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人間と人間以外のもの―『蓮沼執太: ~ ing』

東京・銀座の資生堂ギャラリーにて、先週、蓮沼執太の展覧会(インスタレーション)『蓮沼執太: ~ ing』を体感してきた。私が資生堂ギャラリーに訪れたのは約2年ぶりで、前回は『Frida is 石内都展』(当ブログ「石内都―Infinity∞」参照)、と言いたいところなのだけれど、その時は資生堂ビルの前まで来て突発の所要のために引き返したため、中へ入った前回は――厳密に言うと、トノ・スタノ(Tono Stano)の写真を鑑賞するために訪れた8年前の『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)になる。その直後に私は、ほんの僅か、この資生堂ギャラリーと福原信三についても書いている(当ブログ「資生堂ギャラリーのこと」参照)。
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 蓮沼執太という人に対して、私自身、思い入れがここ数年濃密になってきている。敬愛する“若き音楽家”というリスペクトの範疇を飛び越え、彼のその多彩な活動は《芸術》という総体にまで及んでいることから、“1983年生まれ”の一回り下の年代、という意識がありながらも、崇拝する雲の上の人、なのである。しかも、同じ《今日》という時間に生き、地球のどこかで確実に寝起きし、様々な心境のうちに魂を揺さぶりつつ、《芸術》という総体に身を置いて活動し、Prophetたらんと日々、精進してさながら時を刻んでいる。そう、同じ世界を見わたしているのだ。
 同じ世界に生きながら、これはもちろんのこと、人それぞれ見方や感じ方が違う。世の中に対してあどけない冷然とした態度をとる人もいれば、がっつりと正面から熱く、社会と政治に対峙する人もいる。蓮沼執太という人にとっては、その感性を、《芸術》の総体の一角の「音と音楽」のカテゴリーに収斂していくことが、最も得意なのであろう。

 一方の私――という自己にとってもそれはまったく同様である。まことに恐縮ながら、銀座の資生堂ギャラリーという環境を伝って、リスペクトする蓮沼執太の創作の、ある一つの言わば《音の出るオブジェ》の装置に実際に足を踏み入れ、小さくひ弱な音を発して、それを自身の耳で聴き入れることができた悦びは、作者と演者によるバーチャルなジャム・セッションを完遂した充足感に近い。ここでは単に現代アートを眺めて鑑賞するのではなく、創作者による《触覚的な楽器》を借用し、それを用いて(そこに…

ポール・マッカートニー~サウンドの啓示

私が小学校を卒業したのは1985年(昭和60年)で、おそらく前年の1984年頃までに、日本でカラオケ・大ブームがあった、と記憶している。子供の目線から見ても、歌謡界は花盛りであった。  当時、いわゆる“8トラ”(ハチトラ)=「8トラック・カートリッジ・テープ」がカラオケ用のメディアとしては主流であった。言わば8トラの大量生産時代であり、どの家の自家用車にも8トラのカーステレオが装備されていて、車の中に演歌やポップスのカートリッジが散乱しているという光景を、ごくありふれた日常の光景として目撃したりした。
 そういうカラオケ・大ブームの頃、我が家にもカラオケ用の大型スピーカー(音声多重のためモノラル)を備えたオーディオがあった。そして大量の歌謡曲のカートリッジに紛れて、ホームセンターの在庫処分バーゲンで買ってきた、BEATLESのベスト集的なカートリッジがあった。BEATLESやオールディーズはそういった所でよくバーゲンセールで扱われていたものだ。  ともかく私はこれが好きで、学校から帰ると毎日のようにBEATLESを聴いていた。ほとんどビートルズについて何も知らずに――。
 そこから一気に、個人的には、BEATLESの音楽を忘れていった。
*
 ――1990年。ポール・マッカートニーのワールド・ツアーがあって、広報用の小冊子(当時の東芝EMI発行)を、CDショップで手に取った。マッカートニーに傾倒しつつも私の中でBEATLESが再燃した。  小冊子の始まりは「ポール・マッカートニーの新しい出発」と題されて、クリス・ウイッテン、リンダ・マッカートニー、ロビー・マッキントッシュ、ハミッシュ・スチュアート、ポール・ウイッケンズらツアーのメンバーが紹介されていた。ジョン・レノンの死でライブ活動から遠ざかっていたポールが10年ぶり、しかもワールド・ツアーとしては13年ぶりとなる、日本公演も含まれた記念すべき年であった(前年の9月よりツアーがスタート、10カ国以上を回った)。
 その翌年、私は千代田工科芸術専門学校の音響芸術科に入学して、レコーディングについて学んだ。卒業記念の自主制作アルバムでは、マッカートニー&ウイングスの「Live And Let Die」がビッグ・バンドでアレンジされて収録された。さらに同曲で生徒らの演奏がライブ・レコーディングされたりして、曲を楽し…

