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京都へ―8年ぶりの鳩居堂

4月17日、京都の街をぶらり散策した。お目当ては、鳩居堂本店と二条城を訪れること。日中のあいにくの曇り空から夕刻には雨が降り出したこの日、別段、私の心には、それを憂う気持ちはなかった。天候などどうでもいい。お天道様の気儘さには逆らわない。すべて受け入れる。雨もよかろう。風情がある。こうして唯々、8年ぶりに京都に“帰ってきた”という思いが、感極まる何よりの悦びであり、その他に何もいらなかったのである。
8年前の京都散策を振り返ってみる。2010年3月30日と翌31日。――桜の花が咲き乱れる下鴨神社あたりから歩き始めた私は、およそ半日かけて街中をぶらぶらしたのだった。今出川通から百万遍、それから銀閣寺(慈照寺)へ。そして法然院、南禅寺とまわり、琵琶湖疎水のあたりから三条京阪へ。翌日は、河原町三条の寺町通にある鳩居堂へ。そこで文房具の土産物を買い、先斗町方面を歩いた。そうして作家・平野啓一郎の小説に出てくる高瀬川の面影を脳裏に刻みつつ、喫茶ポワレの佇まいを横目に、四条河原町界隈へと抜けた――。
 近いうちに京都へ、そしてまた鳩居堂へ訪れよう、と決心したものの、それから8年もの歳月が流れてしまった。愕然としてしまうほど長い時間の隔たり。この間、愛して已まない京都へ一度も足を運ぶことができなかった理由は、多々あった。2011年3月に東日本大震災。旅行どころではなくなった。そうしてその頃、思いがけずかつての演劇時代の旧友と再会を果たした。もう一方では、自らの音楽サイトの立ち上げというせわしい日々。旅行そのものが煩わしいと思う日々が、ずっと続いたのだ。京都が実に、私にとって縁遠かった。
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 京都駅に着いて、しばし、駅構内の勝手が分からず右往左往したのだけれど、徐々に記憶が甦ってきた。記憶というより身体感覚である。京都タワーを見上げて、その感覚が戻ってきた。やはり京都という所は、やってきた、のではない、“帰ってきた”なのである。  地下鉄烏丸線の烏丸御池駅で東西線に乗り換え、京都市役所前駅で地上に上がった私は、加賀藩邸跡とされる付近の高瀬川を眺めた。8年前の心に残る、懐かしき高瀬川。せせらぎすら聞こえない、このこぢんまりとした小川の雰囲気がなんとも堪らない。このすぐそば、漱石の句碑がある。が、私はその時、句碑の存在にまったく気づかなかった。 《木屋町に宿をとりて川向の御多佳さ…

羊羹と『草枕』と私

【何度も読み耽っている漱石の『草枕』】
 風邪をひいていたから、この前漱石山房記念館を訪れた序で、神楽坂の“物理学校”に寄ることができなかった。悔しい。“物理学校”と言えば、『坊っちゃん』の坊っちゃんである。坊っちゃんは東京物理学校出身で、現在、神楽坂には明治39年建築の校舎が復元され、近代科学資料館となっている。無論、今は“物理学校”とは言わない。東京理科大学である。

 先月の26日、朝日新聞の記事で「『草枕』まるで桃源郷」という宮崎駿監督と半藤一利氏の対談の、“草枕”話を読んだ。『草枕』一つで、二人の語らいが熱を帯びたものになったことが想像される。
 私も『草枕』が急に読みたくなった。と同時に、羊羹が食いたくなった。――羊羹。紫黒色の、餡を練ったり蒸したりして固めた菓子――。『草枕』を読むと、羊羹が食いたくなる。確か10年ほど前、『草枕』を読んだ際には、まだそれほど実物の羊羹に心を奪われることはなかった(当ブログ「漱石の『草枕』」)。が、それ以降である。この小説を何度も読み返しているうち、すっかり羊羹という菓子の虜になってしまった感がある。
 だから私は今、ある老舗和菓子屋の羊羹を調達したのだ。それを頬張りながら『草枕』の字面を愉しんでいる。その老舗は慶応2年創業というから、考えてみれば漱石の生まれた前年ではないか。『草枕』に読み耽り、漱石山房を訪れ、またちまちまと『草枕』を開いたりしている。風邪はなんとかかんとか、おさまってきたようだ。

