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京都へ―8年ぶりの鳩居堂

4月17日、京都の街をぶらり散策した。お目当ては、鳩居堂本店と二条城を訪れること。日中のあいにくの曇り空から夕刻には雨が降り出したこの日、別段、私の心には、それを憂う気持ちはなかった。天候などどうでもいい。お天道様の気儘さには逆らわない。すべて受け入れる。雨もよかろう。風情がある。こうして唯々、8年ぶりに京都に“帰ってきた”という思いが、感極まる何よりの悦びであり、その他に何もいらなかったのである。
8年前の京都散策を振り返ってみる。2010年3月30日と翌31日。――桜の花が咲き乱れる下鴨神社あたりから歩き始めた私は、およそ半日かけて街中をぶらぶらしたのだった。今出川通から百万遍、それから銀閣寺(慈照寺)へ。そして法然院、南禅寺とまわり、琵琶湖疎水のあたりから三条京阪へ。翌日は、河原町三条の寺町通にある鳩居堂へ。そこで文房具の土産物を買い、先斗町方面を歩いた。そうして作家・平野啓一郎の小説に出てくる高瀬川の面影を脳裏に刻みつつ、喫茶ポワレの佇まいを横目に、四条河原町界隈へと抜けた――。
 近いうちに京都へ、そしてまた鳩居堂へ訪れよう、と決心したものの、それから8年もの歳月が流れてしまった。愕然としてしまうほど長い時間の隔たり。この間、愛して已まない京都へ一度も足を運ぶことができなかった理由は、多々あった。2011年3月に東日本大震災。旅行どころではなくなった。そうしてその頃、思いがけずかつての演劇時代の旧友と再会を果たした。もう一方では、自らの音楽サイトの立ち上げというせわしい日々。旅行そのものが煩わしいと思う日々が、ずっと続いたのだ。京都が実に、私にとって縁遠かった。
§
 京都駅に着いて、しばし、駅構内の勝手が分からず右往左往したのだけれど、徐々に記憶が甦ってきた。記憶というより身体感覚である。京都タワーを見上げて、その感覚が戻ってきた。やはり京都という所は、やってきた、のではない、“帰ってきた”なのである。  地下鉄烏丸線の烏丸御池駅で東西線に乗り換え、京都市役所前駅で地上に上がった私は、加賀藩邸跡とされる付近の高瀬川を眺めた。8年前の心に残る、懐かしき高瀬川。せせらぎすら聞こえない、このこぢんまりとした小川の雰囲気がなんとも堪らない。このすぐそば、漱石の句碑がある。が、私はその時、句碑の存在にまったく気づかなかった。 《木屋町に宿をとりて川向の御多佳さ…

『典子は、今』を観たあの頃

小学校の頃に一度だけ観た映画が懐かしくなり、たまらなくなってその映画を――なんと34年ぶりに――鑑賞することができた。松山善三監督の『典子は、今』である。  私が入手したビデオテープ版にあった解説文が最もこの映画を理解するのに適当かと思われるので、以下、まずそれを引用しておく。
《昭和37年1月、辻典子は両腕が退化したサリドマイド児として誕生した。この映画は、彼女の出世から競争率26倍という難関を突破して市役所への就職を果した典子の姿を、本人自らが主人公を演じるというドキュメント手法で描かれている。  「足」を「手」に換えて、ミシン針に糸を通し、器用に櫛を持つ姿は、人間の真の「勇気」と真の「努力」の何たるかを感じさせてやまない。身障者への「哀歌」ではなく、むしろ大らかな「人間讃歌」として公開当時多くの人々に熱い感動を投げかけた》
 昭和56年(1981年)キネマ東京製作、東宝配給、松山善三監督『典子は、今』。主演は辻典子、渡辺美佐子、長門裕之。映画の公開年から探ると、私がこの映画を観たのは、小学3年生ということになる。
 朧気な記憶がどうも歯痒い。かろうじて記憶しているのは、この映画全体の漠然とした印象と、最初にこの映画を知ったきっかけとなった、学校の教室での淡い残影である。  私が教室の机に座っていると、映画のフライヤーか招待券あるいは優待券か何かが一人一人に配られた。そこで『典子は、今』というタイトルが頭にインプットされた。まだこの時点では、どういう内容の映画であるか知らない。
 おそらくその直後の担任先生の話によって、これは文部省推薦の映画ですよということが強調されたのだと思われる。まだ内容を知らない私は、〈この映画は文部省が推薦なのだから絶対観なければいけない〉とある種の観念を抱いたのを憶えている(※映画のパンフレットのデータによれば厳密には、文部省特選、総理府後援、厚生省推薦である)。やがて先生の説明で障害者の映画なのだと知ると、私は次第に興味本位でこの映画を観てみたいと思うようになった。
 さてそうして、私が『典子は、今』をどこかで観たのには違いないが、どこでどのようにして観たかについての記憶は、ほとんど途切れてしまっている。  フィルムの部分的なシーンの印象は薄らとあるのだが、果たしてどこで観たかの記憶が思い出せない。地元の映画館だったのか、公民…

『洋酒天国』と珈琲三昧

『洋酒天国』(洋酒天国社)第30号は昭和33年10月発行。コーヒー大特集号。  壽屋洋酒のPR誌で何故コーヒー特集なのか、と以前より疑問を呈していたのだけれど、疑問は一向に晴れず。特にこの頃コーヒー・ブームがあったとは知らない(この頃ジャズ・レコードのブームで純喫茶が繁盛した云々による影響か?)。要は酒もコーヒーも同じ嗜好品、という括り以外、特集の理由はまったく思いつかなかった。
 COFFEE GUIDE。コーヒー大特集。  今号は、画家の中村研一著「私とコーヒー」におけるその嗜好の真髄で始まる。また高橋邦太郎著「珈琲と芸術家」を読めば、もう皆々コーヒー大好きと、古今東西の著名な作家や音楽家の名前がずらり並んでコーヒー礼賛、コーヒーへの無償の愛といった感じに浸れる。  無論、その手の専門的知識が豊富に詰め込んである。コーヒーの買い方飲み方、コーヒーのカクテル紹介、産地別コーヒー豆の特徴や輸入量統計、コーヒーの文化史、さらには産地南米のルポタージュの高村暢児著「コーヒー王国を往く」など。いやいや、第30号はちょっと異常なくらいに読み応えありの、コーヒー大特集なのだ。
「あなたのコーヒーは何度ぐらいでしょうか?」  コーヒーの温度は何度が適当か、というナショジオ的テーマのユニークなページ。掲載画像の、コーヒーを飲んでいる禿げ頭の男性が、どうやらそのオランダ人のレストラン経営者のようで、彼は何度が適当かを調べるために、ある調査をしたらしい。画像にある、コーヒーに細い温度センサー管が伸び、黒くいかめしい機械に繋がっているのが、彼の発明した“コーヒー検温器”。もちろんアナログ。
 砂糖を入れる前の温度は摂氏74度でなくてはならず。砂糖を入れて73度、クリームを入れると60度から70度。2、3分経つと56度になるのだとか。この時の温度が最適らしい…。  骨太で肉厚のある彼の左手からするり伸びた温度センサー管がコーヒーの中に浸かっている。接触した左手の温度で検温の誤差が生じないのかと、ちょっと気になるのと言えば気になるのだが、見なかったことにしてご愛嬌。
 ここでもコーヒー色あり。  恒例「ヨーテンスコープ」はまたまた弩級のパーフェクトなフルヌード。モデルは日劇ミュージックホールの丘るり子さん。顔が見えないのが残念。  彼女について個人的に調べてみると、あまり詳しいことは…

