への憧憬以外、他にないのです。
 閑話休題。
 ムラヴィンスキーをWikipediaで調べると、注目すべき文面がありました。
《レニングラード・フィルは1958年に初来日を果たすが、ムラヴィンスキーは病気のために同行できなかった。1970年はムラヴィンスキーに出国許可が下りず(表向きは急病とされる)、代役でスヴァトスラフ・リヒテルが初来日している。1973年になってリヒテルの代役としてようやく初来日が実現した》
 先日紹介した、大阪万博開催に伴ってのフェスティバルホールでの催し物の中に、レニングラードフィルの演奏会があります。公式ガイドでは「エフゲニ・ムラビンスキー、アルビド・ヤンソンス指揮」と書いてありましたが、Wikiの文面が正しければ、この予定は覆ったことになるのでしょうか。また、1970年のリヒテル初来日は、予定にあった9月の演奏会のことではなく、7月のことになるのでしょうか。
 ネット上における“大阪万博”に最も詳しいサイト[EXPO&…

リヒテルと大阪万博

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年12月25日付「リヒテルと大阪万博」より)。

 大晦日というとすぐにベートーヴェンの第九を想起しますが、どちらかというとドビュッシーやリストなどの室内楽の方を好んでいるので、ベートーヴェンにはあまり食指が動きません。
 初めてレコードを聴いた幼年の頃には、既に『原色学習図解百科』(学研・1968年初版)の付録にあったクラシック音楽のレコードセットで第九の“合唱”を聴きましたが、同じレコードセットの中の室内楽を選んで針を落とす方が多かったのです。しかし小学校に入って、クラシック好きな“ジュンコ”ちゃんという女の子の薦めで、第九のカセットテープを買いました。グラモフォンのレーベルだったと思うのですが、それ以来、何十年と第九とは縁がありません。
 年の瀬に聴いてみたくなって買い求めたのは、スヴァトスラフ・リヒテルのチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』です。
 さて、個人的に来年こそは大阪万博の跡地を訪れたいと思っているのですが、1970年の大阪万博の時、彼はフェスティバルホールでピアノ演奏会を行っています。
 フェスティバルホールは大阪万博の特設会場ではなく、北区中之島の地下鉄四つ橋線・肥後橋駅に程近い所にあります。当時、万博の期間中に伴って、世界から著名の指揮者や演奏者、楽団が大阪に訪れていたようです。
 例に挙げると、4月はシャルル・デュトワが、5月はマルセル・マルソーやカラヤン率いるベルリン・フィル、カナダ国立バレエ団によるプロコフィエフ『ロメオとジュリエット』の演奏が、6月は小澤征爾による日本フィル、ローマ室内歌劇団、モントリオール交響楽団、7月はレニングラードフィル、8月はボリショイオペラにニューヨークフィル、そして9月はリヒテルの他、レイモンド・レパード指揮のイギリス室内管弦楽団…。
 『日本万国博覧会公式ガイド』で「フェスティバルホール催し物」が紹介されており、9月3日と5日に初来日したリヒテルの演奏会がありました。ただしこの紹介頁では、リヒテル・ピアノ演奏会の演目が記されてありません。
 そこでサイト[EXPO'70]で調べてみると、リヒテルのその時の演目がわかりました。
●シューベルト「ピアノソナタ ハ短調」
●バルトーク「15のハンガリー農民歌」
●シマノフスキ「仮面…

ピーターと狼

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年12月24日付「ピーターと狼」より)。
 私にとってレコードや音楽の思い出は尽きることがありません。  いまや音楽メディアの需要は、ミュージックプレーヤーへのダウンロードが主流となっています。そうなると当然、日常の中での音源の入手の仕方、音楽を聴くシチュエーションやタイミングは以前とは少し違ったかたちになるわけですが、そうしたメディアの変化による音楽との接し方が変われども、音の再現性やクオリティを追究する以外に、いかなる動機で、いかなる場所で、いかなる心持ちでそれを聴くかという、音楽との関わり合いの中での精神的な快楽性は、おそらく不変であると私は認識しています。  とりわけ、子供の頃の音楽との接し方やその記憶というのは、成人を過ぎてからのそれともリンクしているということは十分に言えるでしょう。
*
 ――鍵のかかった木製の家具調ラックの扉を開けると、ステレオ装置のプレーヤーとアンプが現れ、レコードに針を落とすまでの所作を真剣に見つめる眼差し。そのわずかな時間の静謐さ、粛々とした雰囲気。3階の音楽室の窓からはうっすらと青みがかった富士山が見え、その小さな風景と相まって、美しい音楽の音色が両端のスピーカー・コーンから室内全体に広がる。悠久なる至福の時間――。  これが私にとって忘れがたい、小学校の音楽の授業の記憶の一つです。 小学4年の時の担任だったK先生は大のクラシック愛好家で、音楽室隣にある準備室に保管された教材レコードを提示するのではなくて、自分の家から名盤を持参して児童に聴かせてくれたりしました。その先生の授業であったかどうかは忘れましたが、プロコフィエフの『ピーターと狼』を鑑賞したことがありました。
 『ピーターと狼』は、主人公ピーターと動物たちが登場する小さな物語で、曲の合間にナレーションが挿入されるユニークな構成の交響曲です。冒頭でまず登場人物と担当の管弦楽が紹介され、登場人物の特徴を生かした楽器の音色と旋律を知ることができます。『ピーターと狼』は“おはなし”のためのバックグラウンド・ミュージックではなく、あくまで音楽が主体であり、ナレーションはその支えに過ぎません。
 この曲が音楽の授業で扱われたのは、交響曲の表現性の豊かさと面白さが学習意図にあったと思われるので、おそらく学校で…

ウルトラ警備隊西へ

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年12月21日付「ウルトラ警備隊西へ」より)。

 地球防衛軍ワシントン基地が打ち上げたペダン星への観測ロケットは、彼らにとって生物存亡の危機に瀕する未曾有の事態であり、社会の安寧秩序を乱す言わば「黒船来襲」であった。彼らはその報復策として、地球に諜報員を送り込み、果断なる行動すなわち神戸の防衛センターに結集する各国の科学班チーフらの暗殺を決行した。
 金髪の女性、ドロシー・アンダーソンはワシントン基地から来日した科学者である。地球防衛軍極東基地のウルトラ警備隊は、彼女の護衛を任命され、神戸へ向かった。しかしそこで彼女を狙ったのは、ペダン星のスパイと思われる謎の白人男性であった。
 その頃、南極から秘密裡に日本の博多港へ向かっていた潜水艇がペダン星の宇宙船団によって襲撃され、乗艇していた二人の科学班チーフは潜水艇もろとも海の藻屑へと消えた。
 やがて宇宙船団は合体ロボットと化し、六甲山の防衛センターの前にスーパーロボットとして現れ、破壊行動を開始した。モロボシダンはセブンとなったが、この強靱なスーパーロボットを倒すことができなかった。
 一方、神戸港でドロシー・アンダーソンが謎の白人男性に再び狙われた。しかし実は、ドロシーこそペダン星人のスパイであり、本物の彼女を護衛していたのが、謎の白人男性すなわちマービン・ウエップという秘密諜報部員だったのだ。
 姿をくらましていたドロシーを発見したセブンことダンは、そのドロシーの姿を借りたペダン星人と直接会い、ペダン星人への攻撃を中止する条件として、地球撤退と本物のドロシーを解放することを約束させた。しかし解放された本物のドロシーは記憶を消されており、セブンとの地球撤退の約束とは裏腹に、ペダン星人はさらなる地球侵略の作戦行動を進めた。裏切られたダンは再びセブンとなってスーパーロボットと相対する。
 彼らの侵略作戦を止めることができないセブンとウルトラ警備隊であったが、運良く本物のドロシーが記憶を回復させ、防衛センターの土田博士とともに、ライトンR30という強力な爆弾を製造することに成功。スーパーロボットを見事に破壊することができた。ペダン星人の宇宙船団は地球から撤退し、地球は彼らの魔の手からかろうじて逃れることができた。
*
 以上が、脚本・金城哲夫…

懐かしのハンバーガー自販機の話

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年12月19日付「懐かしのハンバーガー自販機の話」より)。

