スキップしてメイン コンテンツに移動

☞最新の投稿

読書三昧―『源氏物語』というパンドラの箱

今年はのっけから本が増えて増えてならないのだ。自宅の蔵書が書棚に収まりきれず溢れかえり、あちこち本の塔(まるで卒塔婆のよう)ができて居処を狭くし、煩わしい。しかし、読みたい本が目の前にあるという充足感は格別。諸刃の剣でいずれにしても読書というものは、蔵書が“増書”となり、行き過ぎると“毒書”ともなる。
 昨年は春から夏にかけて、ジョイスの『ユリシーズ』をかじった。かじっただけなので、読後の達観した気分にはならなかったが、連夜読み続けていたその頃、1巻だけでも厚みのある『ユリシーズ』が寝床の傍に3巻も並べられ、さらに隣に『フィネガンズ・ウェイク』が2巻置かれていた。そうなると、かなり手狭となって、これまたひどく分厚い柳瀬尚紀訳『ユリシーズ 1-12』(河出書房新社)を読み出したりすれば、もはやジョイスの本に囲まれた私自身の身体は、狭い窮地に追い込まれた小動物である。この点、巨人ジョイスに隷従した身と言っていい。  それほどの長編小説は懲りて、もう読まないようにしている。にもかかわらず、昨年末、保坂和志氏の些細なコラムを読んだのをきっかけに、紫式部の『源氏物語』にすっかりはまってしまった。これがまた言うまでもなく、大長編である。そうして収まりきれない本が、蔵書が、またしても増えてしまったのだ。いかんいかん…。  確かその前、秋だったと思うが、古書で『日本国語大辞典』全10巻を買い込んだ。これはなんとか書棚を整理して全巻押しくるめることに成功したのだけれど、今まさに岩波と角川とポプラ社(児童書)による『源氏物語』数冊と、絵巻関連の本と、それから瀬戸内寂聴版『源氏物語』全10巻(講談社)を揃えてしまった渦中において、私はじっくりと、この長い物語を耽読することにした。平安貴族の幽玄の世界に浸り、悦楽の気分を味わうために。
§
 『源氏物語』の文体の、その美しくも儚く、時に性的で艶やかな「言葉」の秘めたる鼓動を、なんと驚きをもって表現すれば良いのか。これがいにしえの、平安朝時代に書かれた読み物ということに対する純粋な感動。そこには、まどろんだ一昼夜の風雅にたたずむ男女らの交錯と、あれやこれやの大人びた人間模様の連鎖が記録されているのであり、私はそのことの発見に何度溜め息をついたことか。  岩波書店のPR誌『図書』12月号の保坂和志著「ようやく出会えた源氏物語」を読むと、新…

羊羹と『草枕』と私

【何度も読み耽っている漱石の『草枕』】
 風邪をひいていたから、この前漱石山房記念館を訪れた序で、神楽坂の“物理学校”に寄ることができなかった。悔しい。“物理学校”と言えば、『坊っちゃん』の坊っちゃんである。坊っちゃんは東京物理学校出身で、現在、神楽坂には明治39年建築の校舎が復元され、近代科学資料館となっている。無論、今は“物理学校”とは言わない。東京理科大学である。

 先月の26日、朝日新聞の記事で「『草枕』まるで桃源郷」という宮崎駿監督と半藤一利氏の対談の、“草枕”話を読んだ。『草枕』一つで、二人の語らいが熱を帯びたものになったことが想像される。
 私も『草枕』が急に読みたくなった。と同時に、羊羹が食いたくなった。――羊羹。紫黒色の、餡を練ったり蒸したりして固めた菓子――。『草枕』を読むと、羊羹が食いたくなる。確か10年ほど前、『草枕』を読んだ際には、まだそれほど実物の羊羹に心を奪われることはなかった(当ブログ「漱石の『草枕』」)。が、それ以降である。この小説を何度も読み返しているうち、すっかり羊羹という菓子の虜になってしまった感がある。
 だから私は今、ある老舗和菓子屋の羊羹を調達したのだ。それを頬張りながら『草枕』の字面を愉しんでいる。その老舗は慶応2年創業というから、考えてみれば漱石の生まれた前年ではないか。『草枕』に読み耽り、漱石山房を訪れ、またちまちまと『草枕』を開いたりしている。風邪はなんとかかんとか、おさまってきたようだ。

§

【11月26日付朝日新聞朝刊より】
 『草枕』を何度も読んでいる。人生のうちにこれほど繰り返して読む小説はあろうか。『草枕』の中の些細な文章が、突然何を思ったか光り輝く瞬間というのがある。それを体験するのがすこぶる愉しい。新聞にもあったが、宮崎監督も《何度読んでも、どこから読んでも面白い》と述べて『草枕』を愉しんでいる。飛行機に乗る時も持っていくそうだから、言わば旅のお供の本である。私もそのように感じることがある。
 『草枕』は、本(小説)の体裁よりはむしろ、旅に供する“行李”(こうり)に近い。若者からすれば、漱石と言えば『猫』だの『坊っちゃん』を読んだりして、とかく『草枕』は敬遠されているだろう。私も若い頃はこれを読むことはしなかった。けれども、だんだん自分が世の中の垢にまみれてくると、ほかの癇に触れる小説などは読みたくなくなり、なにかとビターなような文章の字面を、頭に詰め込みたくなる(数字がいっぱい出てくるような科学書とか、日経新聞とか)。情に溺れそうな小説より、非人情がいい。『草枕』とか『倫敦塔』とか――。そもそも漱石は、そんなような文章を書くのが得意な作家だ。