プロレスラーになった天龍源一郎

先月11月15日両国国技館にて、“ミスター・プロレス”ことプロレスラー天龍源一郎が引退試合をおこなった。  万感溢れるものがあった。ファンとして、コップ一杯からドボドボこぼれる勢いの思いの数々。テレビ中継でその「オカダ・カズチカ対天龍源一郎戦」を観終わった後、私はふうっと息が漏れ、高鳴る鼓動が徐々にゆっくりとした脈に変化していくのを感じた。それはかつてプロレスファンであった証のスイッチが、パチンとOFFに切り替わって、静寂な日常に戻りつつある身体への浄化の、一瞬一瞬でもあった。
 そう、かつては熱狂的なプロレスファンであったけれど、今では宙ぶらりんな、時折懐かしんで昔のプロレス試合を動画で楽しむ程度の、もはやプロレスファンとは言えない自分自身が、あの天龍の最後の試合を見届けたのだから、これから語る天龍源一郎の思い出話は、今の現役の熱狂的なファンからすれば、かなり古風で時代錯誤な、焦点の暈けた戯言と思えるかも知れないが、ご勘弁願いたい。
*

 ――何はともあれ、文藝春秋発行の雑誌『Number』892号を読んだ。表紙には、“天龍源一郎”の名が無い。しかし本を開けば、あの門間忠雄氏のインタビュー記事で「安住の地を求めて」という見出しで全4ページが構成されていた。真っ青な空を背景に、笑顔の天龍の表情がそこにあった。ある意味、この表情を見ただけで十分であった。
 インタビューは相撲時代の話から、修業時代のこと、ジャンボ鶴田との出会い、SWSの話、フリーになってからのこと、そして引退の話と推移するのだが、私が読んでいて最も揺さぶられたのは、《本当の意味でプロレスの奥深さ、楽しさに目覚めたのは'90年のランディ・サベージ戦です》と語った箇所だ。
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 1990年と言えば、私はまだ高校3年生であった。あれは非常にファンのあいだで関心の高かったプロレス興行だったのだ。「日米レスリング・サミット」。場所は東京ドーム。1990年4月13日。
 いわゆる黒船来襲的な興行で、アメリカのメジャー団体WWF(現WWE)の選手がごっそりと日本にやってきて、当時の全日本プロレスの選手と全面対決するというコンセプト(興行自体には新日本プロレスの選手も参戦)。ちなみにメインイベントはハルク・ホーガン対スタン・ハンセン戦で、それはもう巨漢の二人の度肝を抜く大迫力な試合展開だったのを憶えてい…

『洋酒天国』とパリのシャンパン工場

ウイントン・マルサリスの「We Three Kings Of Orient Are」を耳にして、歳暮の気分を味わう。  クリスマス・シーズンもクリスマス・ソングもすっかりあちこちの市井に定着、商業化してしまっているから、もっと純粋な、心と心に染み渡るような相互の感謝の念を祝する風情に、やや気恥ずかしさを伴うこともあってか、例年はシーズンの“素通り”を決め込むのだけれど、今度の暮れはそうした風情にやや浸っていたい気分に駆られている。
 『洋酒天国』(洋酒天国社)第32号の表紙が、“ヨーテン”にしては珍しく地味なのだ。  第32号は昭和33年12月発行。アメフトの練習風景をとらえた表紙は、まるでその日が雨天だったかの如く薄暗く、全体が暈けている。まだ陽の当たらない朝方の練習風景とも想像できる。  何故アメフトなのかと言えば、おそらく毎年12月に開催される甲子園ボウルに刮目したのだろう。調べてみた。ちなみにこの年、昭和33年12月の甲子園ボウルで優勝したのは日本大学で、前年から翌年へと3連覇を記録している。今年70回を迎えた甲子園ボウルの優勝は、立命館大学。そんなことも知らずに私は12月を“素通り”しようとしていた。  単に地味というより、男たちのひたむきな汗の熱っぽさがじわっと伝わってくる表紙なのだが、写っている選手たちは、おそらく慶應のアメフト部ではないかと思われる。
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 さて第32号の中身は違う熱っぽさを充満させている。今月のカクテル「ホット・ウイスキー」は、意外と知れて飲んだためしがない。グラスに浮いたレモンのスライスがおしゃれだ。  レシピは簡単で、トリス・ウイスキーに砂糖を加え、熱湯を注ぐだけ。ここでのコラムでは、ホット・ウイスキーには様々な効用があると書かれている。第一に冷え性に効く。第二に酒癖の悪い人を撃退。第三に夫婦和合に役立つとか。飲むと身体が温まり、いい具合にコーフンする、らしい――。媚薬より健康的で安上がりなホット・ウイスキーは確かに美味そうである。
 第32号巻頭のコラムは「カフェーで飲む酒」。  坂口謹一郎氏の名著『日本の酒』や『世界の酒』は枕元に置いておきたい酒のバイブルで、私自身、例えば歳暮の貰い物の酒の含蓄をちょっとかじるのに役立っている。酒の本というのは“醗酵”に関する科学本でもあって、なかなか奥が深い。そんな名著で知られる、東…

マン・レイとジョンヴェル

家電量販店で買った二束三文のコンパクトカメラで手短な被写体を写し、35mmフィルム撮影を楽しんでいた20代前半。もともと写真が好きであった。次第にコンパクトカメラ特有の弱点、パララックスの壁にぶち当たり、なんとか資金を遣り繰りして一眼レフカメラを買ったのが20台後半。1990年代の話である。
 その頃はフィルムの現像とプリントは、カメラ屋や写真屋以外の小売店、例えばコンビニだとか書店だとかクリーニング屋などでもフィルムを持っていけば、提携の業者でプリントしてもらえた。なかには格安でプリントしてもらえる業者もあり、私はわざわざ遠出してそういう業者と提携している小売店を選んでフィルムを持参し、趣味としての写真撮影の修練を楽しんでいた。
 ある日の夜、プリントした写真が盗まれた。  現像を頼んでいた店で出来上がった写真を受け取り、自転車のカゴに入れたまま、近くの書店で立ち読みに耽っていた。しばし時間が経過した…。外へ出て自転車に戻ってみると、受け取った写真の入った状袋が無くなっていたのである。周辺をくまなく探し回ったのだけれど見つからず、どうも盗まれたのだということに思いが至った。
 その時私は、警察に届け出ようという気にならなかった。  財布ならともかく、下手くそな写真を取り戻すために、わざわざ交番に赴き、あれやこれやと面倒な手続きをして帰ったとして、その労力を考えるとどうも割に合わない。後日誰かがそれをどこかで発見して警察に届け出られたとして、当然私のところに連絡が入ってまた面倒な手続きをし、誰にも見せたくない下手くそな写真を受け取って意気消沈し、帰るなり惨めさが増幅するのを考えると、これは悪の仕打ち、やるせない結末だと思った。  いっそ、盗まれたままの方がいい。盗んだ奴が悪いに決まっているが、私にとってはこのままでいる方が、どうやら心理的には“好ましい”判断のように感じられた。実際、その通り交番には行かなかった。
 ところが翌日、意に反して事態が展開した。見知らぬ某会社を名乗る人から電話連絡があったのだ。会社の敷地内に、あなたの持ち物が落ちていた、という。私はすぐにその会社に赴き、写真の入った状袋を受け取って、親切なその方にお礼を言った。
 おそらくこういうことだ。私の自転車のカゴから遊び半分で状袋を盗んだ誰かは、中身を見てひどくがっかりしたに違いない。くだら…