 懐かしいプチ回顧録。  私が子供の頃は、地元の国鉄の駅がまだ木造モルタル建築で、狭い駅舎だったので、弁当などの食べ物の臭気と便所(昔はトイレとは云わなかった…)の臭気とが渾然一体となって独特な臭気が漂っていました。
 いや、ニオイの話ではないのですが、駅前にタクシー乗り場があってラーメン屋があって、そのラーメン屋の外にはジュースの自動販売機が置いてあるのですが、その隣に、「ハンバーガー」の自販機があったのです。昭和50年代の頃です。
 お金を入れると数十秒待たされ、機械内部でハンバーガーを温め、頃合いを見計らってポトリとハンバーガーの入った小箱が落ちます。種類は「ハンバーガー」と「チーズバーガー」だけだったと記憶していますが、大きさはざっと15センチ角くらいでしょうか。
 母親に連れられて駅前に買い物に出掛けたとき、このハンバーガーの自販機の前を素通りするのですが、幼児の私としてはこのハンバーガーなるものを食べてみたい。時に自販機に寄りかかってねだったりするのですが効果無し。それからしばらくして、ようやく念願叶って200円かそこらのこのハンバーガーを買う機会がおとずれて、実際にハンバーガーの小箱を手にしたときは、少々手が震えたかも知れません。
 アツアツに温まった小箱を開封すると、紙に包まれたままのハンバーガーがあって、その匂いは初めて嗅ぐ匂いであり、これが噂のハンバーガーかと、何とも言えないアメリカンな気分に浸りながらそれを食べたものです。味はそこそこおいしかったと思います。
 今、ネットで検索してみると、このハンバーガーの自販機は「グーテンバーガー」という名前だったことがわかりました(サイト「懐かし自販機」さん参照のこと)。現在は販売していないようです。
 YouTubeで非常に貴重なこの自販機の動画を見つけたのですが、どうも出てくるハンバーガーの小箱のデザインが違うので、グーテンの自販機から別の製造元のハンバーガーが出てくる映像であると思われます。しかしそうであっても、古いままの自販機が最近までそのまま使われている姿を見ると、随分長らえていたんだなあと涙ぐましく感じました。
 駅前のラーメン屋にあったグーテンバーガーの自販機は…

無謬の問題―近代身体論

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年12月8日付「無謬の問題―近代身体論」より)。

 国語の教科書を単に“読み物”として通り過ぎるのとは違って、まさに現役の学生がそれを学習しなければならない時、意外と理解しにくい論旨という意味合いとは別の、甚だ理解しがたい論旨に出くわし、授業というかたちでそれを無情にも受け入れなければならぬことが、しばしばある。  こういった場合は、忍耐と寛容な受け身が必要である。が、その一方でその論旨を批評しつつ独自で新たな論旨を設けてみることも、学習の一つであろうと私は考える。
 2009年筑摩書房発行の高等学校国語科用『国語総合―改訂版』の現代文編「評論二」では、三浦雅士著の「考える身体」がある。おそらく本文は同著『考える身体』の一箇所を抜き取ったものであるため、著者の総論的な論旨にはなり得ないが、私はこれを読んで違和感を覚えた。
「ナンバ」についての議論
 以下、教科書用に抜き取られた文章の冒頭を引用してみる。
《昔の日本人は今の日本人とは違った歩き方をしていたというと、たいていの人は驚く。昔の日本人は、手足を互い違いに出す今のような歩き方はしていなかった。右手右足を同時に出す、いわゆるナンバのかたちで歩いていたのである。腰から上を大地に平行移動させるようにして、すり足で歩いていた。いまでも、能や歌舞伎、あるいは剣道などにはこの歩き方が残っている》
 何故昔の日本人がこのような歩き方をしていたかについて、著者はその次の段落で、生産の基本が農業、それも水田稲作にあったからとし、稲の生育を注意深く見守るためには、走ったり跳んだりすることは無用だった、と説いている。
 まず私は「ナンバ」という言葉を知らなかった。不思議なことに、とても親切丁寧な注釈が欄外に多いことで知られる筑摩書房の国語教科書であっても、この「ナンバ」が注釈になかった。確かに本文の中で「右手右足を同時に出」して歩くことの意が示されているようだが、語の出自、語源が注釈にもないのは不自然である。
 この「ナンバ」とはどんな意か。
 岩波の『広辞苑』(第六版)で調べると、「南蛮(なんば)」の語にそれがあった。 《歌舞伎や舞踊の演技で、右足が出る時右手を出すような、普通とは逆の手足の動作。樏(かんじき)や田下駄をナンバと言い、これを履いた時の所…

写真の中の学習机

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年12月7日付「写真の中の学習机」より)。
 家族の長い歴史を断片的に綴ったフォト・アルバム(ほぼ99%父が写した)は、私が幼少の頃からきちんとネガと共に整理されていて、体系化されていた。我が家では昔、銀塩カメラによる撮影はアウトドアの記念写真かスナップに限定され、高価なフィルムの消費は家計の事情でできるだけ避けるよう、冗談交じりの暗黙のルールがあった。特に飼い犬を撮る際は、「見栄えの良い」写真を撮るよう言及され、ただ単に「寝ている姿」を撮ることはほぼ厳禁に等しかった。
 そういった観点から、フォト・アルバムに整理され収まっている写真は、「見栄えの良い写真」だけであり、そうでない写真はプリントされていないか、あるいはネガを保管する箱の中にまとめて「隠して」あった。長年、フォト・アルバムに見慣れていると、「見栄えの良い」写真の方はだいたいどんな写真が収まっているか記憶に残っているものだが、一方の「隠して」ある写真の方はほとんど散見する機会がなく、記憶に残っていない。  近年、このフォト・アルバムの一部のネガをデジタル・アーカイブした際、フォト・アルバムの中にはない、見栄えの悪い写真として処理されたカットが多く発見されて、個人的には頗る好奇心を掻き立てられ面白かった。その大部分が室内撮影のもので、おおむね露出不足の理由から「隠して」あったのだと思われる。
 これも「隠して」――長年隠蔽されて――あった写真の一つである。小学校低学年の頃の私自身が被写体となっている写真で、東側の窓に据えられていた学習机の前で撮られたスナップ。撮影者不明。1981年(昭和56年)前後の頃であるが、確かに、これをフォト・アルバムの中に収める気にはなれない。  故に貴重な写真であると思った。  写真はその当時の生活を詳らかにする効能があるが、ここでの写真では、学習机の上部の本棚に並べられたいくつかの書物がどうにかこうにか目視できるからだ。
 子供の頃、どんな本を愛読していたか。
 その答えの一部をこの写真が示している。机の上は物が散乱していて、とてもここで勉強をしていた、宿題を片付けていた、とは思えないのだが、忘却していた記憶が呼び戻されつつ、本棚に載っている本のタイトルがなんとなくわかってくる。
 忘れかけていた切…

「ミステリーファインダー」の正体

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年12月1日付「『ミステリーファインダー』の正体」より)。
 ブログのエッセイで触れている「月刊少年チャンピオン」のホビー通販の話題。
 ああいった商品を扱う販売元はいくつもあったと思うのですが、毎号、同じ広告を眺めていると、どれもこれもいちいち注目してしまい、小学生だったのでほとんどの商品が欲しくなるという物欲傾向がありました。
 あの広告から派生する、いろいろな思い出があります。実はあの広告の中の、「催眠術のカセットテープ」を今でも大切に保管しているのですが、それについては別の機会に紹介します。
 はっきり言ってすべての商品に対して突っ込みたくなるのですが、例えば「ミラクルミー(ふしぎなくるみ)」。ミラクルとクルミを掛けて「ミラクルミー」というのは紛れもなく駄洒落です。〈勉強がすぐいやになる人、中の磁気が指先より作用して頭脳に活力を与えます。作家、画家に愛用されている。1,480円〉。これは当時、姉がこっそりと買って使っていました。
 徹夜の勉強で隣の部屋からジャカジャカ掻き回している音が聞こえてくるので、「ミラクルミー」を使っているのがすぐにわかります。2つの「ミラクルミー」を片方の掌で掻き混ぜるのです。磁気の効果云々は抜きにしても、掌の血行が良くなりそうなのはなんとなく理解できます。
 物欲以前の問題として、私がいちばん興味を持ったのは、「ミステリーファインダー」。
〈これはふしぎ!大仏の首が小鳥、玉子等動物何んでもメスオスを当てる。650円〉
 写真を見ると、メッキのような光沢を放って仏像の顔がいやに恐ろしく微笑んでいるよう。“大仏”とあっても決して数メートル以上の全長ではないのは確かです。それにしても、これがどうやって動物の雌雄を当てるというのか。今以て謎でした。
 しかし、その謎がネット検索によって解けました。
 “ファインダー”とあるからなにか大仏の眼が透視するのかと思いきや、結局これは、ダウジングの「振り子」だったわけです。
 小さな磁気の入った大仏の首はペンダント程度の大きさで、やはりペンダントのように鎖で繋がれています。これを小鳥の前にもっていって静かに垂らす。次第に大仏の首が揺れてきて、円を描く。円を描けばメス、直線を描けばオス。
 生物は電気を帯びていて、オスはプラス…

「月刊少年チャンピオン」のホビー通販

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年11月25日付「『月刊少年チャンピオン』のホビー通販」より)。