 今年の夏――。その頃、病で入院していた母のリハビリ生活もだいぶ軽微で快活なものとなり、秋には退院という目処が立った時、なら秋には一人で気晴らしに、松山にでも行こうかと思いついた。買ったばかりの角川文庫の『坊っちゃん』を引っ提げて、宿泊先の予約などもした。だが結局、当日近辺の日程が雑務に追われることが分かってきたので、旅行は取りやめ。手元に残った文庫本の『坊っちゃん』だけは、最後まで読み通した。
 ともかくこの秋からずっと、なにやら漱石絡みである。
 角川文庫版『坊っちゃん』の解説(「夏目漱石――人と文学」)を書いたのは本多顕彰氏だけれど、その最後のページに、早稲田の漱石山房の外観写真が掲載してあった。この写真がよく目に焼き付いた。ちょうど9月末には、漱石山房が記念館となってオープンすることが分かっていたので、松山には行けなかったが漱石山房には行けるだろうとは思い、開館まもなく訪れる予定を組んではいたものの、これもあえなく中止。父が不慮の病で入院の事態となり、気持ちはこの時、ざっくりと漱石から離れていったのを憶えている。

§

 11月。父の葬儀が済んで数週間後。前述の宮崎駿監督と半藤一利氏の対談の記事を読んだ。再び、漱石熱が沸き立った。病院を何度も行き来する半年間の生活の疲労が出たせいか、本格的な風邪をひいて熱も出た。日中、『草枕』を読み返し始めた。どこかうまい羊羹を売っている老舗はないかと、思った。それまでどうにもこうにも度重なる雑務に追われていた日程からようやく解放されて、つい先日、念願の漱石山房へ訪れることができた。序での“物理学校”は諦めたものの、羊羹の老舗も程なく見つかった。美味い羊羹を食いながら『草枕』を読んだ。文中の羊羹の箇所を書き出してみる。

《菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好だ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練上げ方は、玉と蠟石の雑種のようで、甚だ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない》
(角川文庫版・夏目漱石著『草枕』より引用)

 昔私は羊羹を見ると、あまりにもあの濃密な、いわゆる朱鷺色を暗黒にまで濃くしたような黒紫色が苦手で、それだけで尋常でない甘味を連想させ、好きでなかった。貰い物の羊羹はとりあえず食うには食うが、自分で羊羹という四角い和菓子を買って、それを味わうといった気分には到底なれなかった。
 それがどうも変わったらしい。『草枕』のなかの羊羹をたたえる箇所を何度も読み返しているうち、次第に羊羹が漱石と一体になった美しいものと思われ、かつて食わず嫌いだった四角い魔物の印象が徐々にほどけていき、今ではすっかり羊羹が好物になってしまっている。それもなるだけ、老舗の羊羹がいい。
 『草枕』では羊羹のくだりが、まだある。老人が画工らに差し出した端渓の硯(すずり)の「鴝鵒眼」(くよくがん)を表す修辞で、以下の文の箇所だ。

《眼と地の相交わる所が、次第に色を取り替えて、いつ取り替えたか、殆どわが眼の欺かれたるを見出し得ぬ事である。形容して見ると紫色の蒸羊羹の奥に、隠元豆を、透いて見えるほどの深さに嵌め込んだようなものである》
(角川文庫版『草枕』より引用)

 文庫版の注では「鴝鵒眼」について、《硯の表面に見える丸い斑紋》としている。
 なるほど、そういう硯の画像をネットで調べて見てみた。硯の表面に大小の斑紋があったりする。…うーん、ちょっと不気味である。これが「鴝鵒眼」というものなのか。これが多いほど良いとのことらしいが、私には「鴝鵒眼」など、パンに生えたカビにしか見えない。
 カビの大小で言えば、小さい方がいいに決まっている。しかし、このカビの繁殖にも似た「鴝鵒眼」は、大きい方が良いのだろう。私には何が良くて何が悪いのかさっぱり分からない。斑紋の色合いを、《紫色の蒸羊羹の奥に、隠元豆を…》とした漱石の屈託ない表現に、私は、『草枕』の収まるところに収まった理性の美意識を想起させた。しかも羊羹への敬虔なる追求を惜しまない姿勢に、いっそう感服した次第である。

