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5月, 2017の投稿を表示しています

大阪万博と音響彫刻のこと

久方ぶりに個人的な“大阪万博”熱が再燃するような、そんな興味深い新聞記事に出合い、そのクラウドファンディングの主旨に賛同し、些かの支援の企てをウェブ上で取り計らった。このネット出資が功を奏するかどうかは現時点では分からない――。しかし、“大阪万博”に対する憧憬と抽象音楽への深い関心の交差は、紛れもなく私自身を一瞬にして突き動かした。このプロジェクトが無事に成功してくれることを祈る以外にない。
 私が突き動かされたのは、朝日新聞朝刊5月27日付茨城版の「再び響け 大阪万博の『音』」という記事である。「音響彫刻修復へ ネットで出資者募る」という副題に刮目し、興味を持った。掻い摘まんで記事の内容を説明すると、1970年の大阪万博で出展されていたフランソワ・バシェ(François Baschet)製作の「音響彫刻」を、茨城県取手市の東京藝術大学ファクトリーセンターが修復・公開することを目的とし、その資金200万円をクラウドファンディングで(6月末まで)募っている――というもの。バシェの「音響彫刻」は17作品あって、過去に修復された5台以外の12台がこれに含まれる(一部寄贈された作品があるらしい)。
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 この「音響彫刻」の修復プロジェクトに関しては、バシェ協会のホームページが詳しい。それとは別に、私自身も独自にこの「音響彫刻」について調べてみた。そもそも“大阪万博”でこのようなオブジェがあったのかということに対し、私はこれまで聞いていたような聞いていなかったような、俄に判然としなかったのだけれども、最近、坂本龍一氏のアルバム『async』の中で過去に修復されたバシェの「音響彫刻」が使用されたことを知り、なんとなく朧気な輪郭が見え始めたのだ。そこではっきりと理解するために、当時の“大阪万博”の公式ガイド本(『日本万国博覧会 公式ガイド』)を開いてみた。
 現代音楽の音楽家・武満徹氏がバシェに依頼して作られた「音響彫刻」は、鉄鋼館で出展された。武満氏は鉄鋼館の芸術監督を担っていた。鉄鋼館は、日本鉄鋼連盟主管のパビリオンで、主立った企業を抜粋すると、八幡製鉄、富士製鉄、日本導管、川崎製鉄、神戸製鋼や大阪製鋼、三菱製鋼、日本ステンレス等々で、その他の組合や協会も連なっている。この公式ガイド本によれば、鉄鋼館は、“世界に誇る音響装置”、“古代ローマのコロシアムを思わせる大ホー…

素朴な感傷―アルルの女

レコードが奏でる物悲しいメロディが、突如として想い出の地の記憶へといざない、可憐な少女の面影を重ね合わせる。かつて聴いていた古ぼけたレコードの「アルルの女」は、見上げるその建物の5階の、あの「部屋」の物語でもあった――。  ジョルジュ・ビゼーの「カルメン」に続き、密やかな郷愁の記憶が甦ったのは、同じビゼーの「アルルの女」(L'Arlésienne)である。厳密に言うと、「アルルの女」の第2組曲第3曲の「メヌエット」(Menuet)であり、フルートのメロディが美しい有名な曲である。
 例によって幼少の頃、百科事典『原色学習図解百科』(1968年学研)の第9巻[楽しい音楽と鑑賞]によるクラシック・レコード集「名曲鑑賞レコード」(EP盤全6枚、全30曲)のうちの“アルル”のメヌエットを聴いた。日本フィルハーモニー交響楽団、渡辺暁雄指揮。  赤いレーベルのEPレコードをプレーヤーに載せ、その針のうごめきに眼を奪われる中、まさに密やかなフルートの音色に耳を傾け、心の些細な動揺を感じ取った平穏な日常の淡い香りは、夜の佇まいとして忘れられない記憶である。そうして矢も盾もたまらなくなって思いを馳せたのは、隣室に住む幼い少女のこと。仲良しだったその少女は、時折こちらの「部屋」に訪れてお飯事(クッキーを作るキッチンの玩具が素敵だった)をして遊んでいた。だが、私の一家がその集合住宅を去る前、彼女の一家もどこかの地へ引っ越してしまったのだった。実にあっけない幸せな月日ではあったものの、私はあの“アルル”のフルートのメロディと共に、今では写真でしか見ることのできない少女の円らな瞳を思い出す。あの「メヌエット」こそが、少女の「姿」の投影であったとさえ思えてならないのだ。
 フランスの文豪、アルフォンス・ドーデの戯曲をもとに作曲された、ビゼーの「アルルの女」組曲。ドーデの戯曲のための付随音楽を、4曲の組曲にしたのが「アルルの女」第1組曲であり、ビゼーの死後あらためて編成されたのが第2組曲である。ドーデの戯曲がとても牧歌的で情愛に満ち、そして不憫な――フランスはプロヴァンスのアルルの地に現れた“アルルの女”に惚れてしまった豪農の息子フレデリの、悲劇と官能の――物語。幼かった私にとっては、そうした物語の背景などまるで分からなかったのだけれど、恋というべきもの、愛というべきものの《核心》…