 小学生の頃、愛読していた少年コミック雑誌というと「月刊少年チャンピオン」「週刊少年サンデー」「週刊少年ジャンプ」であった。(「少年マガジン」は自分の中で何故か除外していたことになる。読みたかったコミックが前者の3つにあって、たまたま後者にはなかったせいであろうが、それ以上の理由は特にない。)ちなみに、私が小学生の頃――は小学1年時が1979年(昭和54年)、小学6年時が1984年(昭和59年)の頃で、巷に電子玩具、電子ゲーム、パーソナル・コンピュータが溢れ出した時代である。
 少年コミック雑誌について言えば、それに対する個人的な好き嫌いの推移があった。低学年の頃は“どおくまん”や山上たつひこ氏のコミックが好きで「月刊少年チャンピオン」をよく買って読み、高学年になるとほぼ「週刊少年ジャンプ」一辺倒になり、『キャプテン翼』『キン肉マン』などを愛読した。ただし、中学生になるとぴたりとコミック雑誌を買わなくなった。私自身の一般的なコミックに対する愛情の温度は、中学生の頃に急激に低下したことになる。
 私の少年時代の初期に愛読していた「月刊少年チャンピオン」。その裏表紙に、ユニークなホビー通販広告が毎号掲載されていたのを今でも憶えている。これについては、エッセイ「『モリ』ちくのう錠の謎の女性」でも触れているが、ここにその一文を書き出しておく。
《小学生の時分、少年雑誌の裏表紙に掲載されていた、玩具通販の広告は好きだった。だから毎号よく目を通していた。覚えている商品を少し列記してみる。
●紫色をしたボール状のマグネットを掌で転がし、血行を良くする類の健康器具。 ●歯を白くする歯磨き粉「セッチマ」。 ●缶詰に入った「金のなる木」。 ●好きなイラストを拡大縮小自由に贋作できるアーム状の筆記用具。 ●小型スパイカメラ+現像器具一式。
等々…》
 厳密には、そのユニークなホビー通販の広告のみを鮮明に憶えていて、それがどのコミック雑誌であったかについては逆に無頓着であった。近年になってもう一度この広告を見てみたいと熱望するようになり、実際に入手すべき少年コミック雑誌はどれかを検討したところ、先述した少年コミック雑誌の愛読遍歴から推理して「月刊…

土曜喫茶室

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年11月22日付「土曜喫茶室」より)。
 ブログ8月17日付「私のラジオの思い出」の余話。
 先日入手した『FMレコパル』を見ていてふと思い出したのです。当時中学生だった我々が、どんな「ラジオ番組ごっこ」をしていたか。
 『FMレコパル』の番組表1986年2月2日日曜日、NHK-FMの欄。  12:15~14:00枠の「日曜喫茶室」。
 この日の出演者欄には、〈はかま満緒/岡崎満義/安藤優子、ゲスト:森下郁子(淡水生物研究所副所長)/関野吉晴(医師、探検家)〉とあり、テーマは〔秘境、アマゾンを診察する〕。曲目未定となっています。
 つまり、当時我々が真似をした番組が、この「日曜喫茶室」でした。
 マスター役、ウェイター役(「日曜喫茶室」ではウェイトレス)、常連役、そしてゲストをキャスティングし、気儘なトークを進行するというもの。我々の方は土曜の昼に放送していたので、「土曜喫茶室」というタイトル。
 喫茶店のイメージに相応しいジャズをバックで流し、オープニングの決め台詞を台本通りにしゃべってもらい、音楽を1曲挿入して、あとは自由なトーク。ただし、ウェイターが司会進行役を果たし、常連役の鋭いツッコミ、それに受け答えするゲスト、ボケて笑いを誘うのがマスター役と役割は決めてあったので、「日曜喫茶室」同様、完璧な演出でした(笑)。何度も言うように、全員中学生が演じていた、というのがミソです。
 中学生の話題というのは実に限られたもので、あるゲスト中学生を呼んだ時は、やはり話題が修学旅行の顛末になるわけです。
 そもそもこの我々ラジオ仲間は同級生なので、同じ宿部屋で修学旅行を経験しました。それがとんでもない修学旅行で、1日目、2日目、3日目と三夜続けて担任の逆鱗に触れ、怒鳴られるわ正座させられるわの始末。番組のトークではその顛末の根本的責任者は一体誰なのか――という核心に。
 俺は被害者だ…俺も被害者だ加害者ではない…などと口論になり、挙げ句の果てには、マスター役の彼が事件当日、寝言を放ちながら爆睡していた話を暴露され、とんでもないトークに発展していきます。
 とは言いつつ、仲の良いグループなので、最後はきっちり決め台詞を台本通りにしゃべって番組終了。無論、「日曜喫茶室」のような品のある知的な番組などでは…

伊藤整の「青春について」

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年11月18日付「伊藤整の『青春について』」より)。

 高校3年の国語の授業において、個人的に想起するものは、唐木順三の「疎外されることば」であり、柳田国男の「清光館哀史」の授業であることは他の稿で述べた。  その教科書を、最初から最後まですべて読み通すことはついになかった。授業としてもそうであった。年間学習行程などの都合があり、3分の1もしくはそれ以上が省かれ、1年が過ぎてしまった。そのことは当時、まったく無頓着で思うところは何もなかったが、今その教科書を懐かしく手に取る度に、工業高校故の無反動を決め込んだ怠惰を思わずにはいられない。
 いかなる理由があったか知るよしもないが、「評論」の章の題材になっていた伊藤整の「青春について」(『知恵の木の実』に拠る)は、おそらく授業というかたちになっていなかったかと思われる。ただし、個人的に何度か、当時この評論を読んだりはした。  その頃、自ら読書感想文の課題にした武者小路実篤の『友情』と比較して、伊藤整の「青春について」の内容は、後者が著しく短い評論でありながらも、桁違いに難解な主題であった。教科書の【学習の手引き】にある《この文章の論旨をたどって、「青春」と「所有」の関係について筆者はどう考えているか、確かめてみよう》の詰問からして難解で、著者自ら〈四十歳代の末がやって来ている私にとっても、それが完全に終わったと言うことはできない〉と述べている以上、18歳の私がそれを理解するには、よほどの経験と見識がなければならないではないか、と生真面目に憤慨したほどだ。
 日夏耿之介の詩の一節から、伊藤は「(青春の)所有」という言葉を引き出した。いま考えればこの詩が重要な意味をもっていると理解できるが、注釈によれば、日夏耿之介の『転身の頌』の中の「Une Jouissance」の一節とある。
《われ賛美す たしかなるみづからのもちものについて われは最初にもつとも不可思議なる青春なり (中略) われは独りなり われは青春く われは繊弱し されどわれは所有す 所有は五月の曲江のやうに照りかがやき はつ夏の日輪のやうに撫愛しむ》
 伊藤はこう述べている。 《青春が所有するもの、それは、全人生である。それは、いわば、地球を自分は所有していると考えるのと同様であり…

学校の広告

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年11月17日付「学校の広告」より)。

 古い雑誌などを必要に応じて収集している際、偶然ながら「千代田工科芸術専門学校」の広告に目が止まる。少なくともこうした広告で学校名を覚え、高校の進路指導の分厚い資料で改めて学校の情報を得る――というようなかたちを経て私はここを入学したことになる。  古い広告自体にも味わいがあるが、かつて専門学校系の広告は特に味わい深いものがあった。「インターネットの無かった時代」というのを必ず枕詞にしなければ、こうした広告の性質は、なかなか理解されないかもしれない。
 さて、もう一つの意味合いとしては、千代田工科芸術専門学校の情報をできるだけ手元に置いておきたい、というのがある。  いちばん基本的なことで言えば、この学校でどれだけの課程科目があったか、私はすっかり記憶の片隅すらも忘却していた。こういった失われた記憶の部分を、残存している情報源から断片的に取り戻すことで、自分が卒業した母校の全体像を留めておこうとする試みである。
「千代田テレビ電子学校」時代の広告
 あるカメラ雑誌にあった千代田の広告なのだが、学校名が「千代田テレビ電子学校」となっている。非常に古い雑誌なので学校名も旧名である。  学園の沿革を調べてみると、1964年にまず「千代田テレビ技術学校」として上野に1号館が完成する。そして1972年に「千代田テレビ電子学校」と改名。1980年には「千代田工科芸術専門学校」となるから、72年から80年の間の広告であることがわかる。その当時の専攻科目を抜粋してみる。
○放送芸術科  ・テレビ専攻  ・ラジオ専攻 ○演劇文芸科  ・演劇専攻  ・文芸専攻  ・ジャーナル専攻 ○映画芸術科  ・テレビ映画専攻  ・CM専攻  ・ドキュメンタリー専攻  ・アニメーション専攻  ・劇映画専攻
 ちなみに、広告の中の教授陣に記されてある、「作家=秋吉茂」氏は私が在籍していた当時(1991~93年)でも現役の講師で、私も秋吉先生のジャーナリズムの聴講を受けていた。
雑誌『FMレコパル』の中の広告
 たまたま入手した1986年の『FMレコパル』(No.3関東版)にも学校の広告があった。当然、学校名は「千代田工科芸術専門学校」となっていて、おそらく私はこの頃の広告を度々“拾い見”…