コメント

★人気の投稿

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

古河駅130年と伊勢甚

旧国鉄東北本線で唯一茨城県に停車した“古河駅”の歴史を紹介する企画展「古河駅130年とまちのすがた」が古河市歴史博物館にて催され、先日私はこの博物館を訪れた。この駅にまつわる個人的な小学校時代の思い出は、当ブログ「駅の伝言板」で書いた。今回もそれに関連した話を綴りたい。
 古河市中央町にある歴史博物館は、入館こそ初めてであったものの、十数年前にこの近くを訪れたことがある。とは言え地元であるから、それこそ数えきれぬほど周辺は歩いているが、歴史博物館の周辺は、かつての古河城下における出城だった場所で、土塁らしき傾斜が今でも点在しており、その十数年前、新品の銀塩一眼レフを買ったきっかけで試し撮りの風景写真を撮りに、そういった堀の跡を見て歩いたことがあったのだ。
 その時歴史を見て歩いたつもりが実は薄っぺらいものであったこと。それが今回の入館でよく分かった。博物館の展示を観覧し、これまで何ら地元の歴史を知らなかったことや、目から鱗が落ちる発見などがあり、意外なほど知識欲を掻き立てる材料となって地元の町の見方が変わった――と言い切ってかまわない。
 館内では、江戸時代後期の古河城下の復元模型が展示してある。これがまた広大である。  渡良瀬川に面した長細い土地の周囲を堀で囲み、言わばそこが中洲の城下となって、入り組んだ掘割を船で往来するという風景が想像でき、堀外に整理された武家屋敷と町家を含めた城下全体の趣は、都市空間としてさぞかし風光明媚であったかと思われる。古河藩主、土井利厚(としあつ)と利位(としつら)を仕えた家老で蘭学者である鷹見泉石の稀有な存在も、この城下の鉛色の文明的な輝きに伴って、頗る際立っている。
 土井利位と言えば『雪華図説』で名を知られているが、私の母校の小学校では当時、それに肖って、雪華の多角形をなぞった噴水装置の水場が校内に拵えられ、子供らだけで水遊びをした思い出がある。
 こんな水遊びをした。まず蛇口から水をじゃーじゃー流し続ける。やがて多角形の外周水路から水が溢れ出る。これ幸い、土砂を手で掻き分けて川を模し、土砂と小石を集めてきてダムを造る。ダムをせき止めたり開いたり、川と川をつなげたり。こうなるともう夢中になって時間を忘れて遊びにのめり込んでしまう。  噴水から溢れ出た水が大きくどこまでも流れていく様を見て、私は渡良瀬の河を想った。今思えば、…

モニュメンタルなオザケン

ごくごく近いある夜、バッカスがお呼び立てした「宴」が急遽中止となり、ぽかんとした気分でいたところ、俄にその中止の原因が、水面下による、人間の心の疚しく愚かしい《嫉妬》の仕業だと知り、私は心許なく落胆した。水入りである。  出席者同士の対立というのではないのだ。その人にとって不都合な、不条理と思える局面を理性によって目視静観することのできない利己的な「不安」と「気弱さ」が、事の推移を有為に堰き止め、出る杭を事前に打って抑えつけたのである。こうなると、歌によって何事かを表現することが使命の私にとっては、真っ白になってしまう。何もできない。混迷の一瞬とはまさにこのことであり、舞台の板を外されること、あるいはマイクロフォンのケーブルを外されることは、不本意ながら、私の最も怖れる事態なのである。
 直感というのは恐るべき妄想を生む。そうした顛末の渦中、遠い彼方にいるオザケンのことを想った。私はあまりオザケンのことをよく知らない。知らないが、ただ、1995年のあの曲だけは、特別だ。その頃のテレビ・ドラマ『部屋においでよ』(うちにおいでよ。主演は清水美沙、山口達也)で主題歌だった、「それはちょっと」。なんて懐かしい、22年前の曲。久しぶりにそれをプレーヤーにかけて聴いたのだった。  想えばその時以来、私の関心事はオザケンに及ばなかった。いつの日にか気づいた頃にオザケンは第一線から消えてしまった。その消えた理由について、何かそこには不条理な、愚かしい《嫉妬》であるとか、出る杭が打たれ舞台の板を外されただとか、そんなことがあって憤りを感じたのではないかと、私は勝手に妄想したのだ。この裏打ちのない妄想は心のどこかで共鳴し、反復した。言うなれば負となる不条理に、その消えたオザケンに、シンパシーを感じたのである。
 オザケンの「それはちょっと」と言えば、筒美京平だ。この曲の作詞は小沢健二、作曲は筒美京平、編曲が小沢健二&筒美京平。たまたま近頃、往年のグループ・サウンズ“ヴィレッジ・シンガーズ”を調べていたところ、ここでも筒美京平が絡んできて、独特の“筒美サウンズ”が耳の内側を心地良く叩き、ヴァイブした。「それはちょっと」は8分の4拍子のリズムで小気味いい音色によるイントロ、オザケンの“イチ、ニ、some shit!”というハッスル・シャウトがフレーム・インして始まる。が、いかにも筒美…