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思い切って森鷗外を読んでみよう〈二〉

中高生の「読解力」が不足しているという前回の話の続き。であるならば、思い切って明治の文豪・森鷗外の小説を読んでみようという魂胆である。  ごく最近の、中学3年の国語教科書、光村図書の『国語3』(平成28年2月発行)を私は入手した。昔の国語教科書と比べると、新しい方は大判というせいもあって重量感があり、レイアウトや図表の鮮やかさでとっつきやすい。教科書としてはとても優れており充実した内容であって、私はこの教科書を、国語力が身につく“読み物”として、たいへん気に入っている。  この『国語3』の中学3年時の学習内容を分かり易く説明すると、相応の国語力を身につけるため、「話すこと」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」に細分化して学べるようになっている。そのうちの「読むこと」に関しては、詩や小説、俳句、漢文・古文、論説などのジャンルよりそれぞれ作品教材が用意され、語句や文章に注目しながら作品を読み、理解し、味わうということになる。
 『国語3』の「読書生活を豊かに―名作を味わう」は、《移り変わる時代の中で、人々の心に変わらず流れ続けるものを、読書を通じて感じ取ってみよう》という主旨で、森鷗外の短篇『高瀬舟』が用意されている。全文が掲載されているので、これだけですべて読み切ることができるが、中学生用に漢字表記が緩められているから、私は敢えて新潮文庫版の『山椒大夫・高瀬舟』を用意し、こちらを読むことにした。ちなみに教科書の方では、蓬田やすひろ氏のこまやかで闊達な絵がところどころ挿入されていて好感が持てた。
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 かつて私は、学校でお世話になった恩師の若き頃を温ねる旅の一環として、北九州は小倉の、森鷗外の旧居を訪れたことがある(当ブログ「蔵書森―松本清張と恩師を知る旅」参照)。その際、鷗外の小説を疎らに読んだ記憶があるが、遡って若い頃、鷗外の小説としては、『ヰタ・セクスアリス』(1909年)を読んだきり、『舞姫』や『山椒大夫』に関心を抱かなかった。漱石とは比べものにならないほど、鷗外と私は無縁である。  1899(明治32)年、37歳の鷗外は陸軍軍医監となって小倉に赴任する。その旧居はとても質素で、私が直接見たところ、武家の屋敷のような佇まいであった。普請としてだらしのないところが一点もないのだ。1909(明治42)年に小説『ヰタ・セクスアリス』を『スバル』に発表(発禁となる…

フェティシズムの流儀―『奇妙な本棚』

【伴田良輔著『奇妙な本棚』より】
 ハンガリーの写真家マーティン・ムンカッチ(Martin Munkacsi)の写真「Nude with Parasol」が美しく綺麗にソラリゼーション化されて装幀になった本、伴田良輔著『奇妙な本棚』(芸文社・1993年刊)を何故自分が所有しているのか、よく憶えていない。にもかかわらず、この本の影響はとてつもなく大きい。本の帯を見ると、こう記されている。《世にも怪しい白昼夢 限りなく ピクチュアレスクな本の誘惑》――。私はそうした白昼夢に誘われて、しばし夢うつつとなった気分で、この本を買い求めてしまったのだろうか。
 この本を買ってしまったことに別段、後悔しているわけではない。ただ、結論を先に述べれば、私は、この本の中で著者がヘルムート・ニュートンの写真集について言及している部分にひどく(いい意味での)ショックを覚え、そのポラロイドによる写真集の虜になってしまった不思議な体験を言い表したいだけなのだけれど、決してその目的のためにこの本を買い求めたわけではなかったのである。

 私の中で既に、伴田良輔氏という人は、「フェティシズムの化身」たる存在の、一線を画した作家として認識している。著者の別の本『愛の千里眼』(河出書房新社)を学生時代に知り(当ブログ「『震える盆栽』を読んだ頃」参照)、何故私はそのちっぽけな書店の片隅にあった伴田良輔氏の本を偶然手にすることができたのか。その奇跡の発見に驚くと同時に、まさにその本の中の、彼のフェティシズムの極致を覗いてしまったという軽い罪悪感=動揺を覚えた。ひとたび伴田氏の本を読むごとに、そうした気分に晒されるのは他の読書にはない稀有なことである。“怪しい”感動の延長にこそ『奇妙な本棚』があるのだが、既に私は一読者として、伴田氏にボンデージされてしまった「サドとマゾ」の関係下に晒されている。
 『奇妙な本棚』のマーティン・ムンカッチの装幀「Nude with Parasol」は敢えてここで画像として示さないが、そのモチーフの素晴らしさは語り尽くすことができない。とうの昔、同じく伴田氏の著書によって、ムンカッチの『Healthy Bodies』の1カットを鮮明に記憶しており、私はその記憶とこの本とを結びつけている。本の中で伴田氏は、エッセイ「ムンカッチ・スタイル」と題してムンカッチ論を展開した。ムンカッチは伴田氏にとってかなりのお気に入りのフォトグラファーだったのではないだろうか。