岸田劉生の『道路と土手と塀』

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年11月11日付「岸田劉生の『道路と土手と塀』」より)。
 私のブログのエッセイ「教科書のこと」では、高校時代の国語の教科書(筑摩書房)について触れています。
 この国語教科書の思い入れがあまりにも強いため、高校卒業の数年後、ある高校1年生の後輩に、
「中学校の国語の教科書をもっていたら譲って欲しい。できれば3年分」
 と頼み込んだら、何の躊躇もなく、3冊の国語教科書を譲り受けることができました。ところが…。
 やはり思い入れという点では母校の、自分が使い込んだ教科書以外、耽読することはありませんでした。当たり前の話ですが、その教科書を使ったその授業に、自分がどう対面したかの度合いによって、思い入れもさることながら勉学の痕跡を知る手がかりの深みは違います。他人の使った教科書には、その深みは到底感じ得ない。単に他人がそこにメモを残した「落書き」に過ぎないのです。
 私が大事に保管していたその国語教科書を開くとすぐ、ある絵画が目に飛び込んできます。
 岸田劉生の『道路と土手と塀』です。
 これから国語を学ぶというのに、この絵は一体どんな意味が込められているのか。
 それにしても…もし僕がこの絵の中に入り込んで、土面の坂のような道を上へ歩くとしたら、さぞかし船酔いならぬ徒歩酔いをするのではないか…。むしろ坂の上のその先は急激に下っているかもしれぬ。いや、崖かもしれぬ。へたをすると大怪我をするぞ。…それよりもっと気になるのは、手前に長く伸びた柱のような影だ。まるですべてが明らかのように見えるが、実は何も見えていないのではないか…。
 そんなふうに私は当時、この絵を見て思いました。
 教科書にあるその画の解説文を引用しておきます。
《道路と土手と塀 岸田劉生 1915年作
「地軸から上へ押し上げているような力が、人の足に踏まれ踏まれて堅くなった道の面に充ちているのを感じた。そこに生えてる草は土に根を張って、日の方へ伸びている。自分は、これこそ、自分の眼でみるものだ、セザンヌでもゴッホでもない、と感じた。」と、劉生は言う。「切り通しの写生」とも呼ばれるこの名作には、日常風景に深い精神的な美を発見した作者の感動が、単純な構図と克明な描写によって表現されている。
明治の先駆的ジャーナリスト、岸田吟香の四…

教科書のこと

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年11月11日付「教科書のこと」より)。

 筑摩書房の『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』という高校3年時の国語教科書が今でも書棚に残っている。表紙の抽象的なデザインの、その索漠とした印象と「秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編」という文字が妙に重々しい。昭和63年3月31日(文部省の)改訂検定済の表記がある。実際に私が高校3年時にこの教科書を使ったのは、1990年(平成2年)のことだ。
 私が当時この教科書を捨てずに残そうと思った明確な理由は、今となっては判然としない。が、おそらく、国語という教科に対する幾分かの興味以上に、やはりその教科書の装幀と中身の滋味ある文体に惹かれ、後々もそれを眺めていたい、中身に触れてみたいという欲求があったからではないだろうか。実際、その他の教科書はすべて処分してしまったが、ここにその一冊のみが、過去の歳月を経ても尚、現存しているのである。
目次からその内容を書き出してみる。
ことばと生活 小説(一) 古典(一)―古代の歌― 表現(一)―文章を書く― 随想 現代詩 漢文(一)―古代の詩文― 古典(二)―『枕草子』と『源氏物語』― 小説(二) 評論 短歌 古典(三)―芭蕉と西鶴― 漢文(二)―先哲のことば― 表現(二)―表現を磨く―
ことばと文化
1.三春駒
 筑摩書房のこの教科書を、まったくの情趣抜きで語ることはできない、と私は考える。
 第1章の「ことばと生活」の冒頭頁に、福島県産“三春駒”の写真が添えられていた。  例に挙げれば第4章の「表現(一)―文章を書く―」の冒頭頁には、本郷菊坂の路地の写真がある。この章中の「塵の中」の著者は樋口一葉であり、自ずとその写真との関連性が浮かび上がる。他の章も同様である。  しかしながら第1章における“三春駒”は非常にわかりづらい。  第1章は唐木順三著「疎外されることば」と長田弘著の「ことばとつきあって」であり、その内容と直接関係ないように思われる。長田氏は福島県出身で、彼の文章の中に、《どうもわたしの成長した東北の地方都市の周辺は、日本語のなかでのいわば無アクセント地帯ともいうべきところに位置するらしくて――》とあり、福島という点では関連性があるが、“三春駒”には行き着かない。  高校生であった当時の私の謎めく想念は、ここまで…

さらに図書室の話

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年10月12日付「さらに図書室の話」より)。

前回は小学校当時の図書室の話を書きました。
 そこで『学習百科大事典アカデミア』の第10巻[国語](コーキ出版)で調べてみると、「図書館」というトピックスがあり、例の本のカテゴリーについて書いてありました。
 この本のカテゴリーのことを「日本十進分類法」(NDC)といい、すべての本を0から9の[類]に分け、番号を付けます。この各類をさらに[綱]として細分化し、10ずつに分けます。さらにこの綱を細分化し、10ずつに分けて、[目]とします。昭和3年に森清という人が「和洋図書共用十進分類法案」として発表したものを定期的に改訂し続けて採用しているようです。
 ではせっかくなので、[類]のみを書き記してみます。ちなみにこれは昭和50年発行の『学習百科大事典アカデミア』に寄るものです。
■日本十進分類法[類] 0類 総記(事典・年かん・図書館・読書についての本) 1類 哲学・宗教(道徳・人間の生き方・考え方・神仏の教えなど) 2類 歴史・地理(日本や外国の歴史・地理・伝記など) 3類 社会科学(教育・国のしくみ・法律のこと・銀行のことなど) 4類 自然科学(数学・自然のこと・医学・天文など) 5類 工学・技術(機械工業・造船・家事など) 6類 産業(農林水産業・交通・通信) 7類 芸術(絵画・彫刻・写真・音楽・劇・スポーツなど) 8類 語学(国語・外国語・文法・文字・作文など) 9類 文学(日本や外国の童話・小説・詩など)
 私の小学校では、この分類をもとにシール(本の背に貼る小さなラベル)に分類番号、著者記号、巻冊記号の数字の判を押し、書棚に整理していました。シールはカラーシールになっていて、[類]の0~9を色分けし、赤は9類の文学、黄色は×類の○×とわかるようになっていたのです。
 もちろん、図書室には「目録カード」もありました。正式には書名目録、著者名目録、件名目録などあるようですが、どのように目録がなされていたかは覚えていません。確かに目録カードの棚は置いてあったのだけれども、小学生の児童が利用する図書室という性質上、この目録カードを覗きにくる児童は、ほとんどいなかったのではないでしょうか。
 我が小学校では、ポプラ社の江戸川乱歩「少年探偵」シリーズの人…

江戸川乱歩と図書室の話

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年10月5日付「江戸川乱歩と図書室の話」より)。

 一昨日、CS放送で『江戸川乱歩「吸血鬼」より 氷柱の美女』を鑑賞しました。
 これはかつてテレビ朝日系列の「土曜ワイド劇場」でシリーズ化されていた、江戸川乱歩の名探偵・明智小五郎が登場する“美女シリーズ”の第一作目で、1977年8月20日放送の90分ドラマです。
 1977年というと昭和52年ということで、私自身は当時まだ5歳です。その頃、このドラマを観たかどうかは記憶にありませんが、この美女シリーズは何度も再放送されているので、小学生で観たのは確実で、私が初めて江戸川乱歩という人を知ったのは、おそらくこのシリーズがきっかけだったかと思われます。
 『氷柱の美女』の内容については、ブログ[レトロな雑記帳]さんの批評が面白いので、そちらにお譲りします。
 私の小学校の母校では、当時(昭和50年代)、図書室の書棚の一角に、ずらりと並んだポプラ社の江戸川乱歩「少年探偵」シリーズが大人気でした。
 もちろん私もこのシリーズの大ファンで、ほぼすべての巻を読み漁りましたが、本の終わりに差し入れている管理用の図書カードには、借りた児童の名前がびっしり書かれていて、大人気のために書棚がガラガラの時が年中あって、おそらくかなり早いペースで図書カードを刷新しなければならなかったと思います。
 ちなみに、私の同級生だった女の子=Yさんの名前が、このシリーズ全巻の図書カードに記されてあって、彼女もまた江戸川乱歩ファンだった文学少女です(中学校で同じ演劇部員となる)。
 話は少し変わりますが、私はこの小学校の図書室の雰囲気や管理システムが大好きでした。
 図書室の管理すなわち本の貸し出しと回収の受付係は児童がやります。小学生の高学年になると、委員会制度があって、図書委員会のメンバーが交代で休み時間に受付係を任されます。
 本を借りる人は、借りたい本に差し込まれている図書カードに学年とクラス、名前を記入し、それを受付に提出します。図書係は必ず提出されたすべての図書カードを学年及びクラス毎に整理(整理箱に分類)しておき、借りた児童が本を持って返す時、自分のカードを整理箱から取って、本と一緒に受付係に渡します。図書係は図書カードの借りた児童の名前の欄に受領判を押し、カード…