『洋酒天国』と赤玉パンチ

子供の頃、洋酒に憧れ、大人になったらそれを絶対呑んでみたいと思う酒が2つあった。自宅の食器棚の高い所に置かれていた、緑色の酒=サントリーの“MIDORI”(メロン・リキュール)。そしてテレビ・コマーシャルを見て憧れた、真っ赤な酒“赤玉パンチ”。
 何と言ってもその緑や赤の鮮やかな色合いに惹きつけられた。普段飲んでいるジュースと同じように、色によって酒の味を想像したのだ。一体あの緑や赤は、どんな味がするのだろう。何故大人はあんな飲み物を好んで大事そうに飲むのだろう――。
 めくるめく想像は膨らみ、成人して憧れの“MIDORI”を呑んだ。が、大して喜びは湧かなかった。羽ばたいて飛んでしまえそうな酒の味のイメージとは、随分とかけ離れていた。とは言え、私の舌と喉と腹は、酒というものを受け入れる人生喜怒哀楽のなんたるかを、まだ十分に呈していなかったのである。
 『洋酒天国』(洋酒天国社)第22号は昭和33年2月発行。表紙にある船の甲板に置かれたトリスのイメージは、第22号の主立った中身を統合すれば《旅》ということになろうか。酒呑まずして旅にあらず、といった箴言が聞こえてきそうだ。
 第22号筆頭の小松清著「もう一度行って、住んでみたいスペイン」のエッセイは、旅の叙情と酒とをうまく絡めた秀逸な文体である。アンドレ・マルローの訳者で知られる小松氏の、3週間のスペイン旅。ヨーロッパの旅のなかでは美術を観て回れるスペインとギリシアがいちばんと言うが、風土や人情の点ではスペインが楽しいと書いている。スペインは《まだまだ人間的な感情を民衆生活の奥深いところでのこしている》と。
 小松氏は旅先のバルセロナの“カラコーレス”というレストランを紹介している。蝸牛すなわちカタツムリ、すなわちエスカルゴ料理。さてそれがフランスでのそれと同じなのか違うのかよく分からない。野生のカタツムリを、よく洗い、1週間ほど空き缶に閉じ込める。そこで汚物をすっかり出させる。そうしたものをニンニクと唐辛子で味をつけ、オリーブオイルで炒める、らしい。スペイン料理には白ぶどう酒がいちばん、「ヘレス」(シェリー酒)にかぎるというようなことも書かれてある。
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 今号で驚いたのは、「1958年全日本カクテル・コンクール ノーメル賞グラン・プリ決定!」である。壽屋と各社共催のカクテル・コンクールのグランプリが決まった、…

ミロのヴィーナスと桜の木

比較的暖かな日々が続いた直後の、急激な冬の到来。厚手の上着を着込む。冷気を感じた早朝、子供の頃から見慣れていた桜の大木の、いびつになった形に私はしばし茫然とする。

 最近と言えば最近であった。昔からずっとその桜の大木を、私は見続けていた。艶のない黒く荒々しい太い幹、左右対称のこんもりとした枝葉に覆われ、花が咲く頃はもう鮮やかな桜色に染まって、人々に愛され親しみのある存在。大木の真下を老夫婦がゆっくりと通り過ぎ、連れた飼い犬の背中にぽつりぽつりと桜の花が落ちて、私はそのひとときの柔らかな光景が忘れられない。――それが今は、見上げる枝葉の左3分の1が切られて、無くなってしまっている。
 その結果、垂直に伸びた太い幹は全体の中心線ではなくなり、重心が右にずれた状態となってなんともいびつである。まるで左半分が額縁からはみ出して消えてしまった感じで、現物のそれは記憶にあった枝葉の表象とかなり異なって、まったく変質してしまったのである。
 人が切ったのだった。これにはいろいろ事情があったらしい。もともと左右対称にこんもりとしていられたのは、所有者の土地からかなりはみ出していた左側の枝葉が、隣の土地所有者の義理で暗黙のうちに存在し得たからだった。つまりずっと長い間、そういう関係下で桜の大木は生かされていたのだ。
 だが隣の土地所有者が変わり、これまでの義と理が失われた。はみ出していた左側の枝葉を切らざるを得なくなった。そうして今、子供の頃から見慣れていた桜の大木は、いびつな形に変質したものの、まだそこに根を張り生き続けている。
*
 清岡卓行氏の「失われた両腕」(『手の変幻』収録)を思い出す。  ミロのヴィーナス(アフロディテ)には両腕が無い。欠落しているという話。  19世紀、ギリシャのミロス島で発掘された大理石のヴィーナスは、既に両腕が無かった。発掘されて間もない頃に描かれたスケッチを見ると、今よりもう少し左腕が残っていたようで、それだけでもだいぶ印象が違うのだが、清岡氏は「失われた両腕」で、 《その両腕を、故郷であるギリシアの海か陸のどこか、いわば生ぐさい秘密の場所にうまく忘れてきたのであった》  と、詩的なエキスを垂らして述べている。
 清岡氏の「失われた両腕」を一言で要約してしまえば、“欠落の美”ということになろうか。  ミロのヴィーナスには、《顔》《胸から腹にか…

リルケの駆け落ち話

馴染みの薄い作家を読むと、ゾクゾクとするものを感じる。  この場合の馴染みが薄いとは、存在を知っていながらもわざと遠慮して、理解を恐れ読まずにいた、という意である。
 以前ここで書いたことのある梶井基次郎だとか、村上春樹氏の作品が載っていた筑摩の高校国語教科書に、ひっそりとその作家の作品があった。リルケの「駆け落ち」――。
 プラハのドイツ語詩人リルケ(Rainer Maria Rilke)は、画家バルテュスの母バラディーヌの交際相手であった。そんなあたりの経緯で、私はリルケの名前を覚えていた。バラディーヌから手渡された幼いバルテュスの素描集“ミツ”(Mitsou)にリルケは自ら序文を添えて絵本とし、スイスのチューリッヒより出版している。1920年のことだ。
 リルケについてはよく知らなかった。筑摩の教科書の解説によれば、リルケの「駆け落ち」(Die Flucht)は1898年刊行の短編集『人生に沿って』に収められているという。おそらくその頃、若きリルケはベルリン大学での生活を送っていたものと思われる。
 教科書の「駆け落ち」は森鷗外の翻訳であり、鷗外全集の第十巻に拠ったとある。  それにしてもリルケの、というか鷗外訳の本文が、若々しさに欠け、躍動感がない。洗練を通り越して台詞に飽きてしまった、どさ回りの役者達による白けた芝居。この教科書で隣に並べられた尾崎紅葉の「金色夜叉」もまた、古い口語の、ある種の独特な臭みを放っているものの、それよりもひどい気がする。読んでいてあまり艶めかしい気分が湧いてこない。  《あなた本当にわたくしを愛していらっしゃって》とか《あなたそんなに心配なさらなくてもよくってよ》といった口調は若者を思わせないし、おじさん鷗外を意識してしまう。明治の作品だからという以外に、個人的に私はどうも鷗外の作品に馴染めないものがある(近代文学史における言文一致論云々では片付けられない文体そのものの、鷗外特有の臭みを覚える)。
 筑摩の教科書では「駆け落ち」と「金色夜叉」を“近代の文章”という節で括っている。つまりどうしてもここでの「駆け落ち」は、森鷗外の翻訳というフィルターを通した文章を学習しなければならぬ、ということである。近代文学を知る上で、漱石などとならんで明治の文豪・森鷗外を多少なりとも咀嚼するのは、学生の領分の宿痾なのだ。
*
 《寺院は全…

