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読書三昧―『源氏物語』というパンドラの箱

今年はのっけから本が増えて増えてならないのだ。自宅の蔵書が書棚に収まりきれず溢れかえり、あちこち本の塔(まるで卒塔婆のよう)ができて居処を狭くし、煩わしい。しかし、読みたい本が目の前にあるという充足感は格別。諸刃の剣でいずれにしても読書というものは、蔵書が“増書”となり、行き過ぎると“毒書”ともなる。
 昨年は春から夏にかけて、ジョイスの『ユリシーズ』をかじった。かじっただけなので、読後の達観した気分にはならなかったが、連夜読み続けていたその頃、1巻だけでも厚みのある『ユリシーズ』が寝床の傍に3巻も並べられ、さらに隣に『フィネガンズ・ウェイク』が2巻置かれていた。そうなると、かなり手狭となって、これまたひどく分厚い柳瀬尚紀訳『ユリシーズ 1-12』(河出書房新社)を読み出したりすれば、もはやジョイスの本に囲まれた私自身の身体は、狭い窮地に追い込まれた小動物である。この点、巨人ジョイスに隷従した身と言っていい。  それほどの長編小説は懲りて、もう読まないようにしている。にもかかわらず、昨年末、保坂和志氏の些細なコラムを読んだのをきっかけに、紫式部の『源氏物語』にすっかりはまってしまった。これがまた言うまでもなく、大長編である。そうして収まりきれない本が、蔵書が、またしても増えてしまったのだ。いかんいかん…。  確かその前、秋だったと思うが、古書で『日本国語大辞典』全10巻を買い込んだ。これはなんとか書棚を整理して全巻押しくるめることに成功したのだけれど、今まさに岩波と角川とポプラ社(児童書)による『源氏物語』数冊と、絵巻関連の本と、それから瀬戸内寂聴版『源氏物語』全10巻(講談社)を揃えてしまった渦中において、私はじっくりと、この長い物語を耽読することにした。平安貴族の幽玄の世界に浸り、悦楽の気分を味わうために。
§
 『源氏物語』の文体の、その美しくも儚く、時に性的で艶やかな「言葉」の秘めたる鼓動を、なんと驚きをもって表現すれば良いのか。これがいにしえの、平安朝時代に書かれた読み物ということに対する純粋な感動。そこには、まどろんだ一昼夜の風雅にたたずむ男女らの交錯と、あれやこれやの大人びた人間模様の連鎖が記録されているのであり、私はそのことの発見に何度溜め息をついたことか。  岩波書店のPR誌『図書』12月号の保坂和志著「ようやく出会えた源氏物語」を読むと、新…

護国寺境内から

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年5月31日付「護国寺境内から」より)。
 先週の火曜、目白台界隈を歩いた後、気持ちの良い日和だったので、護国寺を散歩しました。
 目白台三丁目の夜寒坂を下り、護国寺へ向かう中途。日大豊山高・中学校のあたりで、生徒が先生に呼び止められて叱られているところを、巨躯な生徒4人が揃ってその先生に「オハヨウゴザイマス!!」と大声で張りながら交差していく光景を見、無性に新鮮さを覚えました。
 護国寺の境内へ登り、豊島ヶ岡御陵を見渡していると、個人的に懐かしい風景を思い出しました。
 子供の頃、私の住んでいる近所は、宅地造成の真っ只中で、雑木林を宅地に変え、大工さんらの職人気質のかけ声やトンカチで釘を打つ音、木材を並べてカランカランと木材が擦れ合う音が響いていました。
 子供の目線から見れば、まるで森の中に点々と家が建てられている光景に見えたので、なんとなくロマンチックな気分になったものです。それだけ、当時は雑木林の面積がまだまだ広く、当然日光が当たりにくい薄暗い場所であったし、夜に歩けば真っ暗な地帯でした。
 確かに、当時は雑木林の「岡」があった。そして「谷底」があった。あれから数十年、宅地造成が落ち着いた頃になると、雑木林の闇は消え、家々が並んでいるだけで、「岡」も、「谷底」も見えなくなってしまいました。
 その懐かしい、こんもりとした雑木林の光景が、豊島ヶ岡御陵から眺めとよく似ていたのです。あまりの懐かしさで動揺し、すっかりその光景を写真に収めることができなかった、シャッターを押すことができなかった…。
 あの頃、夏祭りの御輿を担いだ後、休憩がてら、かき氷を食っている最中、雑木林から無数の蝉の鳴き声が聞こえてきた…。
 都会の町を歩いて、懐かしい風景に出合えるというのは、考えてみれば不思議なことです。