学生必携

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年9月23日付「学生必携」より)。

〈1〉学校の追憶
 卒業生である私にとっては不慮の事象であるとしか言い様のなかった、学園の倒産劇からだいぶ月日が流れた。  私は千代田工科芸術専門学校の音響芸術科を1993年に卒業している。  上野の下谷にあったその学校へは、上野駅の入谷口改札から、あの長い通路を通り抜けて、鶯谷方面へ、いくつかのモーターサイクルショップが集合した道に沿って歩いていく。やがて交差点に辿り着けば、交差点の向こうに小さな喫茶店が見える。その先の細い道を1分ほど歩いた所に、学校の通用口があった。主に学生はこの通用口を利用した。
 その学校で2年間勉強したノートやテクスト、参考資料のたぐいは私の大事な宝物となっている。それはその中身の充実性とは関係のない部分においても、内面の問題として重要であった。学校がその数年後に消えて無くなることは考えもしなかったが、今となっては、その2年間の学習の痕跡こそが、私にとって学校の《母体》そのものとなっているからだ。
 卒業して学校が消えるまでの数年間、上野駅へ近づく電車の窓から、建物の壁に模された巨大な時計が目印となって、その度に学生時代を追憶した。無論、校舎の窓から生徒が顔を出していたし、それが本当の意味での追憶となることなど知るよしもなかった。  あれは、卒業後7、8年が経過した頃。強い郷愁の念に駆られてわざわざ下谷に赴き、学校の食堂へ入ってみることを思いついた。さらにその「3階にある食堂脇の購買部でペラを買おう」とも企てた。ペラとは、200字詰めの原稿用紙(半ペラ)のことだ。  ところが行ってみると、その校舎はなかった。工事によって取り壊され、建物の廃棄物で埋め尽くされていた。別館の建物はまだその時残存していて、私は手持ちのカメラで写真を撮ることができた。いずれにしても生徒らの姿はどこにもなかった――。
〈2〉学生必携の発見
 学校法人・千代田学園の一連の倒産劇について、私はあまり関心を抱かなかった。1990年代後期以降の少子化あるいは経営に問題があったかなどによって、1,000人を下回る劇的なほどの生徒数減少。それによって巨額の負債を抱え、不正な経理の問題も発覚した。負債総額8億7900万円。2002年に民事再生手続きを申請、2004年に…

世界ジャンボ旅行ゲーム

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年9月14日付「世界ジャンボ旅行ゲーム」より)。

 小学生の頃、私はたいへんな“ボードゲーム狂”でした。放課後ともなると、たびたび友人達を自宅に招き、ジュースやお菓子を頬張りながらボードゲームをハシゴしました。  ボードゲームはおそらくその頃、十数個持っていたと思いますが、そのうちの一つ、「世界ジャンボ旅行ゲーム」は特に面白かった印象の強いゲームの部類に入ります。
 内容及びルールはこんな感じです。 ●4人まで参加できます。同額の旅行費が各プレイヤーに配られます。 ●それぞれプレイヤーは、カタログの中から好きな“旅行テーマ”を選び、盤上にチェックポイントを設置します。どの旅行テーマもチェックポイントの数は同じです。 ●スタートは全員“東京”発で、選んだテーマのチェックポイント地点をすべて旅行し、一番早く東京に戻ってきたプレイヤーが勝ちです。 ●世界旅行の基本的な乗り物はジャンボ機ですが、4つのエリア(北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジア)の主要空港からは、それぞれ小型飛行機、鉄道、ジープ、船舶に乗り継ぎ、チェックポイントを回ることができます。 ●盤上の地球マップは時刻儀となっており、ルーレットの指示によって時刻が動きます。 ●世界旅行をするには、ジャンボ機の発着時刻表をもとに、航空チケットを購入しなければなりません。現在地点の時刻を把握し、次の発便時刻を確認し、チケットを購入します。その時刻になった時点でジャンボ機は離陸します。深夜の離陸はありません。朝になるまで動けません(宿泊)。尚、乗り遅れた際のチケットの払い戻しはありません。 ●中途、手持ちの旅行費がなくなった場合、アルバイトをすることができます。1時間経過することに2,000ドルずつ支給されます。その間、別の空港に移動すなわち旅行することはできません。
 …といった感じで、簡単に言えば「日本特急旅行ゲーム」の世界版なのです。旅行テーマもバラエティに富んでいて、今で言う世界遺産巡りとか、ショッピングを楽しむとか、アドベンチャーを体験するとか、そういうテーマだったと思います。
 バラバラに散らばったチェックポイントを誰よりも最速に回るためには、それなりのテクニックが必要になります。ジャンボ機は時刻によって発着が制御されるので、互いのプ…

ある市民運動会の写真より

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年9月9日付「ある市民運動会の写真より」より)。

 ついこの前の日曜日、友人が鬼怒川の龍王峡に行きたいというので、東武鉄道で龍王峡に行ってきました。
 関東の北、それも山と谷の中の鬼怒川は比較的涼しいだろうと思っていたら、とんでもなく蒸し暑い、関東一円どこも暑さは変わらず、といった具合でした(この日は30度を超えた真夏日)。唯一、龍王峡にある「虹見の滝」の真正面はひんやりとしていた…のですが、上り下りのハイキングコースのごくごく一部を歩いただけで汗が噴き出し、鬼怒川で納涼というわけにはいきませんでした。
 帰りに鬼怒川公園駅近くの温泉に立ち寄り、これまた汗の噴き出す熱い湯に浸かって、“気分的な”涼を楽しみました。
 さてその日はカメラを持っていきませんでした。個人的には珍しいことなのだけれども、最近はケータイカメラで用を足してしまうことが多くなりました。ブログ用の画像なら、ケータイのカメラで十分…といった気持ちがあるせいか、あの猛暑の中をカメラ片手に歩き回るのは、かなりしんどいし、友人も同伴しているのでその点で省いたわけです。
 自宅にある古い写真アルバム――大凡、父がOlympus TRIP35で撮影した――はどっしりと大きなアルバム帳で、それが数個分あります。ほとんどが家族を写したスナップです。
 数年前それらを整理した結果、そのうちのごく一部の写真のネガフィルムがあることがわかりました。そうしてそれをデジタルスキャンして保存してあるのですが、デジタル処理を施すと、オリジナルのネガフィルムの特性を超えて美しくなる場合があります。従ってそれは、劣化していない当時のネガの状態からプリントした最良の画質という意味ではありません。しかしそれでも敢えてデジタル処理すれば美しくなる。
 もう30年以上前のネガフィルムにあった、市民運動会のスナップ。全体が青みがかっていたのを修復して純正な白色を引き出しました。すると30年以上前とは思えない写真に。
 まるで最近撮影したかのような写真に見えても、やはり写り込んでいるあらゆる被写体の、その時代を表した造形は、決して2010年の今の、日本のとある町の様子ではない。表されるのは造形のみならず、人々の活気、表情の時代性のようなもの、流行や嗜好に基づいた服装・髪型…

上野大仏の話

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年9月1日付「上野大仏の話」より)。
 昨日は国立科学博物館を参観した後、久しぶりに上野恩賜公園を散策しました。真夏の日差しが照りつける中を。
 ――学生時代、上野の公園は私にとって恰好の暇つぶしの場でした。
 午前の授業が終わり、昼休みを挟んで午後の授業は「14時から」などとなっている曜日は、紫煙を燻らせた校内の食堂で時間を潰すのも退屈するので、とぼとぼと駅の入谷口から改札を通って公園口に抜けるか、あるいはゆるりと浅草口のあたりを素通りして交差点を渡り、聚楽レストラン近くの石段から公園へ向かうルートで上がっていき、園内を1周して森林浴を楽しみ、余った時間は丸井の書店でさらに時間を潰す…などということをしていました。
 そんな時間を持て余していた時であっても、「上野大仏」へはまったく立ち寄らなかった――。
 学生時代、そんなものがあることを、なんとなく“噂”では聞いていた程度でした。…あまりにも不運としか言いようがない幾度の罹災により大仏は顔面のレリーフのみとなり安置されている…パゴダ様式の祈願塔がある…といったどこからかの“噂”が、いつの間にか私の頭の中でいい加減に組み合わさり、“パゴダの像…パゴダの像”とまったく見当違いな言葉が刻み込まれて、ずっとそれが記憶の中にありました。
 「上野大仏」は上野精養軒の程近いところにあります。  個人的な好みですが、私は奈良の大仏のように整然とした顔立ちよりも、この上野の大仏(釈迦如来)の顔立ちの方が東洋然としていて好きです。おそらく大仏が全身で安置されていれば上野恩賜公園の名所となっていたと思うのですが、レリーフと祈願塔のみのせいか訪れる人も少なく、ここはいつもひっそりとしています。私が昨日訪れた際は、二人の外人観光客がカメラを片手にやってきていました。
 それでも尚、私の頭の中では、それは“パゴダの像”なのです。

国立科学博物館『大哺乳類展―海のなかまたち』

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年8月31日付「国立科学博物館『大哺乳類展―海のなかまたち』」より)。
 大人にとっては何の関係もない8月31日=夏休みの最終日、東京・上野の国立科学博物館での特別展『大哺乳類展―海のなかまたち』を訪れました。子供連れの家族をはじめ、大人も子供もなかなか大勢いて大盛況の様子でした。今日訪れていた子供達は、学校の宿題もすべてはかばかしく終えて、あとは絵日記の最終日をこの科博で見たクジラの絵で埋め尽くせば完璧、といった余裕派なのでしょう。ともかく今回の特別展は、夏休み中の子供らが満足するぴったりの展示であったと思います。
 今回の見物は、なんといっても巨大なシロナガスクジラの骨格(複製)。全長25メートルということで、やはり迫力が違います。こういう巨大な哺乳類が海を漂っていると考えると、海の多様性は想像以上であるということがわかります。クジラの種や生態についてもまだまだ謎の部分が多いようです。
 それにしても科博は広い。個別の特別展のほか、常設展は地球館と日本館とに分けられ、それこそすべてを見歩けばヘトヘトになるほど展示がたくさんあります。科博の大ファンである私は、子供の頃からここに通っているわけですが、展示の質と量が年々進化しているといった感じで、科博の成長にも愛おしさを覚えます。
 以下、私の旧サイト[Photos Symphony]から短いエッセイを再録します。
〈そこは光と影を調和した宇宙的空間である。本館の改修工事を横目に通り過ぎ、旧みどり館の入り口から抜け、新館へと入っていく。地下3階、地上3階の膨大な資料を展示した科学博物館は、すっかり生まれ変わっていた。光と影のアートの世界。それ全体が大きな作品になっているかのように。自分の興味ある展示へ、順路という規律を極力排除し、自由に空間内を移動して観覧できる。まったく好奇心をかき立てられ、知の欲求も満たしてくれるものだ〉 (2005.9.3)
〈サイエンスか? アートか? 博物館学の進化の過程を、我々は見ていることになる。小学生の頃、本館の入り口で巨大な恐竜の復元骨格を見上げてから、20年以上が経った。私はまだ、というよりこれからも、東京・上野に足を運び、この科学博物館を訪れるだろう。ここではすべての《モノ》がアートである。光に照らされて浮…