『洋酒天国』と観賞用男性

『洋酒天国』(洋酒天国社)第42号は昭和34年12月発行。
 これまで当ブログで紹介してきた“ヨーテン”コレクションも、そろそろちびりちびりとなってきた感がある。つまり残すところ、未紹介冊数も僅かということ。いやいや気分的には、全号制覇といきたい。最終号の第61号は昭和39年2月発行となっており、これまでたくさん“ヨーテン”を紹介してきたつもりだが、まだまだ入手し切れていない号がごろごろとある。それをこれからちびりちびり入手するならば、果たして全号制覇はいつになるのか――。無論、きわめて入手困難な“ヨーテン”だけに、気の遠くなるような話である。
 まず恒例となっている第42号の巨大ピンナップは、“MISS BARTENDER”若尾ルミさん。バーのカウンター・テーブルに腰掛け、ワイシャツを開放的に着こなしつつたっぷりとした胸を突き出した小麦色のヌード。背景の白札ウイスキーが艶やかなアクセントとなっており、大人のロマンチシズムを感じさせる好写真。
 こうしたピンナップについて、私は当ブログ10月6日付「『洋酒天国』とパリの饒舌」でこんな雑感を書いた。 〈この手のピンナップは当時酒に酔った殿方の視線目的で企画されていることは言うまでもない。が、思うに、女性の裸体の美しさは女性が見ても美しいに違いなく、『洋酒天国』がもしそうした酒を嗜む女性側の視線を含めてのPR誌であったならば、かなり違った企画(センス)で埋め尽くされたであろう。その後の酒の文化は大きく変わっていたかも知れない〉。
 実は第42号は、見事にそれを誌面化した内容となっていて、女性による女性のための“ヨーテン”なのだ。きわめて珍しい。  編集後記によれば、編集部のスタッフを一新し、若く美貌の女性が参加、とある。おそらくそのあたりの兼ね合いで、一つやってみようと試みたのかも知れない。この時代の雰囲気あって、やや内容がどれも夫、旦那譚的臭みが生じているのが玉に瑕だが、画期的な企画であったのことには変わりない。
 そうした誌面で酒飲みの“父”を題材にしたのが、NHK美容体操・竹腰美代子さんの「私の選んだサケ」である。子供の頃から父に酌をして酒話を聞き、若い頃には既に酒が善き友になっていた、というような酒巧癖を綴っている。和やかな竹腰さんの表情ととグラスが印象的だ。  サントリー(壽屋)の白札とオールドの写真が小…

映画『ヘアー』のこと

幼心にも“センソウ”だとか“フンソウ”という言葉が、何か暗いどんよりとした嫌な言葉であることを、ベトナム戦争の(政治的にはパリ協定後の)時々刻々を伝えるテレビ報道のアナウンサーの口調から感受した、と言えるかどうか、今となっては判然としないものがあるにせよ、私は幼少の拙い感覚から、周囲の大人達がそれを噂している何とも言いようのないこわばった表情と、その重々しい話し声を耳にして、“ベトナムセンソウ”という音声だけはしっかりインプットされていた。
 私がベトナム戦争が悪であることを明確に感じたのは、ベトちゃんとドクちゃんの報道があちこちで流れた1980年代以降であった。生まれてきたことがまるで真逆の、悲劇と不幸をもたらすという惨い理不尽さに震えが止まらなかった。これこそが戦争の悪の性質を物語っていると思った。  しかしながらそれは、私自身にとってもう一つの自己悪――すなわち遠いベトナム戦争の悲劇と不幸を忘れ去っていった自らの精神の《忘却》という堕落でもあった。
*
 学生時代のある時、まったく唐突にミロス・フォアマン監督のアメリカ映画『ヘアー』(“Hair”1979年公開)をテレビで観たのだ。  忘れ去っていた“ベトナムセンソウ”をそこで思い出したかといえばそうではなく、ガルト・マクダーモットのあまりにも鮮烈な音楽の数々に耳を奪われ、戦争はもとより、ストーリーや主題が頭の中でほとんど相殺されてしまった。つまりそこでは、ガルト・マクダーモットの音楽とダンスしか記憶に残らなかったのである。
 改めていま、映画『ヘアー』を鑑賞してみると、“ラブ・ロック・ミュージカル”という見栄の副題に隠れてしまって見えづらい、様々な事柄が浮かび上がってきて昂奮を覚えた。  ベトナム戦争への徴兵という主人公の動機とヒッピーとの遭遇。ヒッピーのアメリカ社会における位置づけ。そのヒッピー“部族”の中での人種問題あるいは男女関係、親子関係。社会的節度と自由の問題。戦争に対する精神的反抗と服従。ミロス・フォアマン監督の映画『ヘアー』は、単なるミュージカル映画ではなく、単なる反戦映画ではなかった。
 私はもともとのブロードウェイでの「ヘアー」を観ていないので、脚本と歌詞を手掛けたジェームズ・ラドとジェローム・ラグニのそれが本映画の結末とどう違うのか、その差異について意見を述べることができない。
 し…

『洋酒天国』と船の話

壽屋PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第37号は、昭和34年6月発行。  爽やかな薄青色の無地の今号表紙は、一見するといったい何だか分からぬが、裏表紙を見るとご解明。.昭和のコメディアン脱線トリオの南利明さんが、船の小窓(?)からトリスの瓶を持って顔を出している。表紙は船の一部だったのだ。今号は船と海がコンセプトにある。  それにしても南さんはここではかなり渋い表情。懐かしいオリエンタルのスナックカレーのコマーシャルの南さんとはとても思えない、クールな一面を知ることができる。
 第37号の「三行案内」を一つだけ紹介しておく。“ヨーテン”の三行広告は本気度30%、ジョーク70%という比率で読んだ方がいい。ともかく文章の羅列が漢詩のように緻密で老獪。 《食餌療法(健康美容食)個人指導資料提供同研究者望交換文通神戸市茸合区熊内町○×△金治》 (『洋酒天国』第37号より引用)
*
 今号の見開き特大ヌード・フォト「ヨーテンスコープ」は日劇ミュージックホールのダンサー、花浦久美さん。  考えてみればこの「ヨーテンスコープ」は、この本の大きな購買力を担っていたであろうし、日劇ミュージックホールの良き宣伝ともなっている。モデルの魅力が伝わって客足が伸びれば、日劇側もこのヌードモデル貸し出しに乗り気であっただろう。持ちつ持たれつ。ヌード・フォトは奥が深い。
 『洋酒天国』には、こうした視覚性の諧謔がある。この本はかつて“夜の岩波文庫”と言われたらしいが、酒と女にまつわる知的なエッセイを巧みに鏤めつつ、ど迫力なヌード・フォトを一冊の中に眺望できる仕組みはまったく外連味がなく素晴らしい。まさに諧謔の実利である。酒の重商主義である。壽屋はこの時代、ゆったりと巷の“夜の文化”を築いていったのだ。
*
 さて、小説。個人的な文学趣味では馴染みの薄かったドイツの作家、クルト・クーゼンベルク。その短篇「瓶」(「壜」“La Botella”1940年)。前川道介訳。ここでのページは、クーゼンベルクと柳原良平氏のイラストの共作、コラボレートの味わいを愉しむことができる。
 アラクの酒を飲み干した年老いた船長は、その空っぽの瓶に、帆船のモデルシップを仕込むことを思いついた。船の名はエルナ。思いついてから2、3週間。船長はモデルシップの製作に夢中になり、コルクの栓をしタールを塗ってようやく完成させた…

ボマルツォの怪物

私は中学生時代に仲間内で、トランスミッターを使ってラジオ放送ごっこをやっていた。
 そもそも当時(1980年代後半)、夏期の海水浴場などでミニFM放送というのが流行っていたのを知って、それを真似て、トランスミッターをラジカセにつなげば、周波数変調方式で微弱の電波を飛ばせられFMラジオで受信できるということで、ディスクジョッキーの番組を自分たちで企画し拵えてラジオ放送ごっこをしていたのだった。私は今になってこれを“少年ラジオ”(の時代)と自称している。その関連において、自らの少年時代の思い出を簡便に括ることができる。