日下武史さんのこと―この生命は誰のもの?

今月の15日、俳優の日下武史さんが亡くなられた――。新聞の記事によると、誤嚥性肺炎のため静養先のスペインで死去したという。86歳。  日下さんは劇団四季創設時のメンバーの一人で、演出家の浅利慶太さんとは慶應義塾の高等学校時代からの友人であり、慶應大でも文学部を二人とも中退している。彼らの演劇活動は、その大学時代から始まったのだった。
 日下さんが主演した演劇の思い出話をしたいと思う。私が日下さん演じる主人公・早田健の『この生命(いのち)は誰のもの?』を観たのは、今からちょうど30年前である。私はまだ中学3年生であった。演劇がやりたくてやりたくて、中学校の演劇部に所属したものの、あまり盛んに活動がおこなわれなかったことに落胆し、中学2年の半ばで中途挫折したのだ(10代の終わり頃、その熱が再び復活する)。確か前年の10月(つまり中学2年の秋)、新宿の特設テントにて劇団四季の『キャッツ』を観、翌月には市村正親さんと保坂知寿さんによる『ロミオとジュリエット』を青山で観た。すっかり四季の虜になり、1987年の6月に青山劇場で『この生命は誰のもの?』が再演された(初演は1979年)のを観に行った。原作はブライアン・クラークの“Whose Life is it Anyway?”。
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 演劇『この生命は誰のもの?』は、首から下が麻痺して動かない重度の脊髄損傷患者である主人公・早田健(彫刻家)が、「生きるとは何か」について思慮し、能弁ながらも藻掻き歪む、人間の《尊厳》とその《死》をテーマにした重い演劇である。しかしながら、その重たい空気の中にも、舞台での日下さん独特のユーモア、あるいは明るい日常生活への空想と語らい、人を信頼するということ(反抗の真の目的は信頼への筋道)、力強い勇気、そして何よりも生きることは素晴らしいと思えるような、心の拠り所を探る舞台であったように私は記憶する。無論そこには、患者と医者という立場の違いの、烈しい葛藤劇が繰り広げられる。  日下さんは円熟期に到達しつつも、瑞々しい演技の源泉を捨てようとはしなかった。何より今でも、舞台上の彼(ベッドにずっと横たわった状態の早田健)の百花繚乱たる表情、肉厚ある声のトーンは忘れることができず、この時の舞台の醍醐味が私の胸に深く焼き付けられたままなのであった。
 当時の公演プログラムが残っている。スポットライトを浴び…

