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武満徹―暗い河の流れに

【武満徹の随筆「暗い河の流れに」】
 先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。
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 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。

 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。

 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。

【高校時代の筑摩書房・国語II】
 「暗い河の流れ」で書かれているのは、大きく分けて3つのこと。まず一つは、筆者自身の音楽と思想に関すること。2つめは、自身の中学時代の戦時体験のこと。もう一つは、1967年の「ノヴェンバー・ステップス」初演に際する、あるアメリカ青年との出会いのこと。
 武満氏の中学時代の戦時体験はとても興味深く、そこでジョセフィン・ベーカーが歌うシャンソンと出合っている。埼玉県の陸軍基地で勤労動員されていた彼は、非常に劣悪で厳しい軍隊経験をし、詞の意味の分からない“軍歌”を歌うことを強要させられていた。ある日基地で、見習士官らによる雄牛屠殺の事件があり、彼はその光景を見たのか否か、文章のうちでは定かではないにせよ、そんなことがあって異常に高ぶった気持ちで半地下壕の宿舎に閉じこもっていたそうである。そこへ、見習士官があらわれ、蓄音機を持ってレコードをかけた。それがジョセフィン・ベーカーのシャンソンであった。

 彼にとって、ジョセフィン・ベーカーは、屠殺を知って高ぶった気持ちを抑える効用の、癒やしのシャンソンであったのだろうか。あるいは自分自身の未来を変えていくような、大きな起点となったものなのだろうか。
 《自由》の精神が剥奪され、集団的一体精神が尊いと叫ばれた虚妄の時代。その時彼は、戦時で強要された、勇ましく物悲しい“軍歌”とはまったく違った響き、その音楽の《自由》なる響きに、なんとも言いようのない感動を覚えたはずだ。武満は述べている。《私の学校生活は戦争で始まり、終戦と同時に終わった。そして〈他者〉はいつでも〈日本〉によってゆがめられていた》。戦後の一変した生活体験で育まれた音楽や詩や愛こそが、現在の私を形成している――。武満にとって新たな時代への信託のきっかけが、ジョセフィン・ベーカーであったことは間違いないだろう。

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【教科書の中の武満徹の肖像写真】
 私は、武満徹という人の身体に流れている思想的感覚が、あらゆる面で舞踏家・土方巽と同じなのではないかと思うことがある。
 土方は、自身の中のそれを《舞踏》という形態で表現し、武満はそれを「音の響き」で表し続けた。いや、補い続けた。いずれも諍うことのできない自身の「生」の実体を秩序ともなく表し、生き方の表明(あるいは記録・克明)を担っている。己の芸術活動とは、決して「美」自体を追求することにあるのではなく(むしろそれは不可能なことであって)、その己の生き方の表明の連続性が、自ずと美と直結していくものなのだ。

 武満は1967年ニューヨークで、カナダに亡命を遂げようとする一人のアメリカ青年と出会った。青年は徴兵を拒み、国外へ逃亡する決意であった。「ノヴェンバー・ステップス」の尺八(の響き)に感動し、画家志望であった青年は、武満に自作の多くの絵画を進呈するつもりだったのだ。
 だが武満は、それを受け取ることをしなかった。武満にとっても、若い頃に経験した忌まわしい記憶とその青年の重苦しい行動の決意とが、同じたぐいのものとして受け止めるべきものであった。しかし武満は、それを一本の線にたぐり寄せ、結ぶことをしなかった。何故であろうか――。

 この時の武満の行動の疑問点を思考することが、私が彼の音楽と触れ合う際の大きな課題となり問題ともなり、それは今でも続くのだけれど、そういうことなのである。そもそも音楽とは、いったいなにものなのか。
 「ノヴェンバー・ステップス」以後、例えばそれは、3年後の1970年大阪万博・鉄鋼館における彼の作品「Crossing」へとそれなりの拘わりを持つものだとするならば、そのかたちに対する《自由》や《祈り》の“種子”は、バシェの「音響彫刻」にも感じられるものではないだろうか。
 私にとっても新たなスタートなのである。人生の新たなスタートと言うべきもの。武満徹の音楽が、より親密な響きとなって耳に残ることを、とても心地良く感じ、それを風の精霊の仕業のように、とらえていきたい。

 次稿へ続く。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…