 些か、中学生の熱っぽさというのは、度を超して飛翔し飛躍する。ラジオ放送ごっこでは、ラジオの法則を模倣したマニアックな域に達し、番宣用のスポットなどというものまでテープ編集で拵えたりした。番宣用のスポットとは、いずれ放送するであろう番組の、尺を短くしたスポット・コマーシャルのことだ。
 1985年に自作した番宣スポットを試聴すると、こんなのがあった。以下、そのナレーション。 《夏休みスペシャル「郷土浪漫」。怪奇公園○×神社の歴史と謎。土手の麓に造られたグロテスクな怪奇公園。その中の二つの神社の歴史と謎を二人の男が追う。真夜中に公園のブランコが鳴る。出演者○○○、×××。夏休みスペシャル「郷土浪漫」ご期待下さい》
 低いトーンのナレーションに細野晴臣氏の音楽がBGMとしてかぶされていておどろおどろしい。全体として馬鹿馬鹿しい内容である。が、実はその頃、あるテレビ番組を見ていて、外国にある“怪奇公園”を知って感心したのだった。その森のような場所の公園には、古びたグロテスクな石像群が配置されていて、とても恐ろしい化け物公園のように見えた。
 私はこれに感化されてあの番宣を作ったのだ。当然それは一つの企画であったから、後日そこへ行って(もちろん普通の神社であるけれど)レポーター役を演じて録音するつもりであった。例えば――あまり人の踏み入らない夜の神社の、ブランコが突然動いたり、恐ろしい声が聞こえてきたりとか、そういう心霊現象的なサプライズを煽った内容――。すべて音声のみの演出。
 結局のところ、この企画は実現できず、あの番宣スポットを拵えただけに終わった。少年ラジオはどこまでも一途でマニアックである。
*
 前置きが長くなってしまった。私はずっと“怪奇公園”…

キュレーションの時代とディジー・ミズ・リジー

昭和56年4月23日、プロレスラー・初代タイガーマスクのデビュー戦(対ダイナマイト・キッド戦、場所は東京・蔵前国技館)でタイガーマスクがあるロックバンドの生演奏に合わせてリングに入場した、という衝撃的なシーンを私は忘れない。  小学生だった私は(翌日放送の?)テレビでそれを観たのだった。当時プロレスの試合で観たことがなかった光景――ロックバンドの生演奏でレスラーが入場する――は、衝撃的なイメージとして脳裏に刻まれた。いったいあのロックバンドは何者なのか。何故彼らは蔵前国技館でレスラーの入場シーンを演出しなければならなかったのか。そういう謎めいた疑問もロックバンドの幻想を膨らませる要因となった。
 いつの頃だったか、あの赤い服姿のロックバンドは、“ブレイン・ウォッシュ・バンド”だと分かった。その後何度かデビュー戦の映像を観る機会があったが、奇妙なことに彼らの演奏はまったく別の曲に差し替えられていて、聴くことができなくなっていた(今ではマニアックなプロレス入場テーマ全集CDで“ブレイン・ウォッシュ・バンド”のあの時の演奏を聴くことができるらしい)。
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 佐々木俊尚著『キュレーションの時代』(ちくま新書)を読んでいて、ふとそんな幻のロックバンドのことを思い浮かべたのだった。現在のインターネットを中核とした情報発信の革新性をどうとらえるべきか知りたくて、私はこの本を買い、読み始めたのだ。
 情報の共有とつながりについての革命、すなわち旧来型のマスメディアの時代が終焉、といった趣旨の内容を理解しつつも、私があの時幻のロックバンドと思い込んだ“ブレイン・ウォッシュ・バンド”のような瑣事は、今の情報発信の時代の、底辺に沈殿した大きな起爆剤となっているのではないかという思いがぬぐい去れない。
 旧来型の一方通行的なメディア戦略では絶対に私が知ることのできなかったバンドの情報を、今やその情報を共有するビオトープにネットワークを通じて赴くことによって、簡単に情報を掴み取ることができる時代。そして反対の立場で情報を開示し発信し拡散させ、アウトサイドのものとインサイドのものとの価値を引き寄せていくキュレーターの存在がそこにあれば、これらの情報共有の世界はより複雑に、広く、深く、浸透していくものだということであろうか。いずれにしてもこの本が出版された2011年以降、さらにこの革新は進…

小学4年社会のハイトップ

学生時代、参考書を買い込んで予習復習の猛勉強した、という経験がほとんどない。不真面目一辺倒。だから成績なんて上がらない。  ただし一時だけ、例外があった。小学4年。その時だけ意欲があって、小学4年時(1982年)に旺文社の『ハイトップ』参考書を買った。その“社会”の参考書が、驚くべきことに今でも手元に残っているのだ。

 私自身の学生時代の不真面目さには波があった。中学校時代は底知れぬ不勉強の毎日であったが、小学4年の時は、クラスメイトの関係に意外にも恵まれ、勉強意欲を大いにそそられたのだった。生活全般でも小学4年の思い出がいちばん深くて濃い。  もっと端的に言ってしまえば、その頃真剣な恋をしていたのである。したがって学校という本来退屈きわまりない環境が、その1年間だけはまるで違った環境に見え、香り豊かな、色鮮やかなと形容すべき毎日を濃厚に体験した。その時の小学4年社会のハイトップ参考書がいまだ現存している理由は単純なことで、俄に思い出が蘇るための装置として、本を残すべく残したものだ、ということなのである。
 そんな個人的な思い出はさておき、旺文社『ハイトップ 小学4年社会』を開いてみる。  初版はどうやら1978年らしい。本のカヴァーはとっくの昔に無くなった。見開きの一色刷の写真では、“新しいまち”として解説された東京の多摩ニュータウンの俯瞰の全景写真が掲載されていて、時代を感じさせる。  多摩ニュータウン。まだ疎らながらも、車両が通行している整備された道路と高架化された美しい歩道。その歩道には、幾組もの家族が写っており、表情まではさすがに見えぬがおそらく満ち足りた幸福感を噛みしめて歩いていたのではないか。そうして丘陵にそびえる団地と高層ビル。何もかも新しい都市といった風情。  この参考書では、社会科すなわち「公共」と「公民」という基本的な概念の学習がねらいであり、その多摩ニュータウンの全景写真からそういった趣旨が透けて見えてくるのだ。
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 『ハイトップ 小学4年社会』の内容は全4編に分かれている。第1編が「地図の見かた・資料の使いかた」(第1章 地図の見かた、第2章 資料の使いかた)、第2編が「健康で安全な生活」(第1章 健康なくらし、第2章 安全なくらし)、第3編が「生活を高めるために」(第1章 市や県の仕事、第2章 地域の開発と保全)、第4編が「いろい…

われらの小山ゆうえんち

最近手掛けた曲「これぞ運命」の歌詞の中に“小山ゆうえんち”という遊園地の名称が出てくる。
 小山ゆうえんちとは?  それはつまり、かつて栃木県小山市に所在した遊園地、小山ゆうえんちのことである。そこは私が幼少の頃の、電車に乗って行ってもさほど遠くない所にある憧れのアミューズメント・パークであった。観覧車やジェットコースター、メリーゴーランドにお化け屋敷、夏はお決まりのプール。地方の遊園地としては比較的規模の大きい商業施設であった。
 全国的な知名度で言えば、その昔、名称が桜金造さんのギャグにもなったことから、案外知られた遊園地であったかも知れない。  この小山ゆうえんちは、「これぞ運命」のオリジナル・ヴァージョンが作られた2005年に閉園となり、およそ45年続いた歴史に幕を下ろしている。すっかり忘れかけていた小山ゆうえんちについて、今更ながら只々個人的な思い出を書く以外にない。
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 家の、数十年間の生活史が詰まった古い写真アルバムの中に、時折小山ゆうえんちで遊んだスナップ写真が紛れ込んでいる。その中で、ひょっとするとこれが最後の小山ゆうえんちだったかも知れないと思える写真が、あった。
 それは1984年の夏。小学6年生だった私が父に連れられて行った小山ゆうえんちでの写真。目的はプール。  写真をじっくり刮目してみると、小山タワーが写っている。小山タワー? あんな目立つ大きなタワーがあったのかと、その存在を私は憶えていない。だがおそらくあそこの大食堂で、当然のように昼ご飯をなにか食べたのかも知れない。タワーの外では赤や黄色のダリアが咲き乱れている。黄色いヒマワリや他の花々も見られる。私は水着を入れたバッグを左手に、漠然と佇立して被写体となっている。
 もう一つの写真は観覧車――。鬱陶しい灰色の雲。なんとなく人気の少ない感じの園内。  はっきり言ってしまえば、もうこの頃の小山ゆうえんちは斜陽であった。何故か冴えない表情をしている私の心は、まったく間に合いそうもない夏休みの宿題のことで落ち込んでいるのか、あるいはこの園内の、密度のうすい落ち着かない空間のざわめきの、そのどうしようもない不均衡を感じたのか。
 不均衡。そもそも遊園地とは、どこか陰のある不均衡な場所である。人気が少ないことで余計にそれを感じてしまうことがある。
 そうした気持ちがたまらなくなってか、や…