お菓子の「クールン」の話

ある日、スーパーで買い物をしていると、懐かしい商品が目に飛び込んできた。日清フーズの“お菓子百科”「クールン レアチーズケーキ」である。これを小学生時代、年に一度ほど親に買ってきてもらい、自分で調理して食べるのが楽しみだったのだ。あの時の味と香りは、忘れることができない――。スーパーにてついに決断し、「クールン」に手が伸びた。もしかすると十数年ぶりになるのかも知れないが、久しぶりにこれを拵えてみようと思い立ったのである。
 ところで、「クールン」のレアチーズケーキは、いったいいつ頃から発売されていたのだろうか。ネット検索で調べてみると、意外にもどうも、あまりこういった情報が浮かび上がってこない。唯一記してあった情報によると、発売開始は1979年(昭和54年)らしい。これが信頼のおける情報かどうか、私は確認できていない。  しかし、私が小学生であった昭和50年代に「クールン」を知って食べていたのだから、あながち間違いではないはずだ。だいたいその頃発売されたのだろうと思えばいい。昭和50年代当時、少なくとも私の周囲では、スイーツなどというものはおやつとして贅沢品であった。どら焼きか?鯛焼きか?で大喜びしていたのだから、スイーツはさらにその上のランクの食べ物だ。イチゴのショートケーキですら年に一度食べられるかどうか、そういった今の感覚とは違う古い時代というか古い環境において、「クールン」のレアチーズケーキは本当にありがたいスイーツであったし、夏休みの絵日記にしたくなるような一大イベントなのであった。
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 たぶん作り方はほとんど憶えているから、レシピを見なくても作れる――のだけれど、敢えてレシピを確認しながら久しぶりに「クールン」を作ってみた。
 箱を開けると2つの袋が入っている。ビスケットベースとフィリングミックス。昔とまったく変わらない。まず用意しなければならないのは、皿だ。直径15cmの皿。それも少し深みのある皿が好ましいのだが、これにアルミホイルを敷く。箱の裏側には親切なことに、「皿のサイズの目安」といった15cmの“簡易定規”が記してあって、これに合う皿を選べばいい。昔はこんな目安の“簡易定規”など記してなかったはず。  ボールにビスケットベースを全部入れ、冷たい牛乳を7.5cc入れると書いてある。入れる分量は微量なのだけれど、実はこれがとても重要で、正確…

造形憧憬

幼児教育されているという感覚は、当の幼児にはなかった。そこに広がっていた「世界」は、視覚としての娯楽、聴覚としての豊かな娯楽であった。親から与えられたわけではなく、団地の家の中を徘徊し、片隅に設置された書棚の、何気なく美しいと思われた、ある「本」を手に取ったにすぎない。ただしそれは百科事典であった。「本」を読むというのではなく、その「世界」の閉じ込められた四角張った形状にまず関心があったのだ。  閉じられていた「本」を開き、パラパラと無数の紙が束ねられているのを美しいと思った。そこには文字と称するもの、そして鮮やかな色彩と記号の数々、さらにはシルクスクリーン印刷によって高精細な画や写真が鏤められていた。そうした無限の色彩と造形の「世界」に、私は――幼児でありながら――酔い心地を覚えた。
 それは未知なる「世界」への出発であった。「私」という一個の人間の《現存》の始まり。モノとコトが交じり合う、果てしなき旅――。もはや、全人生のすべての起点とも言うべきこの時の原初体験から、私の中で生まれ出る「思考」は、宿命的に逃れることができなくなったのである。
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 その「本」=百科事典とは、1968年初版本の学研『原色学習図解百科』第10巻「新しい造形と美術」である。この時の原初の体験について、既に当ブログ「新しい造形と美術」で触れている。昭和40年代後半、私が生まれる以前より、『原色学習図解百科』の全10巻は家に有って、団地住まいにおいては片隅の書棚の、下から三段目にそれらは鎮座していた。幼児だった私にとって、最も手の届きやすい位置に、それらが置かれていたことになる。ちなみに、この百科事典の第9巻は、当ブログのトピックスで頻繁に登場させている「楽しい音楽と鑑賞」だ。  現在私が所有している全10巻は、その当時のものではなく、かなり後年に古書店で買い揃えたものである。もう50年近く経過した百科事典にしては、いまだなかなか状態が良い。しかし、当時家にあった『原色学習図解百科』は、発行からさほど年数が経っていないにもかかわらず、なんとなく痛みが激しかったように憶えている。それは私の想像の“上書き”による思い違いであろうか。初版発行から5年ほどしか経過していなかったはずだが、もしかするとそれらは、どこかの伝手によって中古のセットを手に入れたものだったのかも知れない。
 こうして書…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
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 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
 物語(あるいは世界観のようなもの)を大雑把にゆるく説明すると、こういうことになる。ここは広大な砂漠。そこには、国と国を分け隔てる「壁」があり、その「壁」と「壁」との間にある砂漠が、“私たちの国”。果たしてこの「壁」は、いったいいつできたというのだろう。仮国境の外にある“向こう側”、“あっち側”との軋轢によってテロ事件が巻き起こり、「わた…