パーソナル無線の話

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年8月26日付「パーソナル無線の話」より)。

 8月17日付のブログ「私のラジオの思い出」で書いた通り、中学生時代は“ミニFM放送”で遊んでいました。
 実はこの時の仲間は、以前ブログで綴った「琥珀色の少年」の“少年”でもあります。専門学校在籍当時にばったり再会した、という話ですが、おそらく今、30代半ばを過ぎた彼にすれ違ったとしても、私は気づくことができないと思います。もはやあの時にその面影の半分が失われていたのだから。
 しかし面影などどうでもよく、本質的には、その内面の《少年性》がどれほど失われたか、が肝だと思います。言い換えれば、大人になっても、その人の《少年性》がいかに保たれ、瑞々しいままであるか。
 “ミニFM放送”でごっこをして遊んだ彼との思い出はまだまだ潰えません。
 性格的に、私も彼も、同じくらい何かに熱中するタイプで、ある時、こうしたことを思いついたのです。夜な夜な、いやそれ以外の好きな時間に、お互いが連絡を取り合う手段は電話以外ないのか…いやある…パーソナル無線を買って通信し合おう。
 1982年に登場した「パーソナル無線」というホビーは、アマチュア無線のような筆記試験がない、画期的で新しい無線機の規格でした。よし、お互いこれをなんとか買って(親を説得して買ってもらって!)、夜な夜な、いやそれ以外の好きな時間に(!)、秘密裡の通信をしよう…と(※実際は無線なので秘密裡の通信はできない)。
 そこでどこからか――おそらく秋葉原の電機店だと思うのですが――パーソナル無線のパンフレットを数メーカー分入手してきて、二人でどれがよいか検討を始めました。そうして最終的に選んだのは、三菱の「ウィスパーノット」というハンディ無線機でした。
 ハンディ機で空中線電力(送信出力)が5Wとは、当時の最高電力でした。デザインも垢抜けていて「ウィスパーノット」は他のどのハンディ機よりも素晴らしいと思えたのです。
 それからしばらくして、なんとか私は「ウィスパーノット」を親に頼み込んで買ってもらい、無線機の所定の申請をしたのですが、一向に彼は無線機を買う気配がありません。
 え!? という私の内なる動揺。
 とうとう彼は無線機を手にしませんでした。…熱しやすく冷めやすい性格。というか高校受験を控えて…

STAGE COACH

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年8月18日付「STAGE COACH」より)。

 『RED DEAD REDEMPTION』というゲームのブログ([R.D.R. Telegram])を新しく開設したのをきっかけに、その西部劇の雰囲気を確かめるべく、ジョン・フォード監督の映画“STAGE COACH”『駅馬車』を鑑賞しました。
 サイト「Red Dead Redemption攻略 Wiki」“Rockstarオススメ西部劇”によると、ジョン・フォード監督の映画は『捜索者』(原題『The Searchers』)が推薦されていますが、『駅馬車』も捨てたものではなく、シナリオも映像も活き活きとしていてまったく古さを感じさせません。
 私はこの映画を、小学生の低学年の頃に“聴いた”のです。
 実はその頃、一番上の姉が南雲堂という会社の英会話のカセット教材を買い、その中に「映画&英会話 サントラカセット+英和対訳シナリオ」という教材が含まれていて、その中身の音源となっていたのが日本ヘラルド映画提供の『駅馬車』でした。私はこっそり姉の部屋からこの教材だけを持ちだし、ずっと自分のものにしていました。
 英語と日本語の両方が書かれたシナリオを読みながら、カセットテープを再生すると、映画の中の登場人物による会話によって、口語の英語が理解できる――といった主旨なのですが、小学生だった私はあまり無頓着でした。ともかく、このテープを何度も聴いているうち、“STAGE COACH”の冒頭の数十分がインプットされ、映像を自ら想像しながら楽しんだものです。
 酔いどれブーン医師のセリフ、
《"Is this the face that wrecked a thousand ships-And burned the towerless tops of Ilium?" Farewell, fair Helen》 《Don't tell me, sir, I know, I know, a familiar name, and an honored name! I never forget a face or a friend. Samples? Hm....Ah! Rye!》
 などはもうセリフがサウンドとして頭にこびりついて…

私のラジオの思い出

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年8月17日付「私のラジオの思い出」より)。
 中学生時代、仲間達を募って“ミニFM放送”というちっぽけな電波を飛ばして、「ラジオ番組ごっこ」をして遊んでいました。
 『サウンドレコパル』という月刊誌に、夏場の海水浴場ではミニFM放送局というのがあって、夏季限定で開局してラジオ番組=DJを放送していて、海岸に行けばそれを聴くことができる云々の記事が載っていました。仲間内でそれをやってみようと思い立ち、自宅のラジカセにFM用のトランスミッター(送信機)を据え付け、外部端子にはマイクロフォンも装着し、DJをやりながらカセットテープの音楽を流すという「ラジオ番組ごっこ」です。
 電波といっても微弱な電波のため、実際に半径100メートル程度しか飛びません。しかしそれでもラジオはラジオです。
 これがはまりにはまって、いろいろな番組名や番組企画を考えては、中学生時代のおよそ2年半くらい継続して、毎週土曜の午後に確実に「放送をしていた」のです(受験勉強もろくにせず)。仲間のレギュラー陣の他、普段遊んだりしないクラスメイトもゲストとして飛び入り参加させては、強引におしゃべりをしてもらって、日頃の生活の話題や学校での珍事件などをネタにしてトークを楽しみました。これらの放送を別のラジカセでエアチェックしたりして、けっこう番組ライブラリーのカセットテープが貯まったものです。
 今日の午後、先週の大掃除を済ませた後のレコーディング部屋に、37度近い室温で汗を大量に掻きながら、新しいデスクを組み立てて、とりあえずそこにアナログミキサー、Mackieの「1604-VLZ3」仮置きしました。これにより、分断されていたエフェクター類は1箇所にまとめることができました。
 7年近く使用していたRolandのVS-1824CDをいよいよサブ卓とし、メインをこの1604-VLZ3に切り替える理由の中には、アナログかデジタルかといったような次元の話を飛び越えて、卓のモジュールには物理的なトリムやEQやAUXがやっぱり欲しいという回帰論が結論としてありました。無論、良質な卓でなければならないけれども。
 Pro Toolsのような箱庭的な一つの考え方があり、もう一方でやはりベーシックな、ある意味クラシックなやり方を残していきたいとい…

資生堂ギャラリーのこと

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年8月10日付「資生堂ギャラリーのこと」より)。

 地下鉄から銀座4丁目の交差点のところで上がり、新橋方面へ中央通りを歩いていき、狭い花椿通りを渡った角に、赤煉瓦色をしたビルがあります。資生堂ビルです。
 その資生堂ビルを、一旦大通りから離れ、まるで通用口から入るようにして花椿通りに折れた箇所から地下へ潜っていくのが、資生堂ギャラリーの入り方です。尤も、正面入口からでも地下への階段へは通れますが…。
 岩波書店のPR誌『図書』7月号では、和田博文(文化学・日本近代文学)氏の「幻影の福原信三――第一次世界大戦直前のパリ」というエッセイがあります。『資生堂という文化装置 1872-1945』(岩波書店)を2011年刊行予定で書き下ろし中とのこと。個人的に夏目漱石関連でトーマス・カーライル全集の『フランス大革命』をいま、部屋に積み上げたまま読んでおらず、いずれフランス革命やらパリやらを調べる縁で、遠回りすれば和田氏の本にぶち当たると思うので、パリ留学時代の福原信三という人についても、いずれ関わるであろうことは自明です。
 誰しもが通過する学生時代の中で、いわゆる義務教育における詰め込み型の勉強を七転八倒してこなした過日、いよいよ自分の好きな課程を勉強していくその学生期後半の短い時代というのは、心身共に充実して至上の喜びを感じる時でしょう。
 他愛のないことなのですが、工業高校や専門学校を卒業した私にとって、卒業後にそれらの専門知識を共有できる友人と突っ込んだ話ができる瞬間はなんとも言えない格別なものでした。また逆にそういう友人が少しずつ離れていくことほど、遣る瀬無い思いはありません。
 和田氏のそのエッセイの最後に資生堂ギャラリーについて記されてありました。
《…1919年に福原は銀座の化粧品部三階に陳列場を開設して、パリ帰りの川島理一郎の個展をその幕開けとした。これは後の資生堂ギャラリーに成長し、1920-30年代の日本の美術界に大きく寄与することになる》