『洋酒天国』とパリの饒舌

前回の第26号で高円寺のトリスバーについて触れたが、同様にして今号には、“トリスバー 港”のゴム印が押されてある。豊島区池袋の2-1、144番地と所在地も明確で、あの時代のトリスバーの痕跡記録としてここに明示しておく。
 E・H・エリックさんが表紙の『洋酒天国』(洋酒天国社)第25号は昭和33年5月発行。懐かしいコメディアンとしての印象が強いエリックさんだが、子供の頃、よくテレビで見かけた“イー・エイチ・エリック”さんについて、“イー・エイチ”とはどんな名前の頭文字? と親に訊いても答えてくれず、岡田眞澄さんのお兄さんよ、としか教えてくれなかったりして、大人をからかったことになってしまい、やはり“ヘンな外人”という触れ込みを真に受けてしまったこともある。  ともあれ、フランス生まれの日本人であるエリックさんは、今号の重要なキーパーソンでもある(日劇ミュージックホール出身ということも)。
 「酔って件の如し③」は写真家・田沼武能氏の撮影による、作家・吉田健一氏のスナップ。モノクロームに印画されたその紳士の姿はどこか飄々としていてとらえどころがない。彼の「戯れに」という文章を読んでも焦点が暈けて判然としないが故に、この人らしいということである。  私自身、彼の作品を読んだことがあるか否か。英文学の訳本を何かしら読んだ可能性はあるかも知れないが、以前、平塚らいてうと森田草平のことを調べていて彼の評論文に出くわしたのを思い出した(当ブログ「『煤煙』と平塚らいてうのこと〈二〉」参照)。言わずもがな、酒に酔っていない彼の評論は明晰だ。
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 美術評論家の瀬木慎一著「パリの饒舌と酒」。標題を砕けば、これは“パリ人の1日の生活”ということになる。パリ人はのんびりとながらも昼間はよく働き、夜は映画や芝居やショウを愉しむ。もちろん1日の生活で酒は絶対と言っていいくらいに欠かせない。
 地下鉄に乗ると節酒のポスターが方々に掲げられていた、という瀬木氏の話が面白い。  「一日一リットル以上のむな」の文句。日本であればこれはジョークのたぐいかと思われがちだがどうやら大真面目らしい。彼らは一日平均2リットル飲むのだとか。おそらく日本人なら酒をガバガバ飲む姿をイメージするのだろうがそうではなく、食前食中食後を通じて一定の量をちびりちびりと飲むという。だから昼間からとろっとしている。その1日…

『洋酒天国』とジンの話

毎度おなじみ『洋酒天国』の話題。
 紹介する今号は、昭和33年6月発行『洋酒天国』第26号(洋酒天国社)。老け込んではいるものの小洒落た給仕を演じる俳優・十朱久雄さんの表紙をめくれば、そこにノールウェイ俚諺《人生は短い しかしその杯を飲みほす時間は まだタップリある》の言葉があって、おもむろに酒を飲む気分に誘われる。
 実はその表紙裏の片隅には、誠に貴重ながら“高円寺トリスバー”と称するゴム印が押してある。「洋酒の壽屋チェーン 高円寺トリスバー 北口駅前」云々。これは『洋酒天国』自体の印刷ではなく、この本を実際に据え置いていた高円寺のトリスバーで押したと思われるゴム印であり、私が所有する『洋酒天国』の半分ほどは、この高円寺トリスバーのゴム印が押されていて、元々の所有者を偲ばせる形見だ。おそらく若い頃高円寺のトリスバー通いをなされた、善良なる小市民であったと、私は勝手に想像する。
 ちなみにというか、そもそも私が初めて“トリスバー”という言葉を知ったのは、野村芳太郎監督の映画『砂の器』(1974年松竹)で出てくる蒲田操車場付近の“トリスバー”だった。もちろんトリスそのものをまだ飲んだことがない学生の頃の話である。  だからしばしトリスバーに憧れた。この壽屋の小冊子『洋酒天国』が当時、そういったトリスバーでどのような場所に据え置かれ、どのようにお客がそれを手に取って読んだか、今となってはなかなか知ることができないのだが、さぞかし明るくて多少猥雑さのある粋な空間ではなかったか。
 さて、ちょっと紹介したいのは、この小冊子の名物コラム「今月のカクテル」。  たびたび眺めてはいるものの、私はあまりカクテルをやらないので、いつもこのコラムはあくまで眼の肥やしにしているだけなのだが、今号の「ホーセス・ネック」(Horse's Neck=馬の首)は度肝を抜かれる造作のカクテルで、これはいつか実践してみたい美味しそうなカクテルである。
 レモン1個分の皮を剥いてらせん状に巻いてグラス全体に浸す。そこに氷を入れ、ウイスキーを注ぎ、ジンジャーエールを加えるだけ。コラムではセオドア・ルーズベルト大統領が馬上で飲んだからこの名が付いたと紹介されており、確かに見た目もレモンの皮が馬の鬣のようにも見える。黄褐色の色合いもいい。
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 向井啓雄著「飲んべえ世界航路⑥」をここで紹介しよ…

漱石山房の香り

ちょうど2年前に漱石の『三四郎』を再読して以来、私の部屋は微かにヘリオトロープ(heliotrope)の香りを漂わせている。私の個人的な香りの好みは別として、ヘリオトロープが『三四郎』の小説の中に登場する。
 ――三四郎は野々宮さんの家を訪ねる途中、襯衣(シャツ)を買いに本郷四丁目の唐物屋へ行くと、偶然美禰子とよし子に会う。よし子が三四郎の襯衣を選び、三四郎は美禰子に香水を選んであげる。いい加減に手に取った罎(びん)こそが、ヘリオトロープの香水であった。美禰子は三四郎が選び取ったヘリオトロープに何ら抵抗を示さずそれに決めた――。  気がつけば私は、それを読んだ後いつだったかヘリオトロープに好奇心を抱いた挙げ句、これのオー・デ・コロンを買ってきて、部屋の香り付けにしてしまったのだった。
 私がまだ夏目漱石についてよく馴染んでいない、むしろ“得体の知れない作家”とぼんやり心の隅に止めていた小学低学年の頃、家の書棚に挟まっていた漱石の『三四郎』の本を何かしら手に取ってめくりめくり眺め、その謎めいた本に対する蠱惑な快感をひっそり愉しんでいた。  最近調べてみると、どうやらそれが1972年頃発行の偕成社ジュニア版日本文学シリーズ『三四郎』であると判明した。今風ではないかなり古臭い、焦茶色の版画風の装幀。年少で最も早く漱石を知った『三四郎』の、こうした過去の曖昧であった記憶の射影が、今頃になって少しばかり輪郭を帯びて先鋭になるのを覚え、本との出会いとは実に不思議なものだと思った。
 私は香水の何たるかについては女性ではないから詳しく知らない。けれどヘリオトロープは甘ったるい香りがする。これだけはよく分かる。もしこれに別の香りが付加すれば、かなり辟易とするような甘ったるさである。  例えば小学低学年の頃に経験した父母参観日の教室――。化粧を白く塗りまくって真っ赤な口紅を付け着飾りすぎた母親達数十人の、なんとも言えない香水のきつい悪臭ブレンド。子供らは敏感にその悪臭ブレンドに反応して我慢して身構える。クスクスと笑い出し、鼻を押さえる。先生の話などまるで聞いていない。  さすがにヘリオトロープはそこまできつくない。が、その頃偕成社版の『三四郎』を眺め愉しんでいた私は、まったく同時期に、“三四郎が手に取った罎”の累乗的悪臭を、知らず知らず体感して嗅いでいたことになるのだ。
 とも…