墨の話

先日、朝日新聞朝刊の文化欄記事で「墨滴」(ぼくてき)について書かれてあったのを見て、なんとなく小学校時代の“書道”の授業を思い出してしまった。
 その記事の内容は興味深い。昭和28年頃から、学校の現場で「墨」をする時間を惜しむようになったという社会的な背景から、液体状の「墨滴」を販売した、という。それでも本来の「墨」(固形墨)の良さ、濃淡のあるその「墨」のいろいろな表情を、現代でも伝えていきたい、と墨メーカーの「呉竹」綿谷会長の思いが綴られていた。
 「墨」の世界は相当奥深いもののようで、にわか好奇心を起こした私は、「墨滴」を国語辞典で探したが、少なくとも4冊の辞典では見当たらず、あるのはどれも「墨汁」についてである。例えば広辞苑では、
《墨をすり出した汁。特に、写字用として、すぐに使えるように作った墨色の液。墨液。イカ、タコが分泌する黒い汁》 (岩波書店『広辞苑』第六版より引用)
 話が少しややこしくなる。  先の新聞記事で書かれているのは、あくまで呉竹の墨液(書道液)「墨滴」についてである。一方の国語辞典で出ている「墨汁」は、一般的な言葉として使われている広義で、“墨色”の液を指しているに過ぎない。固形墨を、硯(すずり)使って水ですり下ろす。そうして出来た墨液の状態を真似て、即席に簡便化させたのが「墨汁」であり、呉竹の「墨滴」よりも歴史が幾分古い。  この広義の「墨汁」に呉竹の「墨滴」が含まれるのかどうか、私には分からない。さらに「墨滴」と「墨汁」とでは実際的な用途が違うらしく、呉竹ではその種類を分けて販売している。
 ただ、書道としても習字としても、純然たる墨液でなくとも化学的な“墨色”の液で代用できているのも確かなようだ。とは言え、最初に触れた綿谷会長の言葉に戻るのだが、やはり“墨色”の液体ではなく、本来の「墨」を味わって欲しい、ということなのである。

非常階段クラブ

自己と《音楽》とを結びつける様々な接点や事柄を、できるだけ過去の《記憶》の引き出しから《記録》へと変換してゆきたい。そういう欲求にたびたび駆られる。あるいはそれは他愛もない妄念に過ぎないのかも知れないが。
 私の中学校時代、いわゆる部活動とは別の、週に一度のクラブ活動というのがあった。必ずどこかのクラブに属さなければならない言わば必須活動だ。ところがあいにく、中学3年の頃私はひどく怠惰で――思春期の曲がり角のせいもあるが――参加したいと思うクラブが一つも無かったから、その時間帯はぶらぶらと校内をほっつき歩き、人目の付かない屋外の非常階段で時間をやり過ごすということをしていた。一応、所属先のクラブは“軽音楽クラブ”となっていた。が、一度もその教室に入ったことはない。
 そうこうしているうちに、同じクラスのK君が、私の気儘な“クラブ活動”に参加というか賛同してくれた。彼は美術クラブ所属で、最初こそ真面目にその教室へ行っていたが中途でクラブをほっぽらかし――というより私の状態を知って意を決し――我々二人は流れるままに約半年間、こっそりと非常階段という開けっぴろげの無機質な教室に通った。無論そこには顧問など誰もおらず、非常階段から見える吹き抜けの景色を見ながら、あるいは雨風に吹かれながら、ああでもないこうでもないと、我々二人にとっては、日頃の学校生活の鬱憤をぶちまける格別な時間帯を得ることができた。
 思えばK君は中学2年の時、母親を病気で亡くし、その期の前後はやや情緒不安になったりして、日頃明るかった彼が口ごもることがたびたびあった。彼もまた思春期の曲がり角であった。それでも1年が経つと、表向きはすっかり元の彼に戻り、平安な日々を過ごしていた。
 K君との非常階段クラブは、密やかにも熱気のあるおしゃべりのひとときであった。あっという間に過ぎる小一時間を毎週体験した。そうして半年が過ぎ、そろそろどこかのクラブに、二人で入ろうかという話になった。私とK君にとって、どこのクラブに所属し直すかということは大した問題ではなかった。  結局のところ、彼が所属していた美術クラブへ、私も参加することになったのだが、その後の半年間は屋外へ赴いて風景を写生したりして、非常階段クラブと同じくらい楽しい時間を過ごすことができた。
 こんなふうにちっとも《音楽》とは関係のない想い出なのだが、…