That's What Friends Are For

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年8月7日付「That's What Friends Are For」より)。
 私の旧サイト[Photos Symphony]の“Profile”にあるエッセイ「That's What Friends Are For」(2005年10月1日付)を以下に再録します。
 あのエッセイは、不定期で書き替えるつもりだったのだけれども、[Photos Symphony]は2005年の秋を最後に書き込みを停止してしまっています。従って、“Profile”はずっとあの曲についてのエッセイのままです。そのせいで妙に印象強くなり、書き替えずあのままで良かったとさえ思うようになりました。
 そして文中にある〈確か15年くらい前の高校生の時〉も、2005年から5年が経過したのですから、今では〈20年前〉ということになります。
《Burt Bacharach & Carole Bayer Sagerの名曲「That's What Friends Are For」に夢中。
 ディオンヌ・ワーウィック、エルトン・ジョン、グラディス・ナイト、スティービー・ワンダー達がバカラックの弾くピアノの前で熱唱する映像を、確か15年くらい前の高校生の時に見たのだった。  高校生だった私にとって、心に染みる“いい曲”だったけれど、邦題の「愛のハーモニー」という表象のイメージに引き摺られて、そういう心持ちでずっと完結してしまっていたのだ。  そして今、本当に大切な友人と紆余曲折あって、もう一つ心の通い合いがステップアップしたとき、そしてそれが訣別ではなく、より深い親愛に昇華したとき、ふと忘れかけていた「That's What Friends Are For」の曲を思い出した。  バカラックはあの曲で、傷つけあった後の辛く切ない感情を吹き飛ばしてみせ、
“微笑みを絶やさず” “輝き続けて” “友達はその為にいるのだから”
 と口ずさんだ。安直にBGMとして扱われがちな曲であるけれども、その深みや凄まじいほどの情感を乗せたメロディと言葉は、バカラック・ナンバーの最右翼にあるとさえ思う》

暗がりのあかり チェコ写真の現在展

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年8月6日付「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」より)。

 昨日、銀座の資生堂ギャラリーにて開催されていた写真展『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』を観ました。8日日曜日まで開催とのことで、何とかぎりぎり間に合ったという感じです。
 “チェコ”と聞くと私はチェコのカラフルな文房具を思い浮かべるのですが、以前どこかのデパートで、ミニノートか何かの文房具でチェコのブランド品を見たような気がします。それ以来私は、それらの極彩色的感覚を“チェコカラー”と勝手に命名したりしました。
 それよりもっと前には、自室の引き出しの中の、ダ・カーポやナット・キング・コールなどのCDアルバムが積まれた一番底に、『学生との対話 三島由紀夫』(2枚組・新潮社)というCDが入っていて、三島由紀夫が1968年10月3日、早稲田大学で「国家革新の原理」という題で講演を行った際の録音ですが、この講演の中で三島が“チェコ”を口にしています。
 『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』では、10人の写真家の代表作が並んでいました。  インドジヒ・シュトライト、アントニーン・クラトフヴィール、イヴァン・ピンカヴァ、トノ・スタノ、ミハル・マツクー、ヴァーツラフ・イラセック、ウラジミール・ビルグス、ルド・プレコップ、テレザ・ヴルチュコヴァー、ディタ・ペペ。
 実は私は、トノ・スタノ(Tono Stano)の“Sense”が間近で見たかったのです。
 14年前、私がまもなく20代半ばに差し掛かる頃、書店で見つけた『THE BODY 写真における身体表現』(ウィリアム・A・ユーイング著・美術出版社)という分厚い本を、羞恥心をかなぐり捨てて買って読み、その中に美しいゼラチン・シルヴァー・プリントを見つけました。それが“Sense”でした。
 美しい表情の女性の顔から胸、そして腰から脚にかけての裸身の細く柔らかなラインが白、それ以外の領域がすべて黒という単純な構図で、あまりにも単純なため、ヌードというよりも何かのPictogramにも見えるモノクロームの写真ですが、よく見ると女性は黒地のコートを着ていることがわかります。その本の中では、写真の題が「感覚」と訳されていました。
 10人の写真家の代表作は、inspirationをimprovis…

旧會陽医院の喫茶店

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年8月3日付「旧會陽医院の喫茶店」より)。
 旅行に出かけると、その土地の風土からくる様々な生活習慣、あるいはルールというものに触れることがあります。visitorはそれに対する戸惑いを最初に感じ、そのうち自然と順応していく中で、その土地に馴染む、好むという感覚に行き着くわけですが、旅行の面白さは、まったく初めての土地にぽんと身を置かれた時、言わば五感がすべて活発に働き出し、物理的対処に精を出す快感というのがあるのではないかと思います。
 会津旅行の初日に猪苗代駅に降り立った瞬間、もう既に〈またこの地を訪れたい〉という欲求が芽生えたのは、非常に珍しいことでした。つまり「もう一度ここに来たい」と感想を抱くのは当然、旅の末尾であるはずなのに、今回の私の場合、末尾ではなく冒頭のかなり早い段階でそう直感したのは、よほど「身体が会津を気に入った」のだということになるわけです。
 旅行の2日目に「會津壹番館」という喫茶店に入りました。
 ここは野口英世が左手の火傷の手術を受け、後に書生となった旧會陽医院で、造りは当時のままということです。
 中へ入るとさらに古めかしく、木造家屋には格調の高い芸術的な装飾の施された照明が吊され、優雅な時代を感じさせるアンティーク、テーブル、チェアーが並び、またカウンターも豪奢な木目調の細工で眼を見張るものでした。私はこの部屋の奥に座り、室内の古びた雰囲気を楽しみながら、チョコレートのレアチーズケーキとアイスコーヒー、アイスクリームのセットをいただきました。喫茶店としてもいつ頃開店したものなのでしょうか。
 児童伝記シリーズ『野口英世』(宮脇紀雄著・偕成社)の中の数行を引用してみます。
《こうして、校長先生はじめ、先生たちと、どうきゅうせいみんなとで、おかねをだしあって、清作の手を、しゅじゅつさせようということになりました。  いいあんばいに、すこしはなれた若松市に、ちかごろアメリカからかえってきた、ひょうばんのいいおいしゃさんがありました。渡部先生といって、会陽医院という、びょういんをひらいていました》
 ちなみに、渡部先生とは、衆議院議員や軍医にもなった渡部鼎のことです。

志を得ざれば再び此地を踏まず

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年8月2日付「志を得ざれば再び此地を踏まず」より)。

Wikipedia“野口英世”が面白く、私が耽読した児童伝記シリーズの『野口英世』(宮脇紀雄著)とはまったく違った“野口英世像”が記されており、それらをひっくるめてもやはり“偉人”であるということがわかります。
 さて私は先週の27日に磐越西線の猪苗代駅を降り、晴天に恵まれて1日目の会津旅行を楽しみました。磐越西線の駅々はほとんど無人駅なのですが、それでも猪苗代駅はまだ大きい方で、無人駅ではありません。駅舎はやはり長閑で国鉄時代の駅の名残があります。
 炎天下で日差しは強いのですが、冷たい風がどこからか吹いて、言わば「昔懐かしい感じ」の夏の暑さを覚えました。猪苗代駅から「野口英世記念館」まではバスで10分程度の所にあります。ところが私は敢えて…敢えて、徒歩で記念館まで向かうことにしたのです。
 この炎天下で無謀だとは思ったのですが、この冷風が吹く限り大丈夫なのではないかという思惑もあり、またせっかく猪苗代に来たのだから、その空気を吸いながらこの地を見て歩きたいと、徒歩を断行しました。
 さすがに歩いた歩いた。
 猪苗代駅を迂回して南下し、まず国道49号線に出るまでの長い直線距離。しかし歩く肩越しに見える磐梯山が実に鮮やかで自分を激励しているかに思え、何とか頑張って歩き続けました。
 記念館まで1時間は歩いたでしょうか。腹が減ったので食堂で山菜の入った蕎麦をいただき、しばし休憩。冷房などなく、外からびゅうびゅう風が吹いてきて懐かしい涼を感じました。
 目的地の野口英世記念館。
 野口英世が生まれた家を間近で見た瞬間、ああ、あの頃の夢がようやく叶ったと思いました。
 そう、小学2年の、あの親友が読み聞かせをしてくれて、野口英世の偉人伝に感動した時。いつか会津を訪れて、その野口英世の故郷を見てみたいと。その家を訪れたいと――。
 野口英世が左手に火傷を負った、囲炉裏。
 言うなれば、彼の人生の原点、原初がこの囲炉裏であったのです。この囲炉裏から、野口英世という人生が始まった。凄まじい執念で出世をし、野口清作という人間の上書きをしたわけです。
 床柱に刻んだ決意文なるもの、 《志を得ざれば再び此地を踏まず》。
 確かあの時、私の親友もこの言葉を口にし…