「ささやかな時計の死」に関するささやかな雑感

またもや“時計”にまつわる話である(当ブログ2013年8月13日付「パタパタ電波時計と学習教材のこと」、同年8月15日付「時計と時刻の話」参照)。

 2005年発行の高校国語教科書『新現代文』(筑摩書房)に村上春樹氏のエッセイが扱われている。「ささやかな時計の死」。普段私は村上春樹氏が書いた小説その他を読んだりしないのだが、教科書のエッセイは文庫版(新潮文庫)の『村上朝日堂 はいほー!』に拠ったとある。先入観なく読めそうな気がしたので、私はこれを読んだ。酒に酔ってジャズやクラシックを聴くまでもない、ありきたりな静寂な時間を過ごすために。
 ともかく時計の話である。彼が子供の頃に体験した時計のねじを巻く行為。かつては、時計を動かすのにねじを巻かなければならなかった。時計が止まると、ねじを巻いてまた動かす。日常的にそれは繰り返され、億劫であっても時計のねじを巻くことは所有者(及びその家族)の日課であったのだ。
 彼はそれが時代と共に電池で動く時計へと変わって、ねじ巻きから解放されたものの、ニ、三年に一度の電池時計の突然の死――突然の電池切れ――を経験するようになって、その時計の死の「冷たく重いもの」に「宿命の避けがたい到来」を思わせる、と述べている。
 私が子供の頃は、既に身近な時計のほぼすべてが乾電池やリチウム電池で動く時計であったし、それがアナログ時計であろうとデジタル数字の時計であろうと同じで、時計が突然止まるということは、電池がなくなって切れてしまったということだと認識できていた。時計の古い電池を取り外して、新しい電池を買ってきて入れさえすれば、時計は再び動き出す。村上氏が仰々しく言うほど、それが「冷たく重いもの」という感覚はない。
 むしろ私は、日常的に何の変哲もない時計が、気がつくと止まっていたり時刻が大幅に狂っていたりすると、あっと思い、まるで日常の天使が一瞬だけ非日常の悪魔を召喚したかのような快感を覚えるのだ。その一瞬の空気が変わる様が、私にとってはとても心地良い気分転換となることが多い。
 ところが、子供の頃から電池時計に馴染みきっていた私が、ある環境下で、訳も分からず古い時代へとタイムスリップしたような状況になってしまったことがある。
 今でもその理由が分からないのだ――。私が小学校を卒業し、中学校へ入学したのは、1985年のことである。増築し…

エンブレムと映画『東京オリンピック』

去る8月31日付朝日新聞朝刊に、1964年の東京五輪エンブレムを手掛けたグラフィック・デザイナー、亀倉雄策氏に関する記事が掲載された。《64年東京五輪 象徴する思想》というサブタイトルがいみじくも躍る。
 5年後の2020年東京五輪を控えた今、何故回顧的に51年前の1964年東京五輪のエンブレムのトピックかと言えば、2020年東京五輪エンブレムの白紙撤回問題が時事として横たわっていたのは明白でありつつ、その背景として、デザインという分野の特殊性に限らずありとあらゆる芸術作品に付随するはずの、クリエイター側の(本質的な)創作信念の喪失という省察課題が浮かび上がってきたからだろう。
 そうしてこの問題が浮上するたびに、あの1964年東京五輪のエンブレムが引き合いに出されるのだ。あの大きな赤い丸の、装飾を一切削ぎ落とした見事なデザインが――。
 ところで私自身、まだ生まれていない1964年の東京五輪そのものを知ったのは、おそらく小学校に入ってからだと推測する。それは何故か。  当時1980年代前半、小学校では恒例行事の運動会を秋に、それも体育の日に因んでおこなっていた。運動会の予行練習では異常なほど開会式の行進と鼓笛パレードの練習及び国旗掲揚の段取りに力を入れ、児童の被る帽子を赤と白に分け紅組白組で競い合うという構図であったし、全競技の中でメイン競技とされたのは、やはり男女それぞれの100メートル走であった。この運動会全体の緻密な演出と装置が、あの1964年東京五輪の模倣であると知り、私は子供ながら愕然としたのだった。
 かつて東京でオリンピックがあったということを、そうした体験をきっかけに後々理解していったのだろうが、それより以前に、幼児の頃に貪り読んでいた(写真や図案に見入っていた)百科事典、学研『原色学習図解百科』第10巻「新しい造形と美術」(大日本印刷・1968年初版)の中に、あのエンブレムの写真があった(この百科事典については当ブログ「新しい造形と美術」参照)。  となると、幼児期にあの赤い丸の特徴的な図案写真を、しばし脳内に刻み込んだ可能性はある。あまりにもシンプルでインパクトがあり、強烈な赤の視覚的パッセージは、観る者の観念と行動を何かしら誘発させる力を秘めていて、じっと落ち着いて見ていられるだけの静謐な受け身の感覚はほぼあり得ない。
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 本題である…

『洋酒天国』とチラリパチリの話

ブルターニュ古諺《パンと酒(ヴァン)なくてなんのおのれが恋かな》で始まる『洋酒天国』(洋酒天国社)第15号は、昭和32年7月発行。酒の瓶をモチーフにした表紙のイラストは、サン・アドの元社長、山崎隆夫氏。  昭和32年(1957年)の大きな出来事は何だったか調べてみると、ソビエトの人工衛星スプートニク打ち上げがこの年。スプートニクの成功によって米ソ冷戦下の宇宙競争時代が幕開けとなる。国内の出来事としては、岸信介内閣成立、茨城県東海村の日本原子力研究所で初めて原子の火が点った、などが挙げられよう。
 戦後まだ12年しか経っていないそんな慌ただしい時代に敢えて“ヨーテン”に読み耽り、粋な酒を愉しむ都会の紳士達は、どこかお気楽な、世相などどこ吹く風と悠々自適ぶりを発揮したサラリーマンであったか否か。少なくともこの時代の“ヨーテン”を読むかぎり、まだ癒し切れていないであろう戦後の生々しさは微塵も感じられない。ところで、ここにもお気楽な人がいた。
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 田口泖(りゅう)三郎。この人の肩書きは、色彩心理研究所長となっている。第15号のエッセイ「チラリパチリ パリはキスの都」の著者である。  色彩心理とはなんぞや? についてはさておき、この人が撮影する写真芸こそ、チラリパチリなのである。
 フランスはパリ。車中の田口氏が森に佇む男女をチラリパチリ。ブローニュの森で彼が“永年芸術”と評するキスのしぐさ、そのアベックのキスの最中をとらえた写真。F2.8、1/50秒。暗い車内に後尾窓から森の光が飛び込んで、まるで映写機のスクリーンのような構図。たった1枚しか撮れなかったと嘆く田口氏。
 コンセプトは、芸術の都パリでエロを写真にすること。調子の狂ったピアノを聴きながら、モンマルトルの丘の小料理屋でぶどう酒と貝料理を召し上がる。続いてピガールの街でストリップを観、そこでもチラリパチリ。F1.4、1/4秒。スロー・シャッターの限界、決定的時間は秘技を要するのだという。  田口氏の写真は確かに限界っぽく、ストロボ無しの室内照明のみのぼんやりした写真ではある。何を模した芝居か分からぬが、さすが芸術の都パリ、ストリップもどこか気品があってフランス的情趣がある。この店でシャンソン歌手の石井好子さんが歌っていたとも田口氏は書いている。日本のストリップ小屋とは大違い、インテリジェンスに富んだ一幕。そ…