目白台界隈を歩く

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年5月26日付「目白台界隈を歩く」より)。
 東京の町を散策するのはとても楽しいものです。歴史が積み上がっている、という点では、当然どこの町もそうであるけれども、積み上がる細かな過程の部分が、あらゆる情報に晒されている点で、やはり東京は、地方の町とは楽しめる度合いが変わってくるのです。
 一昨日、目白台のあたりを歩きました。護国寺駅から地上へ出て、音羽通りを関口三丁目方面へ。しかしそれにしても学校が密集している町、という印象です。お茶の水女子大、筑波大学附属、東京音大附属。東京カテドラルのあたりの目白通りへ出るまでに、獨協の学校と幼稚園も見たはずです。閑静な高級住宅密集地と学校という組み合わせは、東京ではありふれた風景なのかもしれませんが、それでもやはり際立っている感じがします。
 昭和6年の古地図を見ると、お茶の水女子大及び筑波大学附属の場所は、陸軍の兵器庫だったようで、かなり広大な面積だったことがわかります。といっても、この界隈の区画は当時とほとんど変わっておらず、カテドラル(=旧・天主協会)があって戦火を免れたせいなのかどうかはわかりません。ただし聖堂は戦災で焼失し、戦後になって新しい聖堂を建てたようです。
 永青文庫のある地域を境に、現在では東側が関口二丁目、西側が目白台一丁目となっていますが、昭和6年当時は関口町、あるいは関口台町となっており、“目白”という地名はこの周辺では出てきません(現在の目白通りは当時も目白通りという名称だったのでしょうか?)。ちなみに、関口台町の西は老松町、高田豊川町です。
 目白通りを日本女子大の方へ向かって歩き、公園のあたりで南へ折れる坂を下ると、神田川が流れる道筋に出ることができます。昭和6年で言うと老松町と関口台町に差し掛かるあたりでしょうか。このあたりに江戸時代には細川家の下屋敷があったはずです。ちょうど昼頃に歩いたのですが、まったく静かなところでした。
 神田川を渡る小さな橋があります。駒塚橋です。その反対に胸突坂という坂があって、これを上がると永青文庫があるのです。
 この界隈の漂うある種の気品と、細川家が代々伝えてきた文化のそれと重ね合わせると、見事に一致するのは単なる偶然でも何でもなく、町の文化は人と人、家と家との文化の縫合である結実による…

永青文庫へ

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年5月25日付「永青文庫へ」より)。

 東京国立博物館の特別展『細川家の至宝―珠玉の永青文庫コレクション―』も6月6日までということで、興味のある方でまだご覧になってない方は是非とも足を運んでいただきたいのですが、私は今日、東京は文京区目白台にある「永青文庫」に行ってきました。

 もともとこの地域は江戸時代における細川家の江戸屋敷があったわけですが、永青文庫はその時代を思わせる鬱蒼とした森の中に佇んでおり、厳粛な空気すら漂ってくる感じです。

 観覧して興味を持ったのは、明治の30年代に撮影された、細川護成そして細川孝子の肖像写真です。写真とカメラの歴史の上でも、とても貴重な写真です。ところで、この時代の「写真を撮ってもらう」という感覚は、いったいどんな感覚だったのでしょうか?