スタジオにて

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年8月2日付「スタジオにて」より)。

1992年記「スタジオにて」
 2月下旬から3月にかけて、ラジオドラマの仕事で、レコーディングスタジオに入り浸る日が続いた。仕事の締切は刻々と近づいている情況であった。  その日に限って珍しくメンバーの過半数が揃って、午後4時にスタジオ入りする予定であったが、別のグループが午前中から使用しており、まだスタジオは空になっていなかった。そのグループの仕事も難航していたようで、結局私たちのグループが入室できたのは、予定時間を1時間超えた午後5時であった。  中のコントロールルームは彼らの熱気でひどかった。しかも天井に霧が発生していて、その湿度の高さは尋常ではなかった。私たちは急いで仕事の準備に取りかかり、録音のセッティングを施した。ナレーションブースにノイマンのU-87iのマイクを立て、コントロールルームのミキサーの調節を済ませた。私たちのグループに与えられたスタジオ使用の制限時間は、僅か5時間で、そのために作業は簡潔に進行させなければならなかった。
 プロデューサー兼ナレーターの大島さんは、ミキシング・ルームにこもって、マイクテストを始めた。 「早く録っちゃいましょうね」  大島さんはミキシング担当の私を急かした。本来、ミキサーとマスターレコーダーの操作は別の担当になるのだが、この日は何故か、その両方を私が担当していた。それがかえって彼女の神経を苛立たせていたようである。  こちらの準備も整い、私は彼女にリハーサルのキューを出した。彼女は必死になってセリフを読んでいる。健気であった。 「どう? これで」 「うーん…。もうちょっと続けて」  彼女は何の異変も知らずに、セリフを読み続けている。一方こちらでは、先ほどからマイクの調子がおかしいのに気づいていた。どうもトリムの入力レベルが不安定なのである。私は、ディレクターの斉藤さんにマイクケーブルの交換を頼んだ。 「何よー。どうしたのよー」  ヒステリックになった大島さんが、ミキシングルームから出てきた。私はその時、事態はだんだんと深刻化し、深みにはまっていくような気がした。
 そのうち、斉藤さんがケーブルの交換を済ませたので、もう一度ここでサウンドチェックをした。大島さんの声が妙にうわずっているのがわかった。不…

会津の町にて~些末な写真から

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年7月31日付「会津の町にて~些末な写真から」より)。

 会津旅行の思い出…まだ本題には入りません。
 今回、旅行に持っていったカメラは、Olympus E-P2(M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6)。  確かに真夏の日中ではファインダーがないのは辛いのですが、慣れてしまえばけっこう液晶モニターで十分撮ってしまえるものです。本題に入らずに、カメラを持っているとつい撮ってしまう写真について。
 よく私は道を撮ったり、町並みの全景を撮ったりしますが、“ビルの壁”というのもけっこう撮ってしまいます。町並みというのはある意味、一期一会であって、何年か経つと家や商店がなくなっていたり駐車場に様変わりしていたり、あるいはもっと年月が経つとその時代の流行やファッションを反映した造形を垣間見ることができるので、気に入った町並みはこれといった被写体を見つけられなくとも必ず撮ってしまうのです。
 ここでは、会津若松市内のとある場所で2カット。
 道路に対して垂直に伸びた電信柱がゴチャゴチャとしている感じ、遠くに鉄塔が聳えている様子の1枚目。実は道路の歩道側の前方におばあちゃんが歩いていて、こちら側に向かってきたのでシャッターチャンスと思ったのですが、カメラを挙げた途端、ささっとフレームから外れて逃げてしまう始末(笑)。堂々と普通に歩いていただければいいのに、私が邪魔なのね、と気を遣われてしまうわけです。
 2枚目の写真。ビルの壁面の質感というのは、色彩であり、建材であり多種多様で、いろいろな造形をしています。私はそういった「壁」の質感が好きです。
 それはそうと、写した瞬間は気づかないのですが、じっくり写真を眺めると、ビルのガラス窓にはポットなどが写っていたりして生活感が滲み出ています。写真というのはその一瞬を切り取り、フレームの中に実に豊かな情報を光学的に記録してくれるわけですが、写真を眺めなければそういう豊かな情報を引き出すことはできません。当然ながら、歩いてその場に行かなければ写真は撮れないのですから、「撮る」のも「眺める」のもそう容易なことではないことに気づかされます。
 総じて、無機質なものにこそ、引き込まれるということが、個人的な意識の中には、あるかもしれません。

会津の風景

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年7月29日付「会津の風景」より)。
 昨夜、会津から帰ってきました。
 いろいろ書きたいことはあるけれども、しばし時間の距離を置いて沈思黙考。  会津での素朴な風景を写した写真を2カットだけ、まずはアップロードしました。  後日、あらためて会津旅行の思い出を書きたいと思います。

読み聞かせの旅

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年7月25日付「読み聞かせの旅」より)。

 明後日の27日から28日にかけて、福島の会津へ旅行します。1日目は猪苗代の近くのホテルに泊まり、2日目は会津若松の市内を回る予定です。どうやら雨の心配はなさそうなので、ほっとしています。
 どうやらこのブログで小学校時代の思い出を述懐するのが一つのテーマとなってきたようです。今回、会津へ足を運ぼうと思い立ったのは、まさに小学校時代のある友人の思い出があったからです。
 小学2年生だった私は、その友人と知り合い、大の仲良しとなってクラスではよく喋り、放課後はよく遊びました。(以来親友となって10代の終わり頃まで、何かと交遊が絶えませんでした。)
 10代の終わり頃になると彼は悩み多き青年といった具合になり、子供の頃の快活さは失われかけていましたが、その彼の様々な悩みを聞いて対話しているところを録音したカセットテープが、いまも私の家にあり、誰にも“聞かせていない”門外不出となっています。その17歳の彼の声を、おそらく唯一何度も繰り返し聞いているのが私自身であり、若き頃の彼の、ある意味において若者特有の普遍的な悩みを、私は自問自答することがあるのです。悩みとは少々逸脱した、若いということのいかなる「生」の《審判》についてを。
 小学2年の時、担任の先生が所用で自習となったとき、彼は学級の児童をすべて寄り集めて、野口英世の伝記本を片手に、それを読み聞かせてくれました。彼はその頃、偉人とされた野口英世に夢中になっていました。
 その話が実にわかりやすくて面白くて、聞いている私もじっと彼の言葉を聞き入っていました。
 猪苗代の貧乏な家に生まれた清作が囲炉裏でやけどを負ったこと。手が不自由になり、いじめられた清作が母親や恩師の思いに応えるように無我夢中で勉強したこと。
 その場では、普段そんな真面目な話には興味を持たないガキ大将の○○君でさえも、読み聞かせている彼の話を聞いていました。
 彼の話を聞いてすっかり野口英世という人が好きになり、そのうち自分も本を買って読むことにしました。
 偕成社の児童伝記シリーズ、宮脇紀雄著の『野口英世』です。
 そうしていつか、磐梯山の見える猪苗代を訪れて、野口英世の生家を見てみたいと思ったのですが…。
 いま、その同じ本を入手し…

漱石のこと〈一〉

※以下は、夏目漱石に関して拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年7月20日付「漱石と私」より)。

 私が夏目漱石の文学に傾倒していったきっかけについて書いてみたいと思います。
 既に、このブログの中で私が幼年時代に百科事典に触れたことは書きました。その事典は何であったか――『原色学習図解百科』(学研)と『学習百科大事典』(学研)のいずれかの「明治時代」「文明開化」の項で、誠に鮮烈な“朱”の色をやはり幼年時代に見たのです。
 そこでの鮮烈な“朱”の色とは、明治の文明開化を象徴する煉瓦塀の朱色であり、また鹿鳴館のイラストの中の朱色でした。そのページを開くと一瞬にして、そうした19世紀日本の、古い時代へのなんとも言い難い好奇心と愛着感が沸き上がってきました。
 いま考えれば、それが“日本史”への興味・関心へ広がっていったのだと思いますが、小学2年生の時、テスト中に答案用紙の裏に、日露戦争の図絵を書いて担任の先生をびっくりさせたことがありました。日露戦争当時の軍服、明治天皇の顔、乃木希典の顔、二百三高地で国旗を掲げる兵隊をHBの鉛筆で線描し、自分としては明治へのある種の憧憬や郷愁に耽っていたのです。その頃読んだ、朝日新聞社が発行した明治・大正・昭和の朝刊縮刷版の本の影響や、母方の実家が広島の呉で、その年の夏休みに呉に行って実物の潜水艦を見たり、江田島の海軍兵学校などを訪れたりしたこともその背景にあります。
 そうして、家にあった――姉が所有していた――漱石の『三四郎』の本が、漱石文学の最初の出発点であったと記憶しています。小学2年か3年の頃でしょうか。
 とは言え、それを精読してどうこうという話ではありません。確か、少年少女向け日本文学全集的なポプラ社あたりの『三四郎』だったのですが、子供なりに本の装幀に興味を示し、“サンシロウ”という題のあまりに単純な、子供向けに感じられる印象とがあり、何度も何度もその本を開きました。
 しかし開くだけで、読むことはしなかった。
 読んだのは、いつも冒頭の部分だけです。
《うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。この爺さんは慥かに前の前の駅から乗った田舎者である。発車間際に頓狂な声を出して、駆け込んで来て、いきなり肌を脱いだと思ったら背中に御灸の痕が一杯あったので、三四郎の記憶が…