『洋酒天国』とメフィストフェレス

こんなことがあっていいのか、昨夜これを書くために無数の『洋酒天国』を散らかして読んでいたら、“アンクルトリス”の柳原良平氏が亡くなった、という一報を知った。17日、呼吸不全。84歳――。突然の因果で狼狽したけれど、さらに偶然というか故人のお導きというか、今回の話題の伏線となる柳原氏のイラストがめっぽう際立っていて素晴らしく、その稀代の職人芸が偲ばれる。この稿を氏に捧げたい。
 『洋酒天国』(洋酒天国社)第34号は昭和34年3月発行。表紙のヒゲ男はトニー谷さん。  それまで私は詳しく知らなかったが、このトニー谷という人の様々な史実や噂話を掻き集めていたらあまりにも面白く、この稿の筆が進まなくなってしまった。良からぬほど凄い。尤も、面白いというのはあくまで画一的表面的な意味であり、悉く他人に嫌われていた醜聞のたぐいを読めば読むほど、この人の真の孤独性が露わになる。血の通った芸だ。ともかく芸はしっかりとしていてどんぴしゃりであったことは周知の通りである。
 話は違うが、この号の編集後記に、立派なビルの写真が掲載されていた。これがこの当時の壽屋(現サントリーホールディングス)の新社屋だった。そこの文章に、《御成婚に賑わう街を横目に、我等は新大手町ビルに引越しました。上の写真がそれです。移転記念に奮発して来月は特大号を出します》とある。
 少し調べてみた。  小玉武著『「洋酒天国」とその時代』(ちくま文庫)の“第5章 柳原良平と「アンクルトリス」の軌跡”の中にそのあたりのことが書かれてあった。要約すれば、《茅場町の木造二階建て社屋は手狭》で差し支えるようになったため、《昭和三十三年四月、東京大手町の一等地にある九階建ての新大手町ビルに東京支店を移転》ということらしい。しかし、先の編集後記の文章とは、1年の誤差があるではないか。
 これはつまり、前者は『洋酒天国』の編集部が引っ越した、のが昭和34年3月という解釈で、その前年には既に社屋として移転していた、ということになろうか。いずれにしても昭和33年に“アンクルトリス”のコマーシャルが電通賞などを受賞し、壽屋の洋酒ブームが間違いなく会社のビルドアップに貢献していたことは事実だ。
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 さてさて、第34号。谷譲次著の短篇小説を読んでみた。ペンネーム違いで“丹下左膳”の作者である戦前の作家・谷氏のめりけんじゃっぷもの。  『…

「白州」からドビュッシーへ

暑さが幾分緩くなった夏の夜、微かに湿った肌の汗を拭き取り、夏の陰りを感じながら、私はシングルモルトウイスキー「白州」を口に含んだ。しばらくぶりの「白州」だった。  一瞬、瑞々しい森の香りがして喉を通り過ぎた。耳をそばだてれば、どこからかツクツクボウシがほどよい音量で鳴いている。静かに夏の終わりを迎えている。
 「白州」のグリーンのボトル。そして大地と森を想わせる独特の風味は、いわゆるゴツゴツとしたウイスキー特有の口当たりに伴って、爽やかな気分を漂わせてくれる。腹の奥にシュッと液体が落ちていく際の何とも言いようのない快感。今度は胸から頭部にかけて駆け上がる風の如し、樽につけ込まれ甘く熟成された豊潤な液体が身体を熱く燃え上がらせ、ウイスキーならではの醍醐味を味わう悦楽。私は好んでこの酒を飲んできた。
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 8年前、私は自主制作の短篇映像作品の撮影のため、八ヶ岳の麓を訪れた。その物語はこうである。
《15年前、英国のとあるオークション会場で入手した“幻のフィルム”=「ディープフォレスト」は、すぐに盗難に遭った。そのフィルムを忘れることができない主人公の男は、残されたフィルムの切れ端を形見に、毎年のように深い森の“隠れ家”にやってくる。そしてそこで、“幻のフィルム”の女性と再会を果たす…》
 主人公の男が酒を飲むシーンで、“グリーン・ボトル”を片手に、そしてグラスを片手にするはずであった。けれどもその“グリーン・ボトル”を調達することができず、仕方なしにシビルオレンジジガーとエメラルド・グリーンのグラスで代用することになった。  この物語は酒に酩酊する主人公が、フィルムの切れ端に刻まれた女の幻影に惑溺し、夢か現か分からぬ世界に迷い込み、女との深い交わりを映像化したもので、その“グリーン・ボトル”というプロップの設定演出から窺えるのは、主人公が酩酊する酒は明らかに「白州」なのだ、ということであった。
 この「ディープフォレスト」の物語の音楽モチーフは、ドビュッシーの1904年の作品「映像第1集『水の反映』」(「Reflets dans l'eau」)である。
 あの曲を聴いたことがある人は、なんとなくこの「ディープフォレスト」の全体のイメージを掴むことができると思う。そしてまた、「白州」のシングルモルトウイスキーの味わい深さについても、もしそれを音楽で表現するな…

ハメス・ロドリゲスの記事

高橋陽一さんのマンガ「キャプテン翼」の初期シリーズが『週刊少年ジャンプ』で連載されていた1980年代前半、我が母校の小学校では、それに促されたサッカー・ムーヴメントのうねりが、確かにあった。  ジャンプを買って「キャプテン翼」を読むこと。そして実際にサッカーをやることがステータス・シンボルとなって、その者達は個々のクラスでも一際輝いた少年達となった。クラス毎にサッカー・チームが作られ、“コンドル”“イーグル”“ハゲタカ”というチーム名で3クラスがそれぞれの個性を競い合った。市内のサッカー大会においても、強豪とされた3チームだった。

 さらにちょうどその頃、学区内に小さなスポーツ用品店がオープンして、いろいろなサッカー・ウェアやアクセサリーが子供達のお気に入りアイテムとなり、輪をかけてムーヴメントが加速した。その用品店で販売していた粉末状のGatoradeドリンクがバカ売れしたのを思い出す。スポーツをする子供達が、adidasのバッグに入れて持ち歩いていたGatoradeドリンクもまた、子供達の間で一つのシンボリックなアイテムとなった――。
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 週刊誌『AERA』8.3号(No.33)のハメス・ロドリゲスのインタビュー記事を読み終えて、ふとそんな少年時代の、サッカーにまつわる記憶を思い出した。私は依然としてサッカーの門外漢だが、ハメスと「キャプテン翼」の関係はファンならよく知っているに違いない。
 ハメスは自らの実績と活躍によって、結果的にとんでもない年俸を稼ぎ出したのだが、コロンビアの貧困層の子供達を支援する活動もおこなっているという。そして基金を立ち上げ、社会貢献に力を注いでいる。ハメスは単なる普通のサッカー選手ではないことが、この記事を読んでよく分かった。
 この記事で私が最も刮目し、何度も読み返したのが、ハメスのこの言葉だ。
《自分はなぜプレーするのか。その答えは一つしかない。ハッピーになるためだ。ぼくのモチベーションは、そこにしかない》 (『AERA』8.3号より引用)
 随分昔、グレイシー柔術のリオ出身のトップ・スターが同じようなことを言っていた。ハッピーになること。彼にとっても、それが最大のモチベーションとなり得る。  我ら日本人がこれを“幸福”とか“幸せ”という言葉に置き換えて読み直すと、なんとなくその本意が鉛のように重くなりずれてしまうと感じ…