 銀塩フィルムですら「(写真が)出来上がる」という言葉が成立します。つまり写真は「出来る」ものだったわけです。今、デジカメの時代では写真が「出来る」という感覚はほとんどありませんが、確かにデジタルでもRAW現像をしてフォトレタッチをして―ということを考えると、まったくそうした感覚が無くなってしまったわけではありません。が、やはり明治の頃の、写真が「出来る」という感覚は、撮影者に「撮ってもらう」ということの延長線上に、もっと何か重い感覚があったと思うのです。
 護立氏がせっせと収集した美術品と並んで、あのような写真が展示してある永青文庫のあの一角に、私はすっかり魅了されてしまいました。つまり、ものに対する愛着や人との繋がりにこそ、文化遺産の本義があることをそれらが語っていると思ったからです。

ある光景つづき

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年5月9日付「ある光景つづき」より)。
 茨城空港は茨城県小美玉市にあります。空港への利便性を考慮すると、石岡方面から国道を使って乗り入れた方が近道になります。私は霞ヶ浦が見たかったので、霞ヶ浦大橋を渡るルートを遠回りしました。
 さて、空港へ訪れた帰り、すなわち空港から国道354号線沿いにある「たまつくり」の道の駅へ戻る区間ですが、小さな山間に連なる森林のあちらこちらで、ヤマフジのささやかな色彩を見ることができました。
 新緑に染まった一面に、本当にささやかに集合しているヤマフジの淡紫色は、例えて言うなれば人の黒髪にわずかに生え始めた白髪の散在に似ており、その光景というか情景を詩歌に置き換えたい気分になるほどです。人が植木をして豪快に咲かせたフジも見事ですが、こうした自然に咲いたヤマフジの美しさも、この季節でしか堪能できない点描だと思うのです。
 クルマで素通りしてじっくり目視することができなかった風景の一つに、こういう風景がありました。
 半径200メートルほどの円の外周が森林で覆われていて、その内側は小規模な平地の田圃である。円の中心部に小山があり、その天辺には樹齢がそれなりに経っていそうな太い幹の常緑樹が一つ在る。小山は墓地である。集落の墓地である。鎮守の森ほど大きくなく、古墳としても小さすぎる。その小山は自然にできた小山とは思えず、おそらく何百年も前の時代に村民が拵えた山の墓地なのかもしれない。
 都会は、土地の端から端まで人間がびっしりと入り込んで生活していますが、田舎の山や森林の多くは、ほとんど人が滅多に足を踏み入れない地帯であり、自然に鬱蒼としているだけです。端的に美しい風景とは言えませんが、私はそういう風景が好きでたまりません。それは郷愁でありつつ、人間の原始的な安堵を覚える場所(地帯)であると思います。
 私なりに考えれば、それが生き物にとっての原風景である「海」と同じ解釈の「野」にあたるわけです。

ある光景

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年5月6日付「ある光景」より)。

 今日は茨城空港へ行ってきました。早朝は曇り空だったのが出発前には太陽が顔を出して真夏日に。クルマの中で暑い!暑い!と思いながらも走り続け、エアコンのスイッチが“暖房”になっていたことに気づくまで、数キロの距離を走っていたのです。
 茨城空港の存続の是非はともかく、違った意味で少々混雑していました。無論、それは話題となった空港を見てみようと思った人の混雑。ここから空へ旅立つトラベラーは一握りであり、それ以外はすべて見物客なのです。
 送迎デッキでの写真。ソウルからのアシアナ航空便が30分遅れで滑走路に着陸した午後12時半、見物人達がこの一飛行機に向ける様々な刮目の度合いというのは、成田や羽田の送迎デッキでは決して再現されない、異様と言っていいほどのものでした。それも歓声を上げての昂奮というものではない、寡黙な、熱を帯びた集中的な視線。
 私は飛行機マニアではないので、飛行機の離発着よりも、観衆の動向の方に興味がいってしまったのですが、存亡をかけた茨城空港の今後の発展の情勢と共に、この光景も徐々に変わっていくだろうと思います。