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 さて、伴田氏はヘルムート・ニュートンのポラロイド写真集『Pola Woman』(1992年)について、エッセイ「残酷な媚薬」で濃厚に語っている。ベルリン出身のヘルムート・ニュートンはこの時、まだ健在で、《今年72歳》で《その精力は衰えを知らない》と綴る。しかし残念なことにニュートンは2004年に不慮の交通事故で亡くなってしまった。とは言え、「残酷な媚薬」では、伴田氏は彼を《淫力》の男と称している。「淫らな力」というものがこの世に存在するなら、それはこの男のためだと――。

 『Pola Woman』以外で私は、ニュートンのモノクローム写真「オルセー桟橋のマヌカンⅢ、1977年4月パリ」に深い感銘を受けた。
 ――背景はステンレスか何かの金属的な壁面に光が交錯し、その壁の前で「黒い服を着た女」が立っている。女の上半身は服の内側から乳房が露出している。女の視線は、ひどく毛羽立った絨毯の上でうつむけに倒れている全裸の女にあって、この倒れている全裸の女は、「黒い服を着た女」とよく似ている。〈同一の人物ではないか〉ということを想起させ、この黒と白の対称の底深い構図に、思わずハッとなる。ニュートンの写真には、こうした写実の内に、どこか冷酷な暗示があるのだ。

 再び伴田氏による《淫力》の論述に戻ろう。
 ニュートンの持つ《淫力》は、「親密さ」のそれではないとも述べる。これを理解しやすいよう私なりに解釈するとすれば、荒木経惟氏の写真の《淫力》を思い浮かべればいい。彼もまた《淫力》の男と称してよいと思われるが、彼のそれは、男と女がひしめきあう「親密さ」が、そのまま画に現れたものである。翻ってニュートンの写真には、男と女の距離感に、《埋まらない亀裂や溝や生物的な差》があるという。伴田氏は《人工の美のかなた》に、ニュートンは《淫力の根源を見ている》とした。

 故に私は、ニュートンの『Pola Woman』にたいへん好奇心を抱き、数年前にそれを入手することができた。いずれこの『Pola Woman』におけるポラロイド写真について書いてみたいと思っている。それにしても、伴田氏のエッセイの最後の言葉がなかなか重いのだ。これが彼のフェティシズムの流儀とも思えるので、以下、引用しておく。

《永遠のかなたへと人を拉致する死こそ最高の媚薬であると誰かが言っているが、ニュートンの写真の淫らな危うさは、拉致の直前でぎりぎりの生の輝きをかすめとる、残酷な手さばきにあるのである》
(伴田良輔著『奇妙な本棚』「残酷な媚薬」より引用)

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

演劇『金閣寺』追想

横浜・伊勢佐木町の繁華街に、イセザキモールというのがある。僅かながら伊勢佐木町の沿革について調べてみた。
《神奈川県横浜市の中心的商店街で中区にある。東京の銀座、大阪の心斎橋筋などとならび称せられる繁華街。第二次世界大戦後は焼け残ったおもなビルや周辺一帯が広く米軍用地に接収されて復興が著しく遅れたが、現在では活況をとりもどし、各種デパート、商店、映画館がたち並んでいる。この一帯は江戸時代前期、1659年(万治2)の干拓による吉田新田にあたっているが、開港後港を中心とした関内(かんない)すなわち外人向け商店街として開かれ、明治初年に共同して開発にあたった伊勢屋と佐々木氏の屋号をとって、町名にしたという》 (『世界大百科事典』平凡社・1964年初版より引用)
 蛇足ながら私の伊勢佐木町のイメージは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』に登場する夜の伊勢佐木町の街の賑わい、まさに外国人らがわんさかと戯れ酒に酔う姿が主調となり、いま私が真昼に降り立ったこの街の印象と照らし合わせても、何ら遜色ない。  イセザキモールのちょうど入口に建つ古いビルは、関東大震災の復興の一環として昭和初期に建てられ、地域の発展の一躍を担った歴史的な商業ビルである。イセビルという。かつてこのイセビルは横浜の大空襲にも耐え、終戦後は米軍の接収という憂き目にも耐えてきた。そのビルの地下は食堂やカフェーとして利用され、戦後はパブとして賑わったらしい。この地下の壁面には、当時のエジプト風の壁画が今も残っている。ごく最近、この小規模な地下空間が文化の発信地として新しく生まれ変わったというのだ。  それが、クリエイティブスペースTHE CAVEである。私はここにやってきた。ある演劇を観るために。――ビルの階段を降りる。そこは古い歴史を背負った剥き出しの壁と柱。昭和のパブの色褪せた空間。壁には、例の壁画が暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。  この言わば激動の昭和の辛酸を嘗めたイセビルの、その痕跡をとどめる地下空間にて1月9日、私は、若者達による“剥き出し”の演劇『金閣寺』を観たのだった。
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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…