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【11月26日付朝日新聞朝刊より】
 『草枕』を何度も読んでいる。人生のうちにこれほど繰り返して読む小説はあろうか。『草枕』の中の些細な文章が、突然何を思ったか光り輝く瞬間というのがある。それを体験するのがすこぶる愉しい。新聞にもあったが、宮崎監督も《何度読んでも、どこから読んでも面白い》と述べて『草枕』を愉しんでいる。飛行機に乗る時も持っていくそうだから、言わば旅のお供の本である。私もそのように感じることがある。
 『草枕』は、本(小説)の体裁よりはむしろ、旅に供する“行李”(こうり)に近い。若者からすれば、漱石と言えば『猫』だの『坊っちゃん』を読んだりして、とかく『草枕』は敬遠されているだろう。私も若い頃はこれを読むことはしなかった。けれども、だんだん自分が世の中の垢にまみれてくると、ほかの癇に触れる小説などは読みたくなくなり、なにかとビターなような文章の字面を、頭に詰め込みたくなる(数字がいっぱい出てくるような科学書とか、日経新聞とか)。情に溺れそうな小説より、非人情がいい。『草枕』とか『倫敦塔』とか――。そもそも漱石は、そんなような文章を書くのが得意な作家だ。

 今年の夏――。その頃、病で入院していた母のリハビリ生活もだいぶ軽微で快活なものとなり、秋には退院という目処が立った時、なら秋には一人で気晴らしに、松山にでも行こうかと思いついた。買ったばかりの角川文庫の『坊っちゃん』を引っ提げて、宿泊先の予約などもした。だが結局、当日近辺の日程が雑務に追われることが分かってきたので、旅行は取りやめ。手元に残った文庫本の『坊っちゃん』だけは、最後まで読み通した。
 ともかくこの秋からずっと、なにやら漱石絡みである。
 角川文庫版『坊っちゃん』の解説(「夏目漱石――人と文学」)を書いたのは本多顕彰氏だけれど、その最後のページに、早稲田の漱石山房の外観写真が掲載してあった。この写真がよく目に焼き付いた。ちょうど9月末には、漱石山房が記念館となってオープンすることが分かっていたので、松山には行けなかったが漱石山房には行けるだろうとは思い、開館まもなく訪れる予定を組んではいたものの、これもあえなく中止。父が不慮の病で入院の事態となり、気持ちはこの時、ざっくりと漱石から離れていったのを憶えている。

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 11月。父の葬儀が済んで数週間後。前述の宮崎駿監督と半藤一利氏の対談の記事を読んだ。再び、漱石熱が沸き立った。病院を何度も行き来する半年間の生活の疲労が出たせいか、本格的な風邪をひいて熱も出た。日中、『草枕』を読み返し始めた。どこかうまい羊羹を売っている老舗はないかと、思った。それまでどうにもこうにも度重なる雑務に追われていた日程からようやく解放されて、つい先日、念願の漱石山房へ訪れることができた。序での“物理学校”は諦めたものの、羊羹の老舗も程なく見つかった。美味い羊羹を食いながら『草枕』を読んだ。文中の羊羹の箇所を書き出してみる。

《菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好だ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練上げ方は、玉と蠟石の雑種のようで、甚だ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない》
(角川文庫版・夏目漱石著『草枕』より引用)

 昔私は羊羹を見ると、あまりにもあの濃密な、いわゆる朱鷺色を暗黒にまで濃くしたような黒紫色が苦手で、それだけで尋常でない甘味を連想させ、好きでなかった。貰い物の羊羹はとりあえず食うには食うが、自分で羊羹という四角い和菓子を買って、それを味わうといった気分には到底なれなかった。
 それがどうも変わったらしい。『草枕』のなかの羊羹をたたえる箇所を何度も読み返しているうち、次第に羊羹が漱石と一体になった美しいものと思われ、かつて食わず嫌いだった四角い魔物の印象が徐々にほどけていき、今ではすっかり羊羹が好物になってしまっている。それもなるだけ、老舗の羊羹がいい。
 『草枕』では羊羹のくだりが、まだある。老人が画工らに差し出した端渓の硯(すずり)の「鴝鵒眼」(くよくがん)を表す修辞で、以下の文の箇所だ。

《眼と地の相交わる所が、次第に色を取り替えて、いつ取り替えたか、殆どわが眼の欺かれたるを見出し得ぬ事である。形容して見ると紫色の蒸羊羹の奥に、隠元豆を、透いて見えるほどの深さに嵌め込んだようなものである》
(角川文庫版『草枕』より引用)

 文庫版の注では「鴝鵒眼」について、《硯の表面に見える丸い斑紋》としている。
 なるほど、そういう硯の画像をネットで調べて見てみた。硯の表面に大小の斑紋があったりする。…うーん、ちょっと不気味である。これが「鴝鵒眼」というものなのか。これが多いほど良いとのことらしいが、私には「鴝鵒眼」など、パンに生えたカビにしか見えない。
 カビの大小で言えば、小さい方がいいに決まっている。しかし、このカビの繁殖にも似た「鴝鵒眼」は、大きい方が良いのだろう。私には何が良くて何が悪いのかさっぱり分からない。斑紋の色合いを、《紫色の蒸羊羹の奥に、隠元豆を…》とした漱石の屈託ない表現に、私は、『草枕』の収まるところに収まった理性の美意識を想起させた。しかも羊羹への敬虔なる追求を惜しまない姿勢に、いっそう感服した次第である。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

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《